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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1110 ダイビングの歴史 36

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                        海の若大将 撮影につかった。
 ダイビングの歴史 36
 1964
 少し遡ろう。1964年トータク海洋公園誕生、東京アクアラングサービスの錦華園ビルにタンクを背負って梯子を昇った東京オリンピックの年だ。法政大学アクアクラブ、獨協大学にもダイビング部が出来る。法政大学は親戚だが獨協の方は、残念ながら、道であったら挨拶する程度のつきあいだ。
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             夏の海洋公園プールは、海水浴場のない、別荘地のための
             海水浴場だった。
 1965
 加山雄三の「海の若大将」が公開される。この映画撮影の為の35mmフィルモ・シネカメラのハウジングを作った。手を使って作ったのは島野徳明、川崎で、東芝で働いていた。潜水協会で知り合い、レギュレーターの部品を作ってもらった。彼はいわゆる下町のもの作りの達人で、何でも作ることができた。そのころ、そういう達人が、今のダイブウエイズのある立石周辺から向島、東亞潜水機のある南千住かいわい一帯、下町、もう一つは、蒲田、川崎あたり、これは、大体その辺に集まっていたと言うだけで、日本全国にそんな町工場が散財していた。そのいくつかが、高度成長の波に乗って、成長して、品川にあったソニー、浜松にあった鈴木担っていく。僕は、軽三輪に乗って走り回り、あそこではレギュレーターケースのへら絞り、ここでは高圧弁の切削加工、などなど、部品をつくらせて、とりまとめ、ものをつくっていた。今のダイブウエイズも、そんなものだ。
 その一人に島野がいて、それに、特大、径が1mにもなろうというハウジングを作らせ、数百万円のカメラを入れて水に沈めて水中撮影をさせてしまおうと言うのだから大変、でも僕は、やってみて、出来ないことは何もないと思っていた。日本人みんながそう思って、戦後の日本が出来た。
 1965年の公開だから撮影は1964、カメラを作ったのも、1964年だ。
 このハウジングの代金がもらえなくて、たらい回しになって、大沢商会に廻る。その大沢商会に白井常雄氏が居て世話になり、ベルハウエル16mmのハウジングを大沢商会から売り出すことになる。人の関わり合いは蜘蛛の糸のように広がり絡み合う。
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 その白井さんが大沢商会を辞めて、独立して、リックというダイビングショップをつくり、そこへ、水産大学の潜水部後輩の石川文明が就職する。今の館山、西川名の石川さんだ。
 
 水中射撃連盟が神津島でスピアフィッシングのコンテストをやったのも1965年だ。

 1966
 2月、全日空の北海道便 ボーイング727が羽田沖で墜落する。東亞潜水機に深田サルベージから、依頼があった。深田サルベージは日本最大のクレーンをもつサルベージ会社で、それから以降も長いことお世話になる。その深サルのクレーンで水中に落ちた機体
を引き揚げるのだが、水中に沈んでいる機体の現場写真を撮らなくては、航空局が引き上げのゴーサインを出してくれない。深サルのチーフダイバー宮本さんは名人と言われるヘルメットのサルベージダイバーであり、ニコノスで撮るのだが、ヘルメットではしゃがみ込んで接近した写真が撮れない。何とかしてくれ、もちろん行く。
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 しかし盟友の舘石さんにも声をかけない訳には行かない。舘石さんと一緒だと、舘石さんがカメラマン、僕が助手というパターンが定着している。このパターンから脱却したかった。それに、舘石さんはプロだから、必ずギャラの話が持ち上がる。しかし、声をかけなかったら喧嘩別れになってしまう。一時の躊躇の後で電話した。すぐに、「行こう」と言うことになった。そのころ浪人していた柳井、宇野沢組(このあとアジア海洋を設立する)もアシスタントとしてくるという。彼等は親友だ。
 僕は、そのころ、ミランダと言う、一眼レフの35mmカメラのハウジングを作ってテスト中だった。ペンタプリズムを外すことが出来るので、上から見て画像とピントが確認できる。これを持って行けば絶対だ。
 航空局の依頼は水中で翼のフラップが上がっているか下がっているか、その角度を撮ることだった。
 現場の直上に留めている台船に泊まるベッドがある。泊まり込んで、朝の5時から7時が僕たちの潜水時間だ。それ以降はサルベージのヘルメットダイバーが仕事をするので水が濁ってしまうし、そのように決められた。ただし、僕たちが終了するまで、ヘルメットは待ってくれる。同じ深田サルベージのダイバーで、宮本さんの手下だ。遺体のほとんどは揚げたが、まだどのくらい下に入っているかわからない。僕たちが撮影を終えて、機体を揚げてみなければ、その下の様子はわからない。
 冬、2月の羽田沖だ。水温は6℃。冷たいだろうが、ウエットスーツという強い味方がある。そのころは、ウエットスーツを着ればまず寒いとは、言わなかった。冷たいだけだ。
 潜水準備、ウエットスーツを被り、引き下ろした時、ウエットスーツが破れた。ゴム糊は持ってきているが、貼り付けている時間はない。テープで押さえつけて、行くしかない。
今ならば、ショップのインストラクターは、新しい、一番いいものを着るのだろうが、そのころは、お客よりも良いものを持ってはいけない。そして東亜は質実剛健の会社だ。
 冷たいけれど我慢。5時すぎ、まだ水中は、暗黒だ。宇野沢君がライトで照らして場所を探してくれる。ライトに照らし出されたジュラルミンの機体は白く光り、潰れた内装と外皮の間は細い線が一杯に詰まっている。飛行機とは、線の固まりのようだ。その線に絡まるようにして、乗客の持ち物だった財布、鞄、着衣の切れ端などが無数に見える。遺体があれば、もちろん揚げる。探しながら進み、翼のところ2018/11/09 22:59に着き、ミランだの画面でピントを確認して、シャッターを切る。
 一応撮るべきものは抑えた。さすがに身体がふるえだしたので浮上する。
 ウエットスーツのや破れの部分は、赤く腫れていた。 宮本さんは、通船ですぐに埠頭に戻り、現像。のんびりしていると、戻ってきて、全部だめだという。嘘だろう。多少の露出ミスならモノクロだから、焼きで調整できるはず。見ると、フィルムの巻き上げが流れている。カメラのミス、故障だ。脱力して、泣きたくなったが、すぐに、ミランダに事情を話して代替えを頼む。
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 通船を呼んでもらって埠頭に戻る。埠頭では、まだ遺体の揚がらない遺族の方たちが、待ちかまえていて、通船が着くと駆け寄ってくる。遺体を運んできたと思うのだ。ミランダの営業所は六本木にあり、ハウジングも持って行きカメラに合わせる。ハウジングなど、当時は見たこともない時代だから、写真を撮らせてくれと言われる。
 次の朝、今度の撮影はうまく撮れた。しかしもう一度、今度は、尾翼のフラップの状況を撮るように指示された。
 三日目の朝、潜水の準備をしていると、大きな船が僕たちが潜ろうとしている位置に止まった。これでは潜れない。NHKの取材船だという。こちらに優先権がある。排除、退いてもらおうかと見ると、甲板に緊張の面もちでタンクを背負っているのは、友達の河野と竹内だ。彼らが上がってからでも何とかなる。見送ることにした。潜水時間は20分とかからない。彼らが上がると、すぐにヘリが飛んできてフイルムをピックアップしていった。朝のニュースに間に合わせるためだ。この撮影でNHKの水中撮影班は名を売り、二人は何か賞をもらったはずだ。
 こちらも無事に撮影を終わり、目的は達成できた。僕の撮ったフィルムはすべて、航空局へ提出したが、舘石さんは、新聞社にフィルムを売ることは出来ないがアサヒカメラに売り、記事も書いている。その時の切り抜きがあったはずだ、と探したが見つけられない。
 僕は、深田サルベージの玉尾専務に顔を売り、深サルが深海潜水研究班を作るときにそのコーチになり、潜水部後輩の清水信雄が班長で、やはり後輩の横尾と、東海大学海洋探検部の創立メンバーの岩城、もう一人名前が思い浮かばないの4人がメンバーだった。
 清水は後にJAMSTECのシートピアに深サルから出向して、何かの班長をやっていた。横尾は深サルの仕事を続け、ずっと後になって、釣り船の富士丸が潜水艦にぶつかって沈没したとき、ぼくは、ニュース・ステーションの取材で潜ろうとしたが、僕らの指定された時間には潮が速くて潜れない。早朝、撮影の本船は離れたところに置き、ゴムボートで密かに後ろを回って撮影しようとした。既に台船が吊り線を取っており揚げるだけになっている。その線を伝って潜ろうとしたのだ。しかし、発見されてしまった。双眼鏡で見ると台船の上で指揮をとっているのが横尾だった。すぐに携帯で連絡して、見逃してもらって撮影した。もう、そのころはフイルム、ヘリの時代ではなく、お椀のようなアンテナで電送して、朝のニュースに間に合わせた。この話はまだ続きがあるのだが、ここで終わりにする。
 僕たちの人生って、そんなものだ。
 1966
海中開発技術協会発足
 話を1年前に遡る。あせって、1967 日本潜水会の話を先にしてしまった。
 1966年には、海中開発技術協会が発足する。潜水科学協会が名実ともに消滅したのだ。1600名の会員には何のフォローも無かった。
 僕はその動きの蚊帳の外にいたから、知らせを受けない会員諸氏と同列だが、すでに、水中射撃連盟、そして、この年1966年には、日本水中スポーツ連盟と言うタイトルで、八丈島でスピアフィッシングの大会をやっていた。

 1966
 東京医科歯科大学に我が国で初めて、高圧タンクと、潜水実験槽を組み合わせた、飽和潜水実験装置が作られた。梨本一郎先生指導の下に、1968年9月 水深12m相当、2昼夜のシミュレーションダイビングが行われる。テストダイバーは、真野喜洋(後に、医科歯科大学名誉教授)富田伸(後に、国保旭中央病院脳神経外科部長)らであった。
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          今の医科歯科タワーのあったあたり、にあった。

 ☆日本深海プロジェクト
 「梨本一郎先生、大岩先生らの呼びかけで、旭潜研の佐藤賢俊氏。
潜水研究所の菅原久一氏、中村鉄工所の中村満助氏、横浜潜水衣具の田中久光氏、が中心になって、「株・日本深海プロジェクト」が発足し、1968年、日本で初めての三人乗りSDC「たいりくだな号」が作られ、訓練用プールでテストが繰り返されていた。」
 ※ ダイビング・テクノロジー 石黒信雄著 より
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 東亞潜水機は、このプロジェクトには入っていない。だから、僕はこれも知らなかった。梨本先生、佐藤さん、菅原さんは、協会の中心である。海中開発技術協会として、日本の海底居住プロジェクトを行うことが必須だったのだ。
 この続きは海中居住の話につながる。
  

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