ダイビングの歴史 34 ☆伊豆海洋公園 伊豆海洋公園ができたのは1964年、ビッグニュースだが、「どるふぃん」でとりあげていない。ただ、7月30日に東拓海洋公園で、スポーツ部がスピアフィッシング大会をやったとだけ紹介された。 1964年から、1967年12月までトータクはスピアフィッシングのメッカの一つだった。 ☆スピアフィッシングとは、 さて、後藤メモだがダイビングの歴史22で1963年から、1967年まで走ってしまっている。 ここで、「どるふぃん」に合わせて、時計の針を1965まで戻そう。 そのころ僕はなにをやっていたか。
東亞潜水機では、63年に100m潜水などやり、そのご恩返しをしなければいけない。何かに結実させたい。 かたわら、本業商売は、「アクアラング屋さんは、真夏には眠ってはいけない。冬は寝て暮らす」と言って、気合いを入れていた。 シャーク水中銃、そしてスポーツ用品問屋へのスキンダイビング用品の運搬、手配。タンクのエアーチャージ。そのころタンクは、それぞれ自分が、マイタンクを持たなければいけない。たとえば、神田のミナミスポーツのクラブ会員だったとする。自分のタンクをミナミのクラブに預けている。ミナミスポーツは、時には東亞潜水機に持ってきてくれることもあるが、だいたいが、こちらで引き取りに行き、空気を詰めて、次のツアー出発にあわせて出前する。こんなことをしていたら、寝るひまもなくなる。 そして竜宮城へも週に2回は行かなければならない。 そんな合間をぬって、大学の一期後輩である浅見国治(協会の講習の講師をやってもいた)と二人で、日本で初めてのアクアラング潜水の指導書を書いていた。題も「アクアラング潜水」アクアラングは、日本アクアラングの登録商標だ。浅見は日本アクアラングの社員だから、特別許可をとった。僕としては、その商標を宣伝してやっているというくらいの気持ちだったのだが。そして、 次へ進むにはヘリウム・酸素の混合気体を使わなければならない。その文献あさり、これは、冬の仕事だが。機材の図面を引いたり、さすがに予算が無く、作るところまでいかなかったけれど、2012年、40年後にその絵を80歳80m潜水のコンセプトシートに、つかったりしている。 その上にもう一つ、日本水中射撃連盟を結成する。これは夏のことだ。人間とはバカなもので、何かを始めると、誰が一番か競いたくなる。その最たるものがオリンピックであるが、ダイビングの世界では、スピアフィッシングで上手、下手を決める。世界では、CMASが主宰するブルーオリンピックというのがある。大崎映晋旦那が団長になって、鶴耀一郎、そして意外にも松岡俊輔 彼は、後にセミクローズのフィーノをやるのだ。そして、どうしても名前が思い出せない。ごめん。女の子が一人、開会式に振り袖とか着て、世界の注目を集めた。いつの時代にもこういう人がいて、また、居ないとさびしい。 少し筆がすべっているけれど、理不尽な「どるふぃん」の消滅で頭に来ている。行くところまで滑らそう。 夏は忙しい東亞潜水機に、神津島の生まれ、大島の水産高校を卒業した鈴木郁男が入社した。その鈴木の叔父さんが、神津島の組合長だという。そのつてで、神津島でスピアフィッシング大会をやることになった。主宰は日本水中射撃連盟、連盟と言ったってなにもない、僕とあと、有志(魚を突きたい人)が5人ほど集まって、いろいろ手配するだけだ。 そして、日本中のスピアフィッシングの名手と思っているダイバーが集まった。協会がやるスポーツ部の細々とした大会とは一桁違う。 なにしろ、ダイバーがこれまで入ったことがない。これからも入れないであろう、恩馳せ(おんばせ)という漁場には入れるのだ。 念のために言うが、この魚突き大会は、スクーバでやる。鶴耀一郎、沼津の黒柳英男らは、スクーバはいけないと、素潜りで参加する。得点点数は低いけれどニザダイなどを100尾単位で穫るから、スクーバと対等な勝負になるのだ。 関東太平洋岸では、大型のマハタのことをモロコ、千葉県ではモッソウなどと呼ぶ。千葉県方面でモッソウを突くことができるのは、外房、白浜の根本だった。このあたりは、海女漁が盛んなところで、鉄砲を持って潜ったりすると、追い出されるところなのだが、ダイビングサービスをやっているのが、この地域のボス(やくざではない)なのだ。自分だけで、水中銃ありの漁業組合をつくってしまった。 ここのモッソウは、ダイバーに追われて生き残った猛者だから、なかなか、突けない。利口な魚で、決して行き止まりの穴には入らない。イシダイなどはバカだから、行き止まりの穴に入る。穴に入れば、穫られてしまう。仲間うちでは、これを「穴撃ち」と呼んでバカにした。モロコは、とおりぬけられる穴に入る。するりと向こう側にぬけて、ダイバーの後ろに来て、ダイバーを観察していたりする。しかし、人間はもっと賢くて、一人が穴の向こう側で待っていて、一人が追い込んで出てくるところを撃たれたりして、しまう。すると、魚のとる手段は、ダイバーのこないところに引っ越してしまう。居なくなるのだ。☆ 神津島のオンバセのモロコは、ダイバーなど見たことがないから、なんだ、なんだ、と観察に出てくる。それを百戦錬磨のダイバーが突くのだから、たまらない。 このような大会の場合穫った魚は組合に水揚げして、自分の穫った魚を持ち帰るには、原価で?買い取るのだ。しかし、水揚げされた魚をみて、組合員は仰天した。穫りすぎたのだ。これで神津島では、魚突きは禁止となった。 翌1966年は、日本水中スポーツ連盟を作って八丈島で大会を行った。連盟の会長は舘石さんにした。八丈島では、今は廃墟になったロイヤルホテルが全面的に協力してくれた。漁業組合も協力で、開会式には菊池組合長が挨拶した。神津でモロコを穫りすぎたので、今度は磯魚はダメ、回遊魚のみとなった。 カンパチはダイバーが出す気泡を餌の小魚と思って、一度だけは接近してくる。このときも穫りすぎた。そのためかどうかわからないが、その年回遊魚が不漁になった。挨拶をした組合長は罷免された。 その翌年1967年はスポーツ連盟で、伊豆大島で、この時は、選手ででたが魚に巡りあえなかった。 ☆ 1966年 「アクアラング潜水」 須賀次郎 浅見国治共著 発売 浅見国治は、日本アクアラングから、アメリカのUSダイバーに研修に行き、発足したばかりの米国NAUIのインストラクター講習を受けてインストラクターになっている。日本人はじめてのダイビングインストラクターだろう。ダイビング・インストラクターという言葉は、まだ日本にはない。指導員だ。「アクアラング潜水」に掲載した講習プログラムは、そのときのNAUIのものに近い。