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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1010 ダイビングの歴史27 広告

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☆ 広告 東京アクアラングサービス

 1964年には東京オリンピックがあった。

 東京アクアラングサービスは、僕が数えて、東京で三番目にできたダイビングショップ、そのころはアクアラング屋さんと呼んでいた。  一番が、1955年 菅原久一さんつくった潜水研究所、2番が池田さんの太平潜水、これはすでにショッピングガイドで紹介された。太平潜水の太平は、太平洋の太平かと思ったが、錦糸町近くの太平町に古くから太平鍍金というメッキ屋さんをやっていて、それがアクアラング屋さんもやるようになり、太平アクアラングになった。 東京アクアラングサービスは、ドルフィンに広告を何度も載せているのに、ショッピングガイドに出てこない。 オーナーは、青木大二さん、広告を見ると、東亞潜水機代理店とある。代理店の看板をかけてくれたのは、後にも先にも青木さんただ一軒だ。 初めて青木さんに会った時、青木さんは東亞潜水機を訪ね、三沢社長に代理店の交渉をした。東亞潜水機のポリシーは、ヘルメットダイバーのお客様直結、間に代理店などを入れることを廃して、その分、お客にやすくヘルメットの潜水服などを供給する。 ヘルメット時代とアクアラング時代はちがう。青木さんは代理店になってしまった。 青木さんは、下北沢でバーをやって儲けた。僕はダイビング商売は、お金儲けの仕事ではないと思っていた。では、何だ?実はこのことが根源的なことなのだが、まだその答えがでていない。 青木さんは、まん丸い魅力的な人なのだが鋭い。1963年のあれから、50年以上の年月が流れたが青木さんの言葉は、青木語録として、僕の頭の端に残っている。お金儲けにはなりにくいということについて、「須賀さん、あなたはダイビングのプロです。でも、わたしはお金儲けのプロなのです。ご心配いりません。」 最初に書いておくが、青木さんはアクアラングやさんで、成功し、後に「青木ボート」というボートやさんになり、環八沿いの小さな店で、ヤマハ中古艇売り上げ日本一を誇った。さらに後に、パラオに移住して、陶芸家になった。そのころ一回だけ手紙をいただいたが、風の便りで亡くなったとか、ある種の冒険家だった。  青木さんは、鉄砲撃ち、ハンティングが趣味だった。その仲間内に配るパンフには、「もう陸上は終わりました。陸上に獲物は居ません。これからは、水中です。」このフレーズにつられてか、何人ものろくに泳げないハンターが鉄砲かついで水中を目指した。それぞれ、危機一髪の目にあったものの、生き残った。アクアラングでのハンティングは、基本的に急潜降、急浮上の連続だが、不思議と重篤な減圧症にはかからなかった。なぜなのだろう。その理由は医学的に解明されていないが、僕の考えでは、水深20m以浅では、減圧症はタンクから呼吸する空気量に比例する。他に考えられない。 その青木さんが、僕の100m潜水の計画を聞いて「須賀さん、心からの忠告です。おやめなさい。そんなことをしても、何にもなりません。」何かになったのだろうか?  レギュレーターのセールストークで、まずアクアマスターを手に取り、「これは、28800円ですが、アクアラングの元祖、日本アクアラングが売り出している世界最高級品です。命の惜しい方はこれをお求めください。」続いてTOAスキューバを手に持ち「これは、須賀さんという、この世界で最高の技術者が手作りしているTOAスキューバで、使いやすいお徳用品で、12800円です。」  この広告について、「須賀さん、こんど、ふるいつきたくなるような美人の写真で広告を出します。」なにか、亀戸あたりのキャバレーのナンバー1がビキニを着て、普通の家らしいバックで、軍用消火器改造のダブルタンクにTOAスキューバをつけたアクアラングと並んでいる。ふるいつきたくなるかどうかは、感性の問題だが、気安くふるいついても良いような気もする。 広告にあるアクアラングサービスの場所 新宿の甲州街道沿いにある、錦果園ビル、まで、充填したタンクの出前をしなければならない。基本は充填は持ち込んでもらって、するのだが、時には出前する。いつもは、助手の安森君がしてくれるのだが、その日は僕が引き受けた。南千住から、新宿まで、乗っていくのはバーハンドルの軽三輪「ダイハツミゼット」だ。これは、世界の傑作車で、幅1。5mの路地を直角に曲がれて、タンクを10セット積める。キックスタートのエンジンで、もしかしたら、世界のどこかで、50年後の今でも走っているかもしれない。 錦果園ビルは、エレベータの無い4階建てで、4階にはコールガールの基地があった。青木さんの店はその3階にある。急な階段をダブルタンクを背負って上がる。上から降りてくるコールガールとすれちがうこともあるが、そんなものを見上げる余力もない。究極のダイビング用ボディビルだ。ようやく運び終わって、青木さんから冷たいものでもと出されたアイスコーヒーを飲みながら、窓から外を見ると、神宮の競技場の上空を、ブルーインパルズが五色の煙の輪を描いた。オリンピックの開会式だったのだ。 ようやくオリンピックにたどり着いた。  しばらくして青木さんのお店は、新宿御苑の前の道路沿い、一階にひっこした。僕らは、涙を流して喜んだ。 それから数えて三代目になる島田君は、2007年の東大の事故、大学側のコメンテーターとして講演をしたりした。僕は著書「ニッポン潜水グラフィティ」に青木さんのことなど書いたので、それをもって挨拶にいった。そのときに、青木さんの現在の消息を聞いた。その後、島田君から店のオーナーが変わるという連絡を受けた。お店の名前も変わるらしい。別に僕のところに挨拶状も来ないし、月刊ダイバーに広告も載らないから、僕の中では消滅している。 

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