ダイビングの歴史 20 後藤道夫 年表
1960 昭和35年
3月から ニコンF ハッセルブラッド ローライ 改良新規開発作業開始
4月 ボルボ 車道楽
6月 チリ津波 伊勢真珠イカダ救助 和歌山ロケ、
イカダが壊れて真珠母貝が海底に落ちた。早く引き上げないといけない。鶴耀一郎などが行き素潜りで拾ったというが、まだ、鶴耀一郎は社員になっていない。アルバイト?
7月 相模湾漁協グループ潜水訓練スタート 8月 水死体引き上げ 箱根(中学生)
11月 水死体引き上げ 箱根(女性)
なぜか箱根芦ノ湖だろう、遺体引き上げが専門化している。
1961 昭和36年
1月 神経症再発入院 後藤は天才肌だが、危なっかしい。かなり頭がおかしくなるときが会った?僕にはその様子は見せなかったが。かなり苦しかったのだろう。
5月 東京へ移転 このあたり、おかしい。
東京と二重生活をしていたのだろうか。
真鶴にも家はあった。
とにかく タイトロープ生活だった。 6月 潜水事故 漁協組合員 8月 潜水事故 文春社員
僕の魚の食べ方が下手。はらわたの部分を残したりして、鶴耀一郎にしかられる。魚を食べる資格がない。
結局アジの干物をみやげにもらい。お金は必ず払うということで帰ってきた。
1962 昭和37年
4月 スキンダイビング用写真撮影 八丈島ロケ 20日間 5月 伊豆仲木写真撮影 7月 全国NHKカメラマン 潜水講習 9月 カリプソ試写
カリプソはジャック・イブ・クストーが作った。正しくはクストーらのグループが作ったのだが、とにかく作ったプロデューサーは、ジャック・イブ・クストーだ。このパテントを日本工学が買って、ニコノスに変身するわけだが、このカメラは水中カメラ史上最初にして最高のカメラだった。一般用のカメラをハウジングに入れるのではなくて、水中カメラなのだ。今のNikonAW1300がその努力をしているが、ニコノスのように水中撮影世界を席巻してはいない。
そのカリプソを日本光学のグループと一緒にテストした。 1962年当時、ボンベを車に積まないで、電車に乗って潜りに行かれるところは、真鶴と千葉県小湊だが、小湊は東京水産大学の施設だから、誰でも使えるわけではない。となれば、真鶴の後藤のところしかない。
伊豆海洋公園ができるのは、1964年で、海洋公園の中心である益田一も真鶴でダイビングを始めている。となると、すべてのダイバーは真鶴へとなるわけだが、それでもなかなか経営が難しかったのは、後藤道夫も僕と同じ、自分が海に潜ることを何よりも優先してしまう。それも、日本全国、世界の海を視界にいれてしまう。社長が潜りにいって居なくなってしまうのだ。しかし、海に入らないと神経症になってしまう。 ともあれ、日本光学のダイビンググループは、真鶴で後藤道夫とともに潜水して、カリプソから、ニコノスへと歩みを進めて行く。
お金持ちの道楽息子だったのか、それとも、辣腕のビジネスマンだったのか、たぶん、その中間だったのだろう。有楽町駅前(東京の中心で、「有楽町で会いましょう」というくらいの)の日活ビルの一階に事務所を構え、通りに面したウインドにはローライマリンを飾った。(東京ダイビングセンター)
そして、「水中で危険な仕事何でも引き受けます」という趣旨のパンフレットを作って、ジープに乗って、挨拶して廻った。南千住の東亞潜水機にも来た。自分に輪をかけたようなバカか。
その後藤欽一が激烈な減圧症にかかってしまう。知的な、どちらかと言えば文学的?な男だったから、無知でなったのではない。無茶でかかったのだろう。
後藤道夫とは、苗字は同じでも親戚でもなんでもない。真鶴からダイビングを始めたのだろう。
今のように各地に再圧タンクがあったわけではない。医科歯科大学にも人間の入る設備はない。潜函工事の潜函に入れるのだ。晴海の白石基礎の潜函にいれる。後藤道夫は、その付き添い、世話をする。
植松直君という、大島水産高校伝説の子がいる。大島水産高校は、水産高校潜水教育の嚆矢である。その潜水教育の始まりのころ、カルデラの小噴火口である波浮の港の中心に、多分30mぐらい、石を抱えて沈んで海底の小石をつかんであがってきた高校生だ。植松君が後藤欽一の右腕になる。そして港湾工事、ケーソンの据え付けの誘導でクレーンオペレーターのミスで、ケーソンの下敷きになり亡くなってしまう。(1963年)
後藤欽一は、挨拶に来た。「もうやめます」その後彼の姿をみていない。
「グランブルー」という映画をたいていのダイバーが見たとおもう。このごろでは「グランブル」というマンガがあったりする。受け取り方は人それぞれだが、グランブルーは、破滅的な男たちの物語だ。