ダイビングの歴史 41 海中居住 1973年 シートピアの30m、三日間の滞在で、大深度を目指す飽和潜水の基地としての海中居住は、日本では終了した。 この後、日本はシードラゴン計画、ニューシートピアと進むか,ニューシートピアは、海中居住計画ではない。船上居住である。 僕は、この歴史を書く前は、1970年代が、海洋開発、海底居住の時代だと考えていたが、それは、少しずれていた。1960年代が大深度をめざす飽和潜水、1970年代は比較的浅い水深での長期海中居住による、海洋観察調査の時代で、1980年で終了する。 それは、海中居住の終了のみならず、有人、人間が直接潜水して海中作業、調査などをする活動の限界をも意味した。出来るならば、無人で、海中での仕事をさせたい。 シーラブⅢが、1969年に一人の事故でピリオドを打ったときに、そして、シーラブⅢがスクラップにされたときに、大深度を目指す海中居住は、終わった。なお、海中居住とは、いわゆるハビタート、海中の家、海中に人間が数日、数週、数ヶ月滞在することとする。 船の甲板上のDDC デッキデコンプレッション・チャンバーでその居住をして、SDCサブマーシブル・デコンプレッション・チャンバーで降りていく、船上居住(飽和)方式に代わった、というか、本来の方式にもどったわけだ。 海中居住は、比較的浅海の長期間継続調査研究へと進路を曲げて、1980年ごろまで続いていく。 ハイドロラブ(1966)米国
ペリー潜水艦建造会社で作られた後、フロリダ・アトランティック大学に所属を移し、水深12ー15mに置かれ潜水艇との連結などの実験をおこなった。 大体が水深15mで活動し、3人のアクアノートが50時間滞在、とかの実験をくりかえした。1972年からは、NOAAの支援を受け、1977年にはNOAAに買い取られるが、その間4人のアクアノートが4日間、滞在し、61m、91mへのエクスカーションも行っている。呼吸気体は空気であった。 なお、アクアノートの定義は、少なくとも24時間以上、海底の留まったダイバーとていぎされている。 行った研究は魚類調査、標識放流、サンゴマップの作成、底棲生物の分布調査、地質学の調査など、潜水調査の定番であった、 1966年から1984年までの間に述べ500人に余るアクアノートを収容して、世界でもっともよく利用されたハビタートであった。 テクタイトⅠ 1969 (米国)
NASAは、宇宙空間における人が活動する状態での心理状態とか、作業の状態が、回遊居住と、狭い居住空間での作業、そして陸上にもどるために過ごさなければならない時間などについて、共通項があるとして、海軍とNASAは、海中宇宙基地を計画しジェネラルエレクトリック社のハビタート計画が採用された。 テクタイトとは、宇宙空間から地球に落下して海底に落ち着いた隕石の呼称である。米国領バージン諸島で行われ、1969年2月15日から4月15日まで、海底居住計画の期間は60日で、宇宙実験期間に相当し海中居住としては最長の計画だった。 ハビタートは二つの円筒で、径は3、8m、一つは居住区画で四つのベッドを持ち、もう一つは泳ぎ出る海底作業に関わる区画となっていた。潜水器具、標本の処理などである。 ウエットとドライ、二つの区画としたわけだ。 ハビタート内では、窒素92%、酸素8%の混合気体を呼吸し、エクスカーションは、通常の空気を呼吸して、フーカー、もしくはスクーバを使用した。ハビタートの内圧は13,1m、エクスカーションの下方へお制限は25m、上方は6、7m、横方向へは549mに及んだ。水温は21度から24度、終わり頃のエクスカーション時間は5時間に及んだが、通常は2時間程度、エクスカーションを阻んだのは耳の感染であった。また、他の実験と同様、装備の故障は無数にあり、アクアノートはその対応に時間を費やした。 研究テーマは、海洋科学、心理学、生理学で、海洋科学については多岐にわたったが、イセエビについての研究項目が三つあり、目に付いた。 テクタイトⅡ 1970 テクタイトⅠの概ねの成功、を受けて、テクタイトⅠは改装され、同じ場所で、同じ呼吸気体を呼吸して行われた。1970年3月から11月6日に終了するまでの間に、11回の実験を行い、53人の海洋科学者が、2ー4週間の居住を行い、その中には、女性だけのチームが組み込まれていた。また、360人あまりの学生の海洋実習もおこなわれた。 日本からは、JAMSTECから東京海洋大学に移られた、岡本峰雄教授が参加し、東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授も関わっていたはずである。 チェルノモール 1968ー1974 (ソ連) ソ連では10個のハビタートが作られたが、チェルノモールはそのうちで、もっとも進んだものであった。28人のアクアノートが5チームに分かれて、12、5mで4から6日間を海中居住した。その間のエクスカーションは、4ー9時間、最大水深は、90mであり、空気で潜水した。空気で潜水して酸素中毒にならなかったか、など疑問点があるが、それについては、報告されていない。 ヘルゴランド 1968ー1976 ドイツ
暖かい海での実験ではなく北海で行われた。水深は23mで9人のアクアノートが、2人、3人、4人のチームに分かれて飽和居住した。そのうちの2人は、テクタイトⅡにも参加した。水温は5度と冷たかった。 ヘルゴランドは1971年に改造され、1973年の実験には、NOAA、ウヅホール海洋研究所からの参加があった。その後での米国での使用を検討するためであった。 ヘルゴランドは1974年にはバルチック海で、ドイツ、フランス、英国、米国、の参加で、102日間の実験で、24人のアクアノートが飽和した。 さらに、1975年には、9月21日から、ドイツ、ポーランド、ソ連、米国の60人あまりが参加して実験が行われた。その後、ハビタートは米国に運ばれ、マサチューセッツ州で 31、4mの飽和実験が行われた。4人チーム五つが2週間飽和する予定だった。 実験の開始まもなく、9月25日ドイツ人の一人が浮上中空気塞栓で死亡したが、装置の欠陥ではないと判断されて、実験は続行された。 この計画は五つの科学実験が計画されたが、悪天候、死亡事故に加えて目標のニシンが、ハビタートの近くで産卵しなかったなどで、二つの実験だけしかできなかった。 全体で科学関係の水中時間は215時間で、エクスカーションはハビタートから最大183m、深度は45。7m、水中スクーターが使用された。非圧縮生のウエットスーツは、アクアノートたちを2時間までの間、保温した。一人一日平均1時間20分水中にいた。 米国での実験後、再びドイツに戻されて、1976年6月、再び国際色豊かな、4人づつ、4チームがそれぞれ7日間の飽和潜水をおこなった。ハビタートは1979年正式に引退してハンブルグ近くの海岸に保管されている。 先日のブログで、このハビタートがデンマークの歴史研究会のイベントで展示されたことを書いた。成功したハビタートと言えよう。 世界各国の海中居住のすべてをここに述べるスペースはないが、上記以外の主だったものと、特に興味を引いた実験をのべる。. イージア 1969ー1971 米国
ハワイ、オアフ島で行われた大がかりな実験である。 海軍との契約で、158mまでエクスカーションしている。 ラ・チャルバ 1972ー1975 プエルトリコと海洋資源開発財団 参考にしたテキスト、「海中居住学」の著者の一人、コルビックのエンジニヤリングで行われた。かなり巨大な施設である。5人の科学者チームが、総計で50人あまり、珊瑚礁の研究などを行っている。エクスカーションは10回で水深80mに到達している。ハミルトンの名前が引用論文にでている。ハミルトンは、僕の1996年の100m潜水の減圧表をアレンジしてくれた。 このあたりまでが、代表的なものであり、以下は、プロジェクト名を挙げ、特に興味深いものについて、少し詳しく述べる。 ポータラブ 1972 米国レークラブ 1972 米国スピッド 1964ー1974 米国スーニラブⅠ 1976米国は、すでに述べた大がかりな四つの実験を行っている。 バラヌス 1968 ソ連ベントスー300 1966 ソ連ダルハブ 1968ー1972 ソ連イクティアンドル 1966ー1968 ソ連キティエシユ 1965 ソ連サドコⅠ 1966 ソ連サドコⅡ 1967 ソ連サドコⅢ 1969 ソ連セレナⅠ 1972 ソ連スプルート 1966ー1970 ソ連 ソ連は他にもチェルノモールを行っており。海中居住の実験に熱心だった。 バブル 1966 英国グローカス 1965 英国 カリブⅠ 1966 チエコスロバキア&キューバカルノラ 1968 チエコスロバキア エレボス 1967ー1968 チエコスロバキアクロボーク 1965 チェコスロバキアベルモン 1966ー1967 チエコクセニーⅠ チェコ チェコも海中居住に熱心であった。 マルタ 1968 ドイツ バーⅠ 1968ー1969 ドイツ ジェオヌール 1975ー1980 ポーランド メデューサ Ⅰ ポーランド アステリア 1971 イタリアアトランティック 1969 イタリアロビンスプ 1968 イタリア ヒューナック 1972 南アフリカ L Sー1 1967 ルーマニア ネリティカ 1977 イスラエル ヘプロス 1967ー1968 ブルガリアシェルフⅠ 1970 ブルガリア サブイグルー 1972ー1975 カナダ
もっとも北で行われた海中居住である。北極の磁極から201キロ、カナダのレゾリュートワンであった。時期は11月ー12月で北極の冬、太陽のない、暗闇で行われた。水温は-1。9度、北極の氷の下での海底観察、緊急用基地を目的とした小型の浅海ハビタートである。透明な半球状で直径2.5m、ダイバーたちは、半球の底に設けられた99cmの入り口から入り、側面に設けられたベンチに座り氷の下の景色を眺めることができる。200回余りの潜水が一回目の実験では行われた。1974年には2回目の実験が、エドウィン・リンクが行った結氷下飽和潜水の飽和潜水実験の緊急用海底基地としても使われ、1975年にはカリブ海でも使われた。無傷で保管されている。 サブリムノス 1969 カナダ ローラ 1972ー1975 カナダ アデレード 1967ー1968 オーストラリアツ スーニラブⅠ 1976 米国
ハーバート・ハーマン教授の指導の下にニューヨーク州立大学の工学部学生によって、4年がかりで開発製作された。上部に観察用の半球型の窓横には小型の窓がある。水深12mに置かれ、呼吸気体は空気で、船上からホースで送られる。1976年の最初の運転以来広範囲に使われた。1978年には人工魚礁の観察に使われた。1983年(この本が書かれた)現在、海底にある。 東京海洋大学(当時は東京水産大学)でこのようなハビタートを作ったらおもしろかった。 僕が予定通り、ハワイ大学に留学して、イージアなどに参加していれば、日本でコンなことが出来ただろうか、「あこがれのハワイ航路」時代の夢である。 水中テント生活 1966 京大探検部 1.2m×2.2m、高さ1.5mのテントで、水深10mで一人が24時間滞在した。なお、このテントはチェーンブロックで浮き上がらせ、水深3mでの3時間の減圧もこのテントで行った。 第一回の潜水は1966年 伊豆大島水深10mで行われたが、炭酸ガス濃度があがった為に3時間で中止した。 第二回は、和歌山県白浜、京大瀬戸臨海実験所で、1967年7月9日から始まり、7月24日終了で一人が24時間滞在できた。二人がテントにはいり、2時間、4時間、6時間 12時間と時間を区切って4人を送り込んだ。 読んだ資料「探検と冒険」朝日講座1972 には残念なことに実施した潜水の詳細な記録が掲載されていない。 もう一つ、日本では1968からの田中和栄さんの海底ハウスがあるが、これは別項で詳述したい。 1965年から1977年まで、建造が続けられた海中居住とは、いったい何だったのだろうか。 人間が生身の身体で大陸棚の範囲を海中居住で潜ろうとしたのが、マン・イン・ザ・シー計画から、シーラブ コンシェルフⅢ までの計画だった。やがて100mを越える潜水は、SDC ダイビングベルにとって代わられた。ダイビングベル、チャンバーは、ハンネスケラーの実験のように、海中居住の前の段階だった。ケラーの実験は飽和潜水ではなく、非飽和である。海中居住の後は、DDC甲板での居住、飽和潜水である。 一方で、海中居住は、ハイドロラブ テクタイト ヘルゴランドのように、飽和による週単位で研究者が海底にとどまることによって、継続した調査観察ができる方向へと道を転じた。潜水エクスカーションは、80m前後までおこなった。これは、一応の成功を見た。しかし、それも、長時間の観察はロボット、ドローンで行うことができる。採集、サンプリングだけならば、SDC、非飽和の方式でもできる。結局、海中居住は、莫大な国家予算で行わなくてはならず、しかも生身の身体だから危険が伴う。コストパフォーマンスで割に合わない。 しかし、1960年から1980年までの人間の潜水による海へのチャレンジは、潜水の歴史において最大のエポックであり、潜水の頂点であった。そして、もう一度、人類が海中居住の方向で海洋研究に向かうことは無い。海洋研究としての海中居住は、歴史になった。 日本のシートピアの場合、シートピアは早々と引退し、SDCによるより深い潜水に目が向けられ、走って行く。ハイドロラブ、テクタイトのパターンがない。それはアメリカのNOAAのような、ダイビングに熱心でダイビングの運用を研究し、マニュアルを作っていくような、言ってみれば公的な学術潜水組織が日本に無かったのだ。日本潜水協会、後の海中開発技術協会がそれになる可能性があった。 それについて、僕は本当に微弱であったが、努力をしている。海中開発技術協会が、レジャースポーツの団体になることに反対した。そのことについては、別項で述べる。 ※「海中居住学」JamesM. Miller Ian G.Koblick 訳 関邦博 真野喜洋 他 丸善」