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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1009 ダイビングの歴史 26 どるふぃん

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  ダイビングの歴史  26
 「どるふぃん」 7・2  1963 秋
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 ☆ クローズドサイクル潜水機について 梨本一郎 梨本先生による、リブリーザの解説である。まだ、リブリーザという用語はしようされていない。また、電子的に酸素濃度を測定して供給するところまでは進化していない。浅い7m程度までの潜水が可能な、原始的な回路の商品名でオキシラングと呼ばれた類の潜水機の説明と使用ちゅういである。 梨本先生は自身で使われた結果のマニュアルではなく、米国海軍などのいくつかのマニュアルを要約したものであるが、窒素の洗い流しなどに少し気になる部分があった。ここでは、装置、呼吸袋に純酸素を満たして起き、ダイバーは使用直前まで外部呼吸をしていて、使用直前に息をできるだけ吐き出してから、装置の純酸素を呼吸するとあるが、それだけでは、残気量の窒素が残って無酸素症になる危険があるのではないか。この動作を二度、三度くりかえして、完璧に窒素を追い出さなければいけないのではないか。 その後、オキシラングが日本に輸入され、複数の無酸素症事故がおこって死亡した。たぶん、この洗い流しが不十分、また、浮上してきて顔を水面に出し、マウスピースを外して、外の人と会話して、そのままマウスピースをくわえて、洗い流しを不十分で潜っていった結果の事故であった。
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 ☆ 浅利熊記 さんの思い出 佐藤賢俊 浅利氏は、佐藤さんが経営されている旭潜研で製作販売されている旭式軽便マスク式潜水機の生みの親であり、佐藤さんは、協力者であり盟友であった。1963年6月57歳、肺ガンでの死であった。 旭式 アサリ式は、日本を代表するマスク式潜水機である。ここに、その誕生の話を当事者である佐藤さんが書いておいてくれたので、自分の体験もくわえて小史に書くことができる。 浅利さんは、もの作りの天才とでも言おうか、もの作りについては後藤道夫のような人だった。 昭和7年ごろ、1932年ごろ、なにか、潜水する必要があり、バランスタンク式といわれるものを作る。背中に2。5リットルのタンクを背負い。自転車のポンプよりも心持ち大きい送気ポンプに20mのホースをつなぎ、口にはマウスピースをくわえ、空気は口から吸って鼻から出す。鼻から吸い込まないように、逆止弁のような鼻栓を鼻に押し込んで、二眼の水中眼鏡をかける。要は素潜りダイバーに自転車の空気入れで空気を送るようなもので、背中のタンクは、ダイバーが息を吐いている時にも空気を送って貯めておく貯気タンクである。潜水機は、どれだけ空気消費量を少なくできるかが目標であり、この貯気タンク方式が浅利さんの肝である。 すさまじい潜水機であるが、一応うまく行き、商品名をポピュラー潜水機として、企業化することになり、この時点で佐藤さんが加わる。量産するのだが見事に失敗する。失敗の理由の一つは、磯根資源の採集は、制限があり、すでにヘルメット式潜水で制限いっぱいであり、新しい潜水機我はいる余地が無かったこと、そして、もう一つはやはりこれでは苦しくてダメ、使う人がいなかった。失敗で周囲に見放されたとき、残ったのが佐藤さんで、二人で協力して改善をめざす。 苦労の末、背中のタンクを気嚢 袋に換え、これを全面マスクに付けることで、うまく行き出す。 そして、昭和12年(1937)海軍横須賀工作所で軍用に使えると検討され、若干の改良で採用され、各艦船に搭載されることになる。これを機会に昭和13年、旭潜水興業を創立し、アサリ式マスクとして売り出す。海軍からも注文を受ける。 海軍の潜水工作兵が、何をするかというと、戦闘で弾丸、魚雷で開けられた穴を外側、内側から当てものをして、応急の修理をする。もちろん完全には塞げないから、ポンプでのくみ出しと釣り合う程度まで、そして防水区画でも止めるのだが、とにかく潜水作業が要求される。これまでは鈍重なヘルメット式でやっていたのだが、軽便マスク式は、身軽であり練習もほとんど必要ない。なにしろ、東京水産大学の潜水実習で、スクーバの前に、このマスク式潜水でまず潜らせて水に慣れさせるのに使っているくらいだ。 軍需産業になったので、終戦でそれが一気になくなり苦労されるが、水産業に活路を見いだす。その一つは養殖業であり、生みを耕す養殖では、浅い海での人の手が必要だった。潜水による海産物の採取は、たとえば海女漁によるアワビ、イセエビなどは、資源管理には使えるものの、採取は乱獲に繋がるので使えない。テングサ採取漁には使える。もう一つ、これがもっとも重要であるのだが、漁船のペラに網やロープが絡んだ場合の除去である。北洋で行われる鮭鱒漁は、独航船による流し刺し網漁であった。小さい独航船を大きい母船が引き連れての漁であるが、流している刺し網にペラが絡むと厳しい北の海では、裸で潜って切りほどくことはできない。潜水服を着用し、潜水具を着けた潜水が必須になる。この分野では旭式は、小さいポンプで使えるのでもっとも優れていた。 とにかく、アサリ式、旭式は、浅い水深での水産の潜水機として生き残って行く。その転変はまた小史で書くとして、旭式マスクは佐藤さんが受け継ぎ、浅利さんはイカ釣りの道具の開発に転じ、この分野でも成功をおさめる。
☆ 奄美の海 竹内庸 NHKのカメラマン竹内さん(親友)が奄美の海という番組を撮影した報告である。

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☆ 戦艦陸奥 工藤昌男 この時代、1963年に 戦艦陸奥に潜水してテレビ番組を撮影したのだ。20日間のロケで、状況は、水深は36ー40m、底質はほとんど泥、艦体の最浅部は約10m素潜りで爆発口に行くことも可能。潮流早く約2ノット、透視度はよければ10m、悪ければ1m、艦の中でフリッパーを動かせば視界ゼロになる。 放映はTBS系列だった大阪朝日放送で「カメラルポルタージュ」この番組は、僕たちの100m潜水と同じ番組、 僕たちと族が違って、インディアンの部族みたいなものだが、カメラ伊藤則美、そして工藤さんを筆頭に、加藤桂二、岡弘文 林賀信勝 栗原醸造 族は違うといっても、加藤君、岡君、林賀君とは仲良しで、加藤桂二君は、法政アクアの創立者になる加藤芳雅君のお兄さんで、加藤兄弟、お父さんと、茅ヶ崎の烏帽子岩に潜りに言ったりした。岡君は後に映画の撮影を一緒にする。林賀君は山形水産試験場で人工魚礁調査をやり、潜水病になり、愚痴をこぼしていた。みんなどうしているだろう。現在消息がわかっているのは工藤さんだけだ。  番組の出来映えは、僕たちの100mよりも良かったかもしれない。方向性が全く違うので、何とも云えないが。  
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 ☆島の海 倉田洋二 海ガメ 島の海、伊豆七島 小笠原では、喜んで食べられた話 倉田さんの連載はまとめて本になる。


 ☆協会だより、 関東支部は 初級は25回から29回の4回、いずれも40名近い、中級は江の浦港で11回と12回 講師は安東宏喬さんが多く、助手の常連は日本アクアラングに入った後輩の南里寛治 であった。僕は蚊帳の外で関わったことがない。安東宏喬さんは僕が煙たかったかもしれない。僕も東亞潜水機勤務で、アプローチすることはなかった。 会員番号は 1300ぐらいまで行っている。
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マスク式の研修会、ヘルメット式の研修会、素潜り大会なども行っている。


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