Quantcast
Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

1112 ダイビングの歴史

$
0
0
b0075059_11295012.jpg
               コンシェルフ Ⅲ
ダイビングの歴史  38 海底居住2  シーラブ Ⅰ 1964 米国海軍の、ジェネシス実験の延長線上の海底居住計画である。 ハビタートは、直径3m長さ12,2mの葉巻型である。 バーミューダ沖、水深58、8mに設置された。 呼吸ガスは酸素4s%、窒素17%、ヘリウム79%であった。 シーラブとリンクおよびクストーの計画の違いは、ダイバーの医学的なモニターだった。
b0075059_11305146.jpg
 シーラブ Ⅱ 1965 シーラブⅡは Ⅰのバーミューダ沖の澄んだ温かい水に代わって、カリフォルニアのスクリップス海洋研究所の地先、水深62,5mに設置され、過酷な環境における居住と作業への適応の研究が行われた。 ハビタットは、直径3,6m、長さ17,5m Ⅰより一回り大きく、小さな司令塔を持っていた。 シーラブⅡのチームリーダーは、宇宙飛行士であったスコット・カーペンターであった。 アクアノートは28名で、三つのチームに分かれ、交代で潜水した。チーム1の10人は、16日目に9人が水面にあがったが、リーダーのスコット、カーペンターは、さらに2週間海底にとどまった。 注目すべきことの一つは、イルカのタッフィーがメンバーに加わったことで、通信分を運んだり、ブザーとか舌打ち音に答えて道具を受け渡したりの職務を行った。 また予定外のことであったが、入り口トランク(ハビタットの底面に開いた出入り口)に凶暴なトドが現れた。まもなく仲良しになり、彼らははビタートの中の加圧された空気を吸ってそのまま水面に浮上したが、何の問題も無いようだった。 低い水温と視界の悪さのため、シーラブⅡのアクアノートはこれまでの取り組みよりも厳しい挑戦になった。 最大の医学的な問題は、フード下の発汗の蓄積から生ずる細菌性耳感染であったが、耳をへヤードライヤーで乾かし、アルコール酢酸混合物を使うことにより、感染者数を第一チームの9人から第三チームの1名に減らすことができた。 28人のアクアノートたちは、海底で450人/日、を過ごし、400人/時余りの実用的な作業を行った。また加温潜水服の使用によって何時間が冷水に耐えることができ、少々難しいサルベージ作業も達成できることを証明した。
b0075059_11312437.jpg
 シーラブⅢ 1969年 シーラブⅡの支援船よりも大きい、この計画のために改造されたエルクリバー号が用意され、65トンのガントリークレーン、2台のDDG(船上に置かれる減圧用タンク)2台のPTC(潜降浮上用の圧力タンク)も用意され、182mを越える深度での運用が予定された。海軍、及び民間のダイバーで構成される、8人のチームが5~6、182mの深度で12日間を過ごすことに計画された。作業の力点は、生理学的試験、心理学的試験、軍事サルベージ、水中建設、海洋地質学、生物学も対象になった。  そして、ハビタートが最終的な点検を受けているときに事故が起こった。民間のアクアノート、バリー・キヤノンが、リブリーザの炭酸ガス吸収剤を入れ忘れて死んだ。このことも信じられないばかばかしいミスだが、もっと信じられないことは、このことが、海軍にマン・イン・ザ・シー計画を放棄させ、海中居住計画に全く興味をうしなわせることになった。 そんなことがあるのだろうか、海での仕事、海事に危険はつきもので、海軍はそのころも十分に計算に入れているはずだ。それが、巨額の費用を投じて、準備を進めてきた、それも、Ⅰ、Ⅱと積み重ねてきた計画を放棄させてしまうなど、とうてい考えられない。 とにかく、シーラブ計画は、これで終止符がうたれた。
b0075059_11315223.jpg
 コンシェルフ Ⅲ 1965年 コンシェルフ Ⅱ 1963に引き続く、フランスの計画である。ハビタートは、直径5,5mの球形2階である。この球形ハビタートが、14,6m×8,5mのバージに乗っている。バージには、2個の救急用の減圧室も載せられている。 場所はモナコの近くで、水温は10度から13度と冷たかった。呼吸ガスは酸素2.5%、ヘリウム97.5%で送気ホースは2本、一本は送気、一本は排気の回収に使われた。戻したガスは、炭酸ガスが除去されて再び送気に使われた。この潜水機、生命維持装置は長足の進歩を遂げたものであった。 ハビタートは、100mの海底に、潜降、着底し、送気式ホースの他に背中にもタンクを背負った、アクアノートのエクスカーションは、垂直方向には上下10mに制限されていた。 寒さを防ぐために、潜水服は、水圧でつぶされない気泡、エボナイト製の小さい球を織り込んだチョッキを着たが、エクスカーション作業は寒さによって制限された。 4日目激しい嵐が現場を襲い、大きなうねりが発生し、ハビタートも損傷を受けたが、修理が嵐の中の海底で行われ、アクアノートを浮上させることなく乗り切った。 エクスカーションの作業は、石油掘削に用いられる、クリスマスツリーと呼ばれるバルブ装置の海底での組立であった。 計画では2週間の予定だったが、嵐のために8日間延長され22日間となった。 球形のハビタートは、バラストを放出し、内側にいるアクアノートに制御されて、水面に浮上し、支援船、カリプソがモナコ湾に曳航する間に減圧が行われた。  1965ー66年 コマーシャルダイビングでの飽和潜水 シーラブⅡとコンシェルフⅢの実験が行われることによって、作業潜水分野でも飽和潜水に対する関心が高まった。 1965年 ニューヨーク州トナワンダでユニオンカーバイト社は、トナワンダ調査研究所の海洋調査用潜水調査施設で、198mの深度で二人が小型チャンバーで二日間居住した。これは、リンクのマン・イン・ザ・シー計画の延長線上の継続だった。この潜水の研究に、後にテクニカルダイビングの提唱者になるハミルトンが、関わっていて、文献を出している。  最初の飽和潜水による工事作業は、1965年秋、コンシェルフⅢが完了するのと同じ頃、バージニア州、スミスマウンテン・ダムで行われた。目的は発電所機関の修理である。マリーン・コントラクト社が、飽和潜水装置を開発して、これを行った。4人のチーム、二つがこれにあたり、一週間の飽和、で作業することになった。 水深58mで、居住中の4人の飽和ダイバーたちが1日について二回、2時間交代で作業するのは、32人のダイバーが水面から作業するのと同等と見積もられた。 ウエスティングハウス・エレクトリック社が装置を開発し、これはカチャロットと名付けられたが、水面に置かれたDDCにダイバーは居住し、水中エレベーターPTCで水中に運ばれる。これは、すでに、現在使われている装置であり、海中居住ではない。 この潜水では、温水を服内に送る方式が採用され、送気式、セミクローズの潜水機が用いられた。 スミスマウンテン・ダムでは、平均深度41mで16週間で800人/時の作業を行った。 ここで使用された飽和潜水装置カチャロットは、その後もルイジアナ州では、石油掘削リグの修繕、などに使われる。 図版は「海中居住学」から引用した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

Trending Articles