さて、ようやく我が日本のシートピアについて書けるところまでたどり着いたのだが、書きたいことが山のようにあるし、書こうとしている本「ダイビングの歴史」では、山田さんに書いてもらうお願いをしているので、ここでは、テキストの「海中居住学」を要約して、世界の海中居住のなかでのシートピアの位置づけと、日本での流れを、見てみよう。
1960年代前半のフランス、アメリカの海中居住についてのアプローチをここまで見てきたが、日本もこれに追いつかなければならない。日本は海に囲まれていて、その未来を海に賭けている(と1960年代には国民の多くは考えていた。)。日本も海中居住による大陸棚開発に乗り出さなければいけない。アメリカ、フランスに勝てなくても、負けるわけには行かない。今でもそんな風に考える時もあるけれど、海は一つ、つながっている、日本もアメリカもないのだ。というと、負け惜しみに聞こえるかもしれないが。
とにかく、1965年当時は、日本も海中居住、海洋開発に踏み出さなければいけない、と日本政府は考えた。その時点で、飽和潜水に関して日本のトップを走っていたのは、1966年に飽和潜水実験装置を作った東京医科歯科大学の梨本先生たちのグループであり、「日本深海プロジェクト」という会社を作って、大陸棚号というチャンバーも作って、実海域での実験にも踏みだそうとしていた。そのグループが、日本潜水科学協会の中核だった。
政府は補助金の受け皿として、このグループを考えた。そして、日本潜水科学協会は海中開発技術協会となり、スポーツ、水産の分野は捨てられた。捨てなくてもよかった、いや、捨てるべきではなかった。しかし、それは、後出しジャンケンの類だろう。
雑誌マリンダイビングの創刊号がでるのは、1969年の一月号からであるが、その創刊号に「あすを拓く=日本の海洋開発のすべて」と題して、通産省関係、運輸省関係、農林省関係、建設省関係、厚生省関係、防衛庁関係、科学技術庁関係への、予算請求額が載っている。総計は。
5、439、894、000円、大蔵省の裁定でその半額にとどまった、とはいえ、5億だ。今の5億ではない、1970年だから、0が一つちがう。この文をかいているのが、山中鷹之助 肩書きは、海中開発技術協会理事、広報事業部長、日本アクアラング株 海洋開発事業部長だ。
会員1600人、初級講習だ、中級だ、などやっていられないという気持ちはよくわかる。僕だって、東亜が日本潜水科学協会の中核にあって、海中開発技術協会がこれだけの予算請求ができるとしたら、そしてたぶん、僕が海中開発技術協会に出向しているだろうから、舞い上がると思う。
そして、「海中居住学」によれば、1968年科学技術庁は(社)海中開発技術協会と、技術的研究を行うとともに、海中居住装置を建造する契約を交わした。装置はハビタート、減圧室を備えた支援船、PTCからなることになっていた。装置の三つの主要構成部分の建造は1969年に完了された。ハビタートは、4人のアクアノートを収容するように設計され、重さ65トン、2,3mの径、長さ10、5mのシリンダーであった。PTCは、1,7×2,8、支援船はこの計画のために建造された。
1970年、計画は行政改革のために休止状態になり、結局、1971年、経団連と科学技術庁が新設した海洋科学技術センター、(JAMSTEC)が実験を引き継ぎ、計画を実施する事になった。計画がシートピアと命名されたのはこの時であった。
海中開発技術協会は切り捨てられたのだ。
この時、なにがどうなり、どうしてこうなったのか、僕は蚊帳の外だったし、1967年には日本潜水会を結成して、それに専念していたのだからわからないが、この時、海中開発技術協会をつぶさないために、海中開発技術協会は、スポーツ部分、水産研究者の潜水、などを司り、海洋開発関連はJAMSTECが、という線引きをしたという。何のことはない、元に戻されたのだ。そして、この腸捻転が、この後僕らを悩ませることになる。
そして、本筋のシートピアだが、4人のアクアノートを100mの深度で一ヶ月居住する事を最終目標としていた。
1973年、8月ハビタートは、田子港の水深30mに設置され、9月22日、4人のアクアノートが飽和し9月26日、66時間の減圧後、外にでた。以後日本の飽和潜水関連の深海潜水は、ニューシートピア計画に移るが、それは、もうPTC と船上のDDC による潜水であり、海中居住ではない。詳しくは、それにアクアノートとして参加していた山田稔さんに実施運用関連の記事をお願いしている。
ハビタートは、現在も横須賀のJAMSTECに置かれている、さわることはできるが、中に入ることはできない。
整備して中に入ることができるようにすると良いと思う。
なにはともあれ、日本で行われた海中居住のモニュメントなのだ。