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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0925 ダイビングの歴史 15 後藤道夫と自分の個人年表

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後藤道夫と自分の個人年表   1955 昭和30年
 須賀
 東京水産大学へ入学、館山の水泳実習でアクアラングをみる。
 アクアラングを目標にすると決めて、葉山の磯 名島周辺で素潜りで魚を追い回す。
 
 後藤
 5月 初めてアクアラングをみた。
 6月 菅原久一氏とあう。
 7月ー10月 江東楽天地プールでアクアラング独習
 12月 米国空軍の軍人と葉山で潜る。
 江東楽天地の屋内温水プールでは、アクアラングの講習も行われた。ダイビングの死亡事故が起こり使えなくなってしまう。その事故の詳細はわからない。江東楽天地は3月9日の大空襲で、たくさんの遺骨を埋めた。その上に建設された。水死体も多かった。その上にプールを作ったたたりだという。都市伝説なのか、本当にダイビングの事故があったのか、後藤道夫にたしかめないうちに逝ってしまった。 1956
 須賀
 夏 奄美大島、白井祥平先輩の探検に参加して、初めてタンクの空気を吸う。残圧20キロで水深5mに潜る。ハマフエフキに出会う。
 秋 葉山の磯でアクアラング独習中の後藤道夫と出会う。 後藤
 3月 菅原久一氏 潜水研究所創立 入社する。菅原さんは1954年までは東亞潜水機にいた。55年に退社 56年3月に(株)潜水研究所を作る。後藤道夫は入社というよりも、無給に近い弟子入りしたと思われる。
 
 1957
 須賀
 潜水実習を優等生?で修了
 一級上の先輩 竹下さん 橋本さん、バディの原田進とダイビングクラブを結成する。後に潜水部に格上げ。2018 60周年を迎えた。 後藤
 日本ダイビング協会が毎日ホールで「沈黙の世界」を上映して会員募集をした、その時、ドライスーツを着て、プラカードを持ち、チャンピオンフィンを履いて有楽町を歩き宣伝した。

 1958
 須賀
 卒論はサザエの棘、日周成長線がテーマ、伊豆大島波浮でライントランセクト調査、コンプレッサー・エアーステーションなどなく、ほとんどをスキンダイビングで行う。最大水深20m
 日本潜水科学協会が行った日本橋三越屋上でのダイビングショウ?に出演して水中脱着とバディブリージングを見せる。
 秋 人工魚礁調査 クストーらが開発したコンスタント・ヴォリュームドライスーツ(頭もマスクも密閉してしまって、マウスピースも服の中に出ていて、服の中に空気を入れて、スクイーズを防ぐことができる)で、服が一着しかないので一人で30mに潜水してエア切れ九死に一生するが。二人だったら二人死ぬかもしれない状況だった。密閉されているのでマウスピースの交換ができない。浮上しても外の空気が吸えない。 後藤
 菅原さんの潜水研究所は、お茶の水ニコライ堂の前の通りの狭い路地を入ったところ、普通の家の納屋みたいなところ。前の小さな空き地で、米海軍のスクラップである戦闘用高圧消火器ボンベの赤い塗装をブラシで擦ってはがしていた。訪ねた目的は、コンスタント・ヴオリュームドライスーツを借りるためで、ここで初めて親しく口をきき、生涯の親友になる。
 その秋、真鶴ダイビングセンター準備を始める。
 
 1959
 須賀
 就職口が無く、ブルトーザ修理工場に就職し機械の修理を学ぶ。
 10月 東亞潜水機に拾ってもらう。ぼくの作業机は、菅原久一さんの使っていた机で、目の前の壁には、青い大陸の映画スチルが貼ってあった。
 コンスタントヴォリュームのドライスーツは東亞潜水機で作っていたことも知る。 後藤
 神奈川県真鶴に、日本初のダイビングサービス 真鶴ダイビングセンター(後に後藤アクアティック)が稼働・オープンする。
 
 

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