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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0828 益田一さんを記念する展示会

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 昨日、益田さんの展示を見に、小田原の「生命の星、地球博物館」に行った。「益田一と日本の魚類学、魚類図鑑に生涯をささげたDANDY」を見に行った。
 益田さんについては思うことがたくさんありすぎる。月刊ダイバーにも、もう何度も書いている。そんなことで、僕の話を伊豆海洋公園で10月18日にお話をさせていただくことになった。僕としては、講演もだが、久しぶりで、コーディネーターをしてくれた、森田君のガイドで、伊豆海洋公園で潜らせてもらおうという気持ちがある。 益田さんが伊豆海洋公園を退いてしまって以来、僕は海洋公園に行っていない。
 最後にお目にかったときの写真をさがした。2003年、12月8日、日本潜水会、もうこれで、みんなには会えなくなるのではないかと病気を押してきてくれた。これが会った最後だった。

 左から、左から、柳岡稔一郎、(多良間の柳岡君のお父さん)益田一、後藤道夫、大津善彦、加藤芳雅(法政大学ダイビングクラブ創立メンバー)
 左端、半分は鈴木一成、右端は、小島敦夫、昔 海の世界という雑誌の編集長、それからオーシャンライフという雑誌も編集長をつとめた。

 益田さんが亡くなったのが2005年12月、これも8日、12月8日、日本がアメリカと戦端を開いた日だ。なぜ、こんな、あんな戦争を始めてしまったのだろう。もう一度日本人が考えなくてはいけない。その日を僕たち日本潜水会は定例の集まりの日にしていた。2005年も僕たちは年に一度の集まりを開いていた。
 2005年以後、いろいろな意味で会えなくなってしまった人がたくさんいる。2006年、12月8日の写真はない。


 
 博物館特別展示の入ってすぐに掲げてある写真、益田さんがローライマリンを持った写真、これは1967年、僕たちが伊豆海洋公園に集結して、日本潜水会を結成したとき顧問格、特別会員として入ってもらった益田さんを後藤道夫が撮影したものだ。
 
 小田原から真鶴に回り、その後藤道夫に会ってきた。体調を崩していて、なんとか立ち直ったというが心配になっていた。僕にとって一番大事な友達だ。
 人は生きる限り夢を追い続けなければいけない。「JAUSで日本全国に定点水中カメラを置こう。俺がつくるから。」 せめて、福島第一の沖の根に、スペクトル分析も含めて、定点観測カメラを置きたい。後藤道夫がそれを作る時間は残されているだろうか。
 
 話を益田さんにもどして、僕は、海の生物の研究者をめざして水産大学で学んだが魚類の分類学は専門としなかったので、益田さんとこの展示にかかわる接点はない。その代わりに、魚類学以外の益田さんのダイビングのすべてにかかわり合っている。スピアフィッシング時代、そして1967年に銃を置き、カメラに持ち換えてからの水中スポーツ、今でも毎年12月の第一日曜日に恒例で開かれる、日本のスポーツダイビング最大のイベントである全日本水中スポーツ室内選手権大会は、益田さんと僕が始めて、以後、みんなの力で育て上げて来たものだ。その功労を記念して、益田杯がある。
 
 伊豆海洋公園では、1960年代、潜水事故が続出して、どうしたら良いだろうと相談を受けた。
 泳ぐことが事故防止につながると僕は思っていたから、とにかく泳がせようと提案した。フリッパー競泳のはじまりである。
 競技会のいきさつは月刊ダイバーに詳しく書いたが、とにかく泳ぐことが無事、安全につながる。今も昔もこれは真理である。泳ぐ能力がダイビングの水平方向、面の広がりの安全に比例する。垂直方向、水深については、あまり泳ぐ能力は必要ないが、それでも最終的な緊急事態には泳ぐ力が命を救うのだろう。
 
 後に益田さんの一番弟子として一流カメラマンになった中村宏治は、今も太っているが昔も太っていて、世界最速の泳ぐ豚であった。益田さんがそう言っていた。オリンピック選手の山中(もはや引退したあとだし、フィンを履いての勝負だったが)よりも速かった。
 いまはどうだろう。僕はずっと水中スポーツのプロデュースをしていたから、自分では泳がなかった。泳げない人だと思われていた。60歳になり、プロデューサーとしては余裕が出て来たので、選手になった。60代の400mで3個の金メダルを持っている。中村宏治にも、泳ぐようにと勝負を呼びかけたが、逃げられた。
 競技会でのフリッパーレースの泳ぎ方についても益田さんは一家をなした。僕の考えともほぼ同じだったが、身体は水面に水平に、顎を上げて、額で水を分け、後ろのフィンの先端は水面にちょっと出るように胸を張る。ボートで言えばハイドロ型だ。このフォームに沿って、当時、鬼怒川の顧問をしていた僕はエムデンを作らせ(設計はダイブウエイズの武田さん)それが発展してミューになりワープになる。(ミューとワープには僕は関わっていないが)1973年の海洋博 ダイバーズフェスティバル(月刊ダイバー8月号)当時、エムデンは日本最速のフィンだった。今でもエムデンは小さくて軽い割には速いので、高齢者に最適である。
 なお、このハイドロフォームの他に、頭をつっこんで強引に泳ぐフォームもあり、中村宏治は、このフォーム、そして女子では、おそらく不世出の松崎(名前は失念)さんも頭を突っ込んでいた。頭を突っ込むといっても無理に反らしているのではない水平だが、だから理想のフォームがどうあるべきかについては結論がでていない。
 水面を長距離泳ぐレースでは方向がわからなくなるから、やはり、ハイドロ型が良いだろう。森田君がコースを間違えて、海洋博のレースで負けた話を月刊ダイバーに書いたばかりだ。

 生命の星地球博物館の展示は、博物館の瀬能博士が中心になって作り上げた。瀬能さんと僕は縁が薄い。彼は分類学者としての益田さんの後継者だし、僕は分類学とは関わっていない。海洋公園で1ー2回お目にかかった程度であった。今度の展示会場でお目にかかろうと連絡したが、夏休みとか、僕のスケジュールと合わなかった。メッセージを書いて会場に預けておいたら、留守電が入って、実はそのとき博物館の中、どこかにおられたとのこと、やはり縁が薄いのか。そのうちにおめにかかれるだろう。

 日本潜水会の延長線上で日本水中科学協会を始めたとき、益田さんがおられれば、当然、助けてもらうべく、お話をしたはずだ。研究者のダイビング、リサーチダイビングの安全を唱え、研究的なダイビングとレクリエーショナル・ダイビングとのクロスオーバー、そしてリサーチダイビングとは撮影に他ならないとする僕のコンセプトは、海洋公園を水中科学(主に魚の観察撮影の)メッカにしようとしていた益田さんの考えにかさなる。きっと、1967年の日本潜水会の特別会員と同様に、今回も特別会員をお願いしただろう。いや、お願いするまでもなく横滑りで特別会員だったろう。会長をお願いしても良いのだが、それは、決して受けなかったと思う。良い距離を置くというのが益田流である。
 益田さんが僕に言う口癖は、「須賀さんも僕もやがてはのたれ死にだ。」娘の潮美が益田さんの出版記念会でそれを聞いて「どういう意味なの」と不思議がっていた。僕の、のたれ死には、見ての通りだが、益田さんののたれ死には、娘には理解できなかったのだろう。最後まで歩き続け歩きながら死ぬということ、潜り続け、潜って死ぬということ、そういう覚悟を言っていたのだろう。僕は褒めらていて、同類だと思われていたと解釈している。
 時間があればもっと書きたいけれど、またにしよう。

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