☆ 日本潜水会 誕生 1967年12月 知らぬ間にこのスタイルにはまりこんでしまった。「どるふぃん」を読み直したのは、これまで、見えなかったことが見えて、良かったのだけれど、終わり方が気に入らず、ついスピアフィッシングを書いてしまった。これが、ニッポン潜水グラフィティのスタイルになってしまっている。ダイビングの歴史ではカットするから問題はない。カットするので、「ニッポン潜水グラフィティ」是非読んでください。 そして、この後のダイビングの歴史を見ていくとき、日本潜水会がスピアフィッシング禁止に踏み切ったことは、どうしても、書いておかないといけない。その禁止を書くためには、そのころのスクーバダイビングがスピアフィッシングをめぐって展開していたことも、書いておかないとわからないので、スピアフィッシングの頂点、行き着く先を書いた。。 ☆ 1600人の会員 関東支部 関西支部 誕生しようとしていた中部日本支部 を事実上おきざりにして潜水科学協会は消滅した。海中開発技術協会に生まれ変わるのだが、海中開発技術協会に一般スポーツダイバーの席はなかった。 旧知のアクアラング屋さん、親しい友人を中心にして、その他呼びかけに応じて来てくれたダイバーを集めて、ダイビング指導組織 日本潜水会を結成してトータク海洋公園で一週間の合宿訓練を行った。
友情も大事だが、それよりも、集まって何をしたか?が重要だ。 まずどのよう初心者指導、講習をするか決める。 1966年に出版した「アクアラング潜水」がある。この本の講習基準 プログラムを説明する。このプログラムの考え方のルーツはNAUIにあったことは、すでに説明した。PADIがうまれたのは、 1966-7 年である。 午前中のレクチャーで、講習の方法、線引き、何ができたら、どこまでやって良いかを議論した。集まったメンバーは、すでに店をもち、商売として成功している人もいるのだから、教えると言うよりも議論である。 ☆ 事故例重視 次にどのようにして安全を確保するか、事故防止である。残念なことに、これは、あれから50年を経過した2018年現在でも基本的に変わらない。事故は防げていない。これは、糸の切れた凧、自由に飛んでいくことの代償なのだ。しかし、1967年の時点では、基本的なルールを守り、研鑽を積めば事故は防げると思っている。まあ、あながち、まちがいではないけれど。 事故防止には、何よりも、起こった事故について、個々の具体例を研究し、同じことをやらないようにする。これも、今でも基本的にはかわっていない。それについて、まず自分たちが直に体験した、見聞きした事故例について、レポートを書かせてそれについて、議論した。 ☆泳力重視 次に実技だが、トータク海洋公園には、塩水だが50m、長水路の競技用の認定を受けたプールがある。海洋公園も、最初は世界中どこにでも海辺のホテルにある変形プールであった設計を競技用のプールにしたこと。これは、海洋公園の企画者である益田一の慧眼であり、僕たちは、そしてダイビング業界は、このことに、どれほど感謝してもしたりない。それまで、1967年の時点まで、スクーバダイビングの基本は泳ぐことだという発想はあったものの、泳ぐ練習をする場所がなかった。プールは水泳連盟のもの、僕たちはオフリミットだ。その後、BCなどの普及によって、必ずしも、そんなに泳げなくても良いという考え方もでてきて、また、深く潜るテクニカルダイビングなども、深浅移動であり水平距離をそれほど長く泳がなくても良くなった。しかし、レスキュー、命を救うということになれば、これは、一にも二にも泳力勝負の事態になる可能性が大きい。たいていのレスキュー講習は、溺者を陸上、船上に引き上げてからの処置だが、その前に泳いで助ける、引き上げなくてはいけない。せっかく、引き上げたのを殺してしまっては、身も蓋もないから、その後の訓練も重要だが、
海洋公園は決して潜りやすい安全な海ではない。泳力がないと戻ってこられない事態(ダウンカレント)も発生する。岸へのエキジットも易しくははない。そんな海に鉄砲もって魚を撃ちに行くのだ。年に一人や二人死んで不思議はない。どうしたら良いか、それはもう泳ぐしかない。泳力重視は、日本潜水会から始まった。ウエイトを持った立ち泳ぎ、地獄鍋とか、タンクを背負いウエイトを着け、スノーケルもマスクも着けず、タンクの空気も吸わずにプールを周回するレース 地獄旅とか、5キロのベルトを首に巻いて、これもスノーケルを使わないネックレス、すべてこの時の午後の練習から始まった。泳ぎの得意ではない青木大二さん大崎映晋さん、青木さんのクラブの会長で潜水会の事務局長に就任する松沢さんなどとっては、しごき状態になった。後におこる大学クラブでの練習中の事故もここにルーツがあったのかと反省することにもなる。 有力なダイビングショップのオーナー、クラブのリーダーなどから、あそこはダイビングの「虎の穴」という評価を受けて得意になっていた。若かったのだ。 そして僕は、この空気を作ってしまったことの責任をあとから痛切に反省することになる。 ☆スピアフィッシング禁止
夕食の後は、ダイビングの今後のあり方、などについて議論した。その席上で、NHKの河野から、スピアフィッシングをやめることにしようという動議がだされた。
なにしろ、魚突きの大会で集まったようなメンバーだ。たいへんな騒ぎになった。騒ぎになったということは、この動議を一顧もせずに却下したのではないということだ。実はこの議論の伏線として、魚突き大会について述べてきた。大会をやったところでは、ダイビングは禁止となり、組合長は罷免された。魚突きフィールドであったここ、海洋公園では、めぼしい魚は、みんな引っ越していなくなった。このあたりが潮どきという意見もあった。ブルーオリンピックにでている鶴耀一郎も中心メンバである。ラングによるスピアフィッシングだけを禁止にするべきだと、強硬に主張した。
アクアラング屋さんは、魚突きを目的にして、ラングを売っている。それでは、ラング禁止と言うのと同じだ。でも、素潜りだって規則では魚突きは禁止になっているのだ。
そんな規則はラングによる魚突きが始まる前に、カジキやイルカを突く漁で発射装置を禁止したもので、素潜り漁を対象にした規則ではない。いや、素潜りだって許可をうけた漁師でなければ禁止のはずだ。 コンプライアンスなんて言葉は、誰も知らなかったが。規則で禁止されていることをやろうと決めることは、まともな団体のやることではない。では、まともな団体であった潜水協会のスポーツ部がスピアフィッシング大会をやったりしているのは何だ。でもあのころ、こちらは射撃連盟をやっていた。協会が今も続いていれば、禁止に賛成するはずだ。
結局、禁止を決議した。銃をカメラに持ち替えよう。カメラを買えない若者たちの為には泳ぐ競技会をやろう。となった。 しかし、この問題は根が深く、50年を経過した今でも、魚突きは絶えず、続いている。 だが、これはパラドックスだが、今、2018年、魚突きダイバーが罪悪感を背負わされていながら、組合と交渉して、あるいはだれも見ていない離島で魚突きが出来るのは、この時、魚突きダイバーが集まって、禁止を決めたからなのだ。いま、レクリエーショナルダイバーが、そろってカメラを銃に持ち替えたら、どうなる?この業界の繁栄は、スピアフィッシング禁止のおかげなのだ。にもかかわらず、このあとも、スピアフィッシングやりたい蠢動が続くのだが。
とにかく日本潜水会はスピアフィッシングをやめることになり、鶴耀一郎は、父親の生地である奄美大島に帰り、魚突き漁師への道を歩むことになった。 そして、僕は東亞潜水機でシャーク銃を作ることができなくなる。
まとめ、 1967年、24人の当時の指導的なダイバーが集まって日本潜水会を結成した。1週間の合宿で指導プログラムを検討し、安全確保のローカルルールを議論し、事故報告の重要性を認識し、免許証の発行を決めた。 特筆することは、スピアフィッシングの中止を申し合わせたことで、ある。このことは、今後のダイビング界に大きな影響をあたえた。 集まったメンバーは、以下のとおり
省略
1967年の年代記部分は、こんなまとめのように書くだろう。