競技を生涯スポーツとしてやることも多い。しかし、スポーツの中で、競い合わない。自然とともに過ごす、自然と同化するスポーツ(身体活動)もあり、それは、純正な生涯スポーツとも言える。ダイビングはまさしくそれだ、と1987年当時、主張した。そして、競技スポーツよりも生涯スポーツの方が上位にある概念で、生涯スポーツの中で、勝負が最上位にくる。すなわち勝たなければ意味がない。常に勝利を目指すものが、競技スポーツだ、とも考えた。
2020年、東京オリンピックが行われる。東京は、「そこのけ、そこのけ、オリンピックさまが通る。」それに反対しているわけではない。お台場で行われるトライアスロン、できる範囲の協力を申し出ている。しかし、自分にとってのスポーツは生涯スポーツであり、日本国民全体のためには、生涯スポーツを大事にするべきだと考え続けている。
そして、ダイビング、水に潜るスポーツは、オリンピックスポーツにはなれない。競技スポーツの人別から外されている。登山、ダイビング、スカイスポーツ、と人別外のスポーツを並べてみるとわかる。これらは、中田さんのいう商品スポーツで、安全至上、安全が義務である致死性スポーツであり、その致死性ゆえにオリンピックから外されているのだ。生涯スポーツこそが、スポーツであるから、これらすべてを包括している。
第一回、アテネで開かれた近代オリンピックの始まりには、潜水距離を競う、今アプネアでいうダイナミックがあった。しかし、この競技は、最後は生死を競うことになるということで、オリンピックから
外された。
水泳競技からも、潜るという行動は否定される。オリンピックで、水泳、平泳ぎの古川選手が潜水泳法で驚異的な記録で優勝した。平泳ぎ競技を見るとわかるが、造波抵抗の固まりだ。潜った方が速いに決まっている。
スポーツ庁長官になった鈴木大地は、潜る背泳、バサラで金メダルをとったはず。もちろんバサラも制限された。とにかく、オリンピックは日本人選手が潜水して勝つと禁止される歴史を辿っている。
フィンを着けて泳ぐフィンスイミングもオリンピック競技にはならない。中国が強いので、北京で正式ではないが参加した。すべてのオリンピック種目より速い。そして、推進に道具を使っている。だからだめだ。これには、僕も少しばかり関わった。僕たちの水中スポーツと、フィンで泳ぐ共通項があるので、一緒にできる部分もあるかと打診されていた。
スポーツには、ある制限ルールのもとで競うという本質がある。制限を道具、あるいは文化の違いで突き破ると否定される。そうでないと競技スポーツの歴史(記録)が成立しなくなる。
フィンスイミングも、生涯スポーツとして、盛んに行われるようになった。辰巳国際水泳場に行くと、フィンスイミングの練習が目立って見られる。大きなものフィンを背負ってくる女性スイマーが目立つ。フィンスイミングは、スピード感があり、泳ぐ姿も格好いいのだ。やがては、オリンピック種目にもなるかもしれない。
ダイビングは、自然を相手にするスポーツである。そのことが、生涯スポーツとしての価値を高めている。自然を相手にする。自然の中に溶け込む。大きな自然の中で、自分の意志と感覚で、自分の生命、そしてチーム、バディとそれを共有する。バランス感覚とメンタルが、結果を、場合によっては生死を決める厳しいスポーツである。そのことによる緊張と喜びが自分の生きる力になる。人それぞれだからそれぞれの考え、解釈があると思うが、ぼくは、そんなふうに考える。
そして、もう一つダイビングで何をするかという問題がある。ダイビングは、それ自体、それだけでも、今述べたような価値があるスポーツだが、僕らの世代は、ダイビングは、水中で人間が何かを成し遂げるための道具だというフィロソフィーを吹き込まれてそだった。海洋開発の時代である。人は地球上最後のフロンティアである海へと向かう。そのことを生き甲斐にして、自分の人生を送ってきた。
その何かとは、それも人それぞれだが、僕の場合は撮影記録であった。大多数のダイバーがそれぞれ目標は異なっても撮影が目的、目標になる。ダイビングと撮影は不可分になっている。この撮影が、無理をするモチベーションにもなるのだが。
僕の場合、それらの行動が、年齢が進むとともに、生涯スポーツと不可分のものになっていった。60歳が普通の職業で定年だが、その定年後はことさら、その区別がつかなくなった。生きていることそのものがスポーツになる。
人それぞれが口癖になってしまうが、多くのプロダイバーは、ダイビングショップでも、作業ダイバーでも、研究者でも、スポーツ感覚で仕事をしてきた人が多いだろう。自分の場合、そのことが、自分の仕事を経済的な成功に結びつけられなかった原因になった。決して後悔していないことが厄介だが、つまり、自分の仕事、事業もスポーツだったのだ。
特筆しなければならないのは、研究者にスポーツマンが多いことだ。科学研究は、イコール探検である。
僕の座右の銘は「探検は、知的情熱の肉体的ひょうげんである。」スコット南極探検隊のチェリー・がラードのことばだ。表現を少し変えると、「探検はスポーツである。研究は未踏の地を探る知的な冒険である。」 これは、今別に書いている高気圧障害防止規則のこととからまりあう。ダイビングの場合、スポーツと労働法規にいう業務の区分けができにくい領域が発生してしまう。この規則は、人、スポーツを未知の領域をさぐる研究者を労働法規で縛る。また、縛られないことを至上と思っているスポーツダイバーを不幸にするものかもしれない。しかし、コンプライアンス、規則は守らなければ、社会は継続していかない。そして、やはり、安全管理、危機管理は、ルールなのだ。