1958 ペガス(天馬)海洋大学博物館
どるふぃん2ー1(1958 4月)
この号から 日本ダイビング協会が日本潜水科学協会に代わっている。ダイビングというと、飛び込み競技と混同するからというのが理由である。
ヘリウム潜水体験記 芝直茂
海上自衛隊 の方で、米国でヘルメット式のヘリウム潜水を体験した来られた。
種市潜水学校 紹介
今は立派なプールもあり、練習船もある施設、多くのプロ潜水士を輩出したそのスタートのころである。
ダイビングと水質汚染 猪野峻
定置漁業における潜水の活用について 鈴鹿文俊
60mまでアクアラングで潜っている。
水中写真に関する知見 白井祥平
奄美大島を中心として 1956年に僕も参加したエキスペディションでの撮影の発表である。トピックス
ペガス現る
16mm映画カメラ:ライトを先端に着け、たフランス製先進の水中ビークルである。4月26日 東京水産大学のプール、ぼくがテストダイバーになった。(ドライスーツを着ている)まるで走らなかった。バッテリーの問題だろう。とろとろ泳ぐよりも遅いので、押して泳いだ。
その後、使われたという報告はどこにもなく、現在、東京海洋大学の博物館に まだピカピカの姿で展示されている。購入の価格はおよそ800万とか、ぼくの初任給が1万円以下の時である。
東京水産大学の学長になった佐々木忠義先生(潜水協会の会長でもある)は、フランスと特別な関係を作ろうとしていた。(日仏海洋学会など)その一端だったかもしれない。
スキューバダイビング 初級講習会 (第5回) 東大室内プール)
会員数は274人である。
どるふぃん2-2(1958 11月 )
フランスから深海潜水船バチスカーフが日本に訪れた記事特集だ。
来日したバチスカーフは、フランス海軍のもので、日本沿海で何回かの潜水を繰り返して、日本の学者何人か(水産大学の熊凝教授、新野弘教授 久保教授など)が同乗し、2800mまで潜り、その感想文を「どるふぃん」に載せている。
トピックス
日本橋三越屋上に深さ(高さ)3m、アクリル円筒のプールを置き、アクアラングを見せようという企画、ビッグプロジェクトだ。重さで屋上の底が抜けたら大惨事になる。計算上大丈夫だとしても、やってみなければわからない。ここにも後援がなぜかフランス大使館、フランスはダイビングを外交手段に使った。
僕は、水中脱着が得意だったので、毎日出演し、さらに上達した。僕のダイビング技術の原点になった。 真鶴ダイビングセンター(後藤道夫)が出来、空気の充填ができ、機材の保管ができることを予告している。(梨本先生記)
もし、講習以外のダイビングをしようとすれば、まだ、自家用車(といっていた時代)もなくタンクを背負いウエイトを腰に巻いて改札をなんとかくぐり抜け、電車に乗り、歩いて行かなければならない時代である。
どるふぃん2ー1(1958 4月)
この号から 日本ダイビング協会が日本潜水科学協会に代わっている。ダイビングというと、飛び込み競技と混同するからというのが理由である。
ヘリウム潜水体験記 芝直茂
海上自衛隊 の方で、米国でヘルメット式のヘリウム潜水を体験した来られた。
種市潜水学校 紹介
今は立派なプールもあり、練習船もある施設、多くのプロ潜水士を輩出したそのスタートのころである。
定置漁業における潜水の活用について 鈴鹿文俊
60mまでアクアラングで潜っている。
水中写真に関する知見 白井祥平
奄美大島を中心として 1956年に僕も参加したエキスペディションでの撮影の発表である。トピックス
ペガス現る
16mm映画カメラ:ライトを先端に着け、たフランス製先進の水中ビークルである。4月26日 東京水産大学のプール、ぼくがテストダイバーになった。(ドライスーツを着ている)まるで走らなかった。バッテリーの問題だろう。とろとろ泳ぐよりも遅いので、押して泳いだ。
その後、使われたという報告はどこにもなく、現在、東京海洋大学の博物館に まだピカピカの姿で展示されている。購入の価格はおよそ800万とか、ぼくの初任給が1万円以下の時である。
東京水産大学の学長になった佐々木忠義先生(潜水協会の会長でもある)は、フランスと特別な関係を作ろうとしていた。(日仏海洋学会など)その一端だったかもしれない。
スキューバダイビング 初級講習会 (第5回) 東大室内プール)
会員数は274人である。
どるふぃん2-2(1958 11月 )
フランスから深海潜水船バチスカーフが日本に訪れた記事特集だ。
来日したバチスカーフは、フランス海軍のもので、日本沿海で何回かの潜水を繰り返して、日本の学者何人か(水産大学の熊凝教授、新野弘教授 久保教授など)が同乗し、2800mまで潜り、その感想文を「どるふぃん」に載せている。
トピックス
僕は、水中脱着が得意だったので、毎日出演し、さらに上達した。僕のダイビング技術の原点になった。 真鶴ダイビングセンター(後藤道夫)が出来、空気の充填ができ、機材の保管ができることを予告している。(梨本先生記)
もし、講習以外のダイビングをしようとすれば、まだ、自家用車(といっていた時代)もなくタンクを背負いウエイトを腰に巻いて改札をなんとかくぐり抜け、電車に乗り、歩いて行かなければならない時代である。