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1008 ダイビングの歴史25 どるふぃん
ダイビングの歴史 25 「どるふぃん」 6・3 1962 冬 ☆ 大西博見さんのイラストとマンガがなかなか良いと、好きだった。 1ー2 ページの随想記事を7話載せている。 ☆1 東シナ海深夜の大エビとり 山田尚文 沖縄で大きなゴシキエビをとる話 ☆2 怪談錦が浦 鈴木善太...
View Article1009 ダイビングの歴史 26 どるふぃん
ダイビングの歴史 26 「どるふぃん」 7・2 1963 秋 ☆ クローズドサイクル潜水機について 梨本一郎 梨本先生による、リブリーザの解説である。まだ、リブリーザという用語はしようされていない。また、電子的に酸素濃度を測定して供給するところまでは進化していない。浅い7m程度までの潜水が可能な、原始的な回路の商品名でオキシラングと呼ばれた類の潜水機の説明と使用ちゅういである。...
View Article1010 ダイビングの歴史27 広告
☆ 広告 東京アクアラングサービス 1964年には東京オリンピックがあった。 東京アクアラングサービスは、僕が数えて、東京で三番目にできたダイビングショップ、そのころはアクアラング屋さんと呼んでいた。 一番が、1955年...
View Article1012 ダイビングの歴史 29 1964
ダイビングの歴史 29 どるふぃん 7ー4 1964 春 この前の 7ー3 が1964年の冬で、7ー4 1964年の春だ。まあいいや、細かいこと?にはこだわらない。 伊藤則美さんの意味不明の写真。2回続けられると、なんとなく、わかる。何がわかったかわからないけど。 ☆クストーの水中部落 映画沈黙の世界 の舞台について、これに参加したリード氏を囲んでの座談会だ。...
View Articleダイビングの歴史 30 どるふぃん 1964夏
ダイビングの歴史 30 「どるふぃん」 8ー1 1964 夏 表紙の写真、則美さんから舘石昭になって、やっとまともな写真になった。けど、これはぜんぜんおもしろくない。僕でも撮れそうだ。則美さんのような写真は、とても思いつかない。 実は、水中造形センターは、舘石さんと則美さんが一緒に作り、則美さんが抜けていったものだったのだ。...
View Article1019 ダイビングの歴史 31 1964 秋
ダイビングの歴史 31 「どるふぃん」 8ー1 1964 秋 読売ランド竜宮城が オープンした。 竜宮城は、近藤玲子(バレー団主宰)岩村信夫(ブロードウエイでミュージカル修行をして、日本最高のミュージカルダンサーといわれた。長身で、とにかく、むちゃくちゃにかっこいい人)二人は夫妻でプロダクションを作っていた。 岩村さんが在米中、フロリダのウィキィワッチ・スプリングという大きな泉 ☆田辺さんの記事...
View Article1021 ダイビングの歴史32 どるふぃん 1965秋
ダイビングの歴史 32 「どるふぃん」 9ー1・2 1965 秋 表紙 ユージニー・クラークさんの写真 ☆フランスの潜水事情とプレコンチナン計画・その他 ジャック・イブ・クストー クストーが日仏海洋学会・佐々木忠義会長 の招きで来日した。 クストーは、日本で3回の講演を行い、その記録である。今読み直すと大陸棚開発、海洋開発、海底居住の原点がわかる。 講演...
View Article1022 ダイビングの歴史33 1965
後藤道夫 撮影 ダイビングの歴史 33 1964~ 水中撮影特集 これが「どるふぃん」の最終号になる。 裏表紙は館石昭撮影 ニコノスの日本光学がフルスポンサーになったから出した。また、燃しそうでなければださなかっただろう。水中写真部が編集してだしたものだと記憶している。...
View Article1026 ダイビングの歴史 34 スピアフィッシング
ダイビングの歴史 34 ☆伊豆海洋公園 伊豆海洋公園ができたのは1964年、ビッグニュースだが、「どるふぃん」でとりあげていない。ただ、7月30日に東拓海洋公園で、スポーツ部がスピアフィッシング大会をやったとだけ紹介された。 1964年から、1967年12月までトータクはスピアフィッシングのメッカの一つだった。 ☆スピアフィッシングとは、...
View Article1028 お台場1027
お台場 10月27日 東京海洋大学 千足先生にお願いしてライン調査 尾島ママ、小林さんが参加。 千足メンバーは、大学院学生1名 助手の女性、今度名前聞いておこう。ごめんなさい、忘れている。3名のチーム。50mの巻き尺3本 150mならば、終点の杭までいくだろう。 僕だけがドライスーツで、ほか5名はウエットスーツ、水温は22度...
View Article1110 ダイビングの歴史 36
海の若大将 撮影につかった。 ダイビングの歴史 36 1964 少し遡ろう。1964年トータク海洋公園誕生、東京アクアラングサービスの錦華園ビルにタンクを背負って梯子を昇った東京オリンピックの年だ。法政大学アクアクラブ、獨協大学にもダイビング部が出来る。法政大学は親戚だが獨協の方は、残念ながら、道であったら挨拶する程度のつきあいだ。...
View Article1111 ダイビングの歴史37
ダイビングの歴史 37 海中居住 1 人間は陸棲の動物である。水中には限られた時間だけしかとどまれない。とどまれる時間を左右するのは、まず呼吸する気体である。呼吸気体が絶たれれば、あっという間に窒息死する。これは、潜水器で送気する。 次に生命維持の環境の問題がある。寒さ、食事、排泄...
View Article1112 ダイビングの歴史
コンシェルフ Ⅲ ダイビングの歴史 38 海底居住2 シーラブ Ⅰ 1964 米国海軍の、ジェネシス実験の延長線上の海底居住計画である。 ハビタートは、直径3m長さ12,2mの葉巻型である。 バーミューダ沖、水深58、8mに設置された。 呼吸ガスは酸素4s%、窒素17%、ヘリウム79%であった。...
View Article1113 ダイビングの歴史 39
さて、ようやく我が日本のシートピアについて書けるところまでたどり着いたのだが、書きたいことが山のようにあるし、書こうとしている本「ダイビングの歴史」では、山田さんに書いてもらうお願いをしているので、ここでは、テキストの「海中居住学」を要約して、世界の海中居住のなかでのシートピアの位置づけと、日本での流れを、見てみよう。...
View Article1115 ダイビングの歴史 40
1962年 300mへのハンネス・ケラーの潜水と、その実験で事故死した若者の物語 海中居住も、飽和潜水も、まだその準備段階であり、ジェネシス実験も、まだネズミや猿にヘリウムを吸わせていた段階の1962年、混合ガス潜水で一気に1000フィート300mを目指したのが、スイス人のハンネス・ケラーである。 畏友 石黒信雄の資料 「ダイビング・テクノロジー」2006 : 全日本潜水連盟刊 によれば、...
View Article1121 ダイビングの歴史 41 海中居住
ダイビングの歴史 41 海中居住 1973年 シートピアの30m、三日間の滞在で、大深度を目指す飽和潜水の基地としての海中居住は、日本では終了した。 この後、日本はシードラゴン計画、ニューシートピアと進むか,ニューシートピアは、海中居住計画ではない。船上居住である。...
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