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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1011 ダイビングの歴史 28  1964 冬

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              伊豆大島岡田港の小判
ダイビングの歴史 28   どるふぃん 7ー3 1964 冬  ☆島の海 倉田洋二 遭難船 記事にはないのだが、写真、岡田港から発見された元禄小判、たしか1959年だったか、ぼくが東亞潜水機に入った頃だ、岡田港を工事していたヘルメットダイバーが小判を発見した。すわ宝船とダイバーは岡田港をめざした。と思う。発見されたのは此の写真だけ?これだけだった。何なのだろう。そして、海底から小判が発見されダイバーが手にしたのは、後にも先にもこれだけ?発見しても黙っているからわからないのかもしれない。
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 ☆表紙 伊藤則美さんの写真 則美さんが何をねらって撮ったものか、ついに理解する事ができなかった。しかし、何なのだろうこれは、と考えさせられたことは事実。月刊ダイバーの写真とか見ると、わかりすぎてしまうのだけど。
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 ☆ 大深度潜水に挑む 舘石昭 須賀次郎 これについては、また別に書くが、自分にとってのプラスは、デマンドレギュレーター付きのフルフェースマスク と水中有線通話方式で、此の20年後、1982年以来、この二つの組み合わせで、仕事を20年続けられることになる。 写真左端は,伏竜特攻隊の潜水機を設計製作した清水登大尉,この潜水の総指揮をお願いしていた。   ☆ 広告 東京アクアラングサービス 1964年には東京オリンピックがあった。 別記 ダイビングの歴史 27  ☆1964年の日本と海外のダイビングとの関係 ユージン・カーン CMASの科学部門に加盟申し込みレターを送っている。その結末がどうなったか不明 協会は結局CMASには加盟しなかった?  ☆人物メモリー そのころ親しかった人、その後関わりを持った人が紹介されていた場合メモリーで残しておきたい。ここに来てそんなことを考え出したので、かなりさかのぼって、もう一度チェックしなくては。 

 加藤桂二君 前にも書いたが、法政の加藤芳雅君のお兄さんだ。芳雅君とは、今も付き合いがあるが、桂二君はどこの大学に行ったかも知らない。
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 神尾尋司君、潜水部の最優秀ダイバーで、宇野教室の後輩、僕のスガ・マリン・メカニックに入る話もあったが、すでに僕の下ナンバー2が決まってしまっていたので、断らざるをえなかったが、その後すぐに病を得て亡くなってしまう。
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 ウエットスーツ、ジャージ付き生地の宣伝になぜか日本アクアラングの中村専務がでている。中村専務は帝国酸素からの出向で、フランス語がペラペラだった。なぜ、広告のモデルをしているのだろう。不明。
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 ☆第一回潜水科学討論会を終えて 菅原久一さん中心で、各方面の人たちを集め、安全潜水を唱えて討論している。安全潜水という、ぼくに言わせれば念仏のような言葉だがこのときが嚆矢か。「潜水の安全」とか「安全な潜水」というべきだと思っている。まあ、交通安全もそうだけど、交通安全というと、動きが感じられるけど、安全潜水というと、落ち着いてしまう。  深い潜水は慎むべき、40、50mは大深度で、備えなくて潜ってはいけない。これは当たり前だが、菅原久一さんは、大深度潜水の研究をもっとするべきだと述べている。ぼくの100m潜水の成果については、別に述べる。  労働省労働基準局衛生課の山崎氏が潜水の監督官庁としての挨拶をしている。そうか、労働省が潜水の監督官庁で、それと密接にコンタクトしているのが、日本潜水科学協会だったのだ。 これが、後に海中開発技術協会になり、レジャー・スポーツダイビング産業協会に変わることによって、潜水全般から、レジャーダイビングへとどんどん間口を狭めて行く。僕はそれに最大限反対するが力が足りず辞職してしまう。
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☆兜式潜水機について、稲葉繁雄 ヘルメット式の説明 そして、☆カブト式潜水講習会に参加して 田中正六 こんな講習会もやっていたのだ。

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