ダイビングの歴史 29 どるふぃん 7ー4 1964 春 この前の 7ー3 が1964年の冬で、7ー4 1964年の春だ。まあいいや、細かいこと?にはこだわらない。 伊藤則美さんの意味不明の写真。2回続けられると、なんとなく、わかる。何がわかったかわからないけど。
☆クストーの水中部落 映画沈黙の世界 の舞台について、これに参加したリード氏を囲んでの座談会だ。 僕はこのナショジェオ持っている。映画のVTRももっている。クストーのおかげで、世界中が海底居住に振り回される。今も思えば、ちょっとしたことで、減圧症になったりする人間が海底に居住できるわけなんてないのだが、人類みんなが夢を抱き、夢を追ったのだから、悪くはない。
☆ダイバース ドリームボート 田辺さんが作った、帆走汽船、帆走が主?のボート 蒼竜 の話。 コンプレッサー(東亞潜水機の小型PHC)も積んでいる。 そうか、向こうの族は新しい、夢の武器を作った。 つくづく、お金持ちは良いな、とうらやましく思った。
減圧停止中
☆大深度潜水にいどむ 二回にわけて掲載してくれた。
☆ラング潜水と漁民とのトラブルについて 菅原久一 「全くのところ、こんなに人から嫌われるスポーツの種類が他にあるだろうか。他のスポーツでは、いずれも自分の練習場、競技場を持ち、持たない場合は金を出して借りるという形をとり、他人の生業をじゃますることはない。世の中はすべてギブアンドテークで丸く収まっているが、ギブなしのテイクだけの無感覚なスポーツダイバーが多いのではないか。」 当時の指導者の考え方だ。
☆ セコニックマリンについて 大野秀郎 その後長らく使うことになる露出計の登場。ニコノスもまた他のカメラもEEではない。露出の測定もカメラではできないのだ。
☆ ショッピングガイド 日本クレッシイサブ、
ロスアンジェルスカウンテイ ロスカンと呼んだところの米国製ブルーカードから、それを引き継いだNAUIのカードへ、まだCカードはないが、日本のカードは、ここから始まったのだ。田口君が写っている。 なお、「この店の呼び物は普通のアクアラングと違った酸素ラングを扱っていることで、絶対安全を目標に我が国への普及につとめている。 確か、その後すぐに、事故死がでている。
☆この前の号にでていて 積み忘れたショッピングガイド 千尋商事 渡辺さんが写っている。親しくさせてもらった。青木大二③とは別のスタイルでの商売の達人、別のスタイルとは、小売りだけでなく、卸売りのことだ。 その後、東亞潜水機で売るようになる水中銃「シャーク」は東亞潜水機で組み立てて渡辺さんが売っていた。その後、渡辺さんはウエットスーツに商売の重点をおくとかで、東亞潜水機に販売権を売った。年間3000丁も売れて、忙しい思いをさせてもらった。 メタリックブルーにメッキ、塗装した銃らしい形をした銃で、ダイバーの狩猟本能を満足させるとともに、魚の保護にもなる。つまりあんまり性能のよくない銃で、僕はよせばいいのに、パワーアップした特製をつくったりした。