ダイビングの歴史 31 「どるふぃん」 8ー1 1964 秋 読売ランド竜宮城が オープンした。 竜宮城は、近藤玲子(バレー団主宰)岩村信夫(ブロードウエイでミュージカル修行をして、日本最高のミュージカルダンサーといわれた。長身で、とにかく、むちゃくちゃにかっこいい人)二人は夫妻でプロダクションを作っていた。 岩村さんが在米中、フロリダのウィキィワッチ・スプリングという大きな泉
☆田辺さんの記事 でやっている水中バレーショウを見て、日本でこれをやれないかと考えた。
バレーは、ジャンプとかリフトとか、無重力でやると夢の実現ができる。日本にはこんな大きな泉はない。作るしかない。 正力松太郎氏に相談したら、多摩丘陵に作る読売ランドに呼び物がない。山の上に乙姫様が舞う竜宮城を作ってしまえ、ということになった。1960年代は、そんな夢のようなことが実現する時代だったのだ。そう、夢であるからこそ実現させようちする時代。 岩村さんに会った最初は、日本アクアラング浅見の紹介だった。手動のフーカーを作ってくれということだった、ウィキワッチのショウで、ダンサーは空気の吹き出すホースを手に持って、その空気を吸っている。それが、どうもかっこよくない。吸うときだけ空気がでる装置がほしい。自動は大変だが、手動は簡単だ。握ると弁が開く構造にして、それをホースの先に着ける。その先にノズルを着けた。我ながらよくできた。岩村さんとプリンスホテルのプールにテストに行った。ノズルを口に当てて、レバーを握りしめると空気が噴出して、吸うどころではない。これはだめか?口につけないで、少し離れた位置から空気を出すとうまく行く。岩村さんが優雅な手振りで口の前で空気を出して吸う。
これは素晴らしい。踊りながら空気が吸える。 そんなこんなをしているうちに、僕も高校で演劇をしていたり、鎌倉でバレースクールの公演の照明を手伝ったり、バレー映画「赤い靴」のモイラ・シアラーが、無重力で踊っていたことなどを話したりして、意気があって、生涯の友人になれると、そして、僕も100m潜水をしたりして、レコードを持っていた。トレーナーをしてくれないか、ということになった。 社長にお願いをたてた。100m潜水とか、わがままを続けている。ダメだといわれたら会社を辞めても行くつもりだった。東亞潜水機の業務に差し障りのない程度ならば、ということになった。 建設中の竜宮城を見にいった。建設中の方が大きく見える巨大なものだった。わけても、水の浄化、保温は、世界でも類のない最高度の技術、前面のガラスは、まだ一枚ものにはできないが、(現在は美ら海とかできているが)大成建設の技術の粋を集めた。 問題は、トレーニング、僕の担当だ。僕は東亞潜水機と二股だ。毎日のように出勤することなど出来はしない。 若い友人の藤井祥男君、高校の時から、一緒にダイビングに行っている田中次郎に手伝ってもらうことにした。藤井君はその後、竜宮城のスターの一人であった醍醐都さんと結婚する。
☆ここからは、波瀾万丈の冒険ストーリーになる。今だったら水中もののドキュメンタリーが作れるストーリーだが、年表なのでここまでにする。つい数年前近藤玲子さんが亡くなるまでの話になってしまう。 ☆八重山紀行 木村貞蔵 ☆下田大島間長距離潜水の報告 Ⅱ 工藤昌男
半分ほどの道程で終了したが、工藤さんはこのようなドリフト潜水の海洋調査手段としての意義、効果について言及している。黒潮に乗ってのドリフトなどであるが、やがて、このような科学調査がNOAAⅠなどで行われ、レジャーとしては、ブルーウォーターダイビングなども行われるようになる。その先駆とも云えよう。残念なことにそのアイデアについて、言及したのみで、実際の研究実験は行われなかった。 工藤さんのこの横断、僕たちの90m潜水、僕のデマンドレギュレーター付きの送気式フルフェースマスク、則美さんの戦艦陸奥 三つをまとめて本にできたら、今の僕ならばできただろうが、残念なことに当時その着想はなかった。潜水協会がそれをやるとすれば、それは工藤さんの責務だっただろう。声をかけてくれたら、僕は喜んだと思う。 「どるふぃん」でそれぞれ書いたのだから、海洋潜水探検として、まとめれば。。。 しかし、協会はそういう方向ではなく、別の方向に逸れつつあった。 ☆ 開放式SCUBAの型式と特色 須賀次郎 ダブルホースとシングルホースの特色、呼吸努力についてのべたのだが、決定的なことは、ダブルホースでは、圧力計 BC、そしてオクトパスホースが着けられない。そのことは論じていない。つまり気づいていなかったのか。バカな恥ずかしい話である。 ☆ スピアフィッシングにおける得点法の一試案 水中スポーツ部 まだ協会はスピアフィッシング振興を目指している。 ハタが1キロあたり50点タカノハは10点などと提案している。 そして、7月30日伊東市富戸 東拓海洋公園においてスピアフィッシング大会を開いている。 僕たちも負けずに、1965年 日本水中射撃連盟を結成して伊豆神津島で大会を開いており、その翌年1966年には、日本水中スポーツ連盟というのを作って八丈島で大会を、さらにその翌67年には伊豆大島でたいかいをやっている。その結果などについては、後藤年表のところで述べる。 ☆島の海 倉田洋二 「ササヨ」 ササヨとは、食植魚 イスズミのことである。
☆広告で水のスポーツ専門誌 旬刊 レジャースポーツがでている。 残念ながら今手元にない。
☆協会だより 水中スポーツ部の規約とかが乗っている。 あれほど盛んに行っていた訓練部の講習が初級も中級もおこなわれていない。何があったのだ。 会員は1550番まで紹介されている。