もう一つは、自分が続けるスポーツとしての生涯スポーツである。
ダイビングは、フリッパ―競泳など、泳ぐ速さを競う競技も行っていたが、それは、水泳競技ではなくて、安全のために泳力を強化するための競技と考えた。今では、シニアの競泳なども立派な生涯スポーツだと思っているが、1990年代は、水泳競技は、体協の領分、生涯スポーツではないと考えていた。後で述べるが水連との対立もあったのだが。 生涯泳ぎつづけ、潜り続けるために、僕は1987年、完全に禁酒した。なお、禁煙は33歳のころからである。
60歳の100m潜水をやったころから、高血圧であり、他にも次々と障害は出てくる。決して健康体ではない。しかし、すべての運動をやめたところで、寿命が延びるわけのものでもないだろうし、80歳を越えると、とにかく死ぬまで頑張るというのが、生涯スポーツだろう。今、もし、すべての運動を禁じられたら、寝たきり老人になる。
出来るだけ、人の助けを受けないでダイビングを続けたいが、重いタンクとウエイトを背負ってのエントリーエキジットは辛い。一年一年とこれまで出来たことが出来なくなってくる。別に記録を作るわけではない。出来ることを出来る限り続けたいのだが。 さて 次は施設だが、
東京オリンピックで作られた代々木に代わる競技水泳の聖地、殿堂だが、意外なことにこのプール、スクーバダイビングもする事を目指して作られている。そのいきさつについて残念だが詳しいことを知らない。
文科省に生涯スポーツとしてのダイビングを働きかけたのは、正にそういうことになるのを目指したのだが、それと関連があったかどうかわからない。
建設の途上で、都庁にヒヤリングに呼ばれた。深さ5mの飛び込みプールでスクーバダイビングをやらせる場合の何かアイデアを聞かれた。タンクを背負って上がりやすい階段を提案したが、もう設計変更できないと言うことでそれはそれまでだった。
1993年8月にプールができ、社会スポーツセンターは、1994年、この辰巳プールで第一回の水中スポーツ室内選手権大会を開催した。成功して、この大会は、後に習志野に移るが今年で24回になる。
この競技会は1975年に沖縄海洋博で行われたロレックスがスポンサーで行った水中スポーツ大会の延長線上にあるもので、僕はその最初の企画の段階から関わっているが、自分が選手となって泳ぐ発想は無かった。しかし、辰巳に会場を定めて、室内選手権になった機会に、生涯スポーツという視点から、年齢別の表彰をする事になり、僕は400mフリッパーレースに出場して60代の部で優勝した。
一回目は一人だけで泳いで金メダルをもらった。
2個め、3個め、4個めの金メダルは誇れる記録で、一緒にコースを並べて泳ぐ、50代の選手の何人かを抜いている。
1996 7分06秒 61歳
1997 6分40秒 62歳
1998 6分29秒 63歳 自己新
1999 6分48秒 64歳
2000 癌の手術
2001 7分17秒 66歳
2002 7分26秒 67歳
7分が切れなくなり、金メダルもとれなくなったので2003年からやめてしまった。
今振り返れば、タイムとか勝負にかかわらず続けて記録を取っていれば良かったと思う。それが生涯スポーツだ。 辰巳の管理は、まず都の財団が行っていて、その時代は、プールの主催事業としてのスキンダイビング講習会、スクーバダイビング講習会も僕が講師として行うことができた。
やがて、管理が民間に移管され、コナミグループから、セントラル・オーエンスなどが行うようになり、5mのダイビングプールは、貸し切りで練習を行うスキンダイビング、フリーダイビンググループの場となった。当初はほとんど競争無く借りられていたのが、今は抽選が激烈である。自分も「日本潜水会」というタイトルで参加し、何とか月間で2~3回を確保している。
さて、辰巳に続く、僕のスキンダイビングのホームグラウンドである浦安運動公園は、まさしく、日本有数の生涯スポーツのための施設である。水泳、スキンダイビングなどの多目的水泳、車いすのための設備、リハビリのための歩くプール、子供たちのための浅いプール そして体育館としてのほとんどの球技、トレーニング施設、武道館、屋外のグランド、こういう施設が全国に作られることが、国としての生涯スポーツの目標だったのだと思う。浦安の場合、千葉県としては、近くに習志野に観覧席付の大きな競技用プールがあり、習志野が競技用の施設だから、浦安が生涯スポーツの施設になったと聞いた。1996年の竣工である。 2002年、僕は、辰巳の主催事業であったスキンダイビング講習から、派生して浦安運動公園の屋内多目的プール、水深3mの20mプールでスノーケリング講習を行った。そのころは、スノーケリングとはスキンダイビングのことだったので、タイトルはスノーケリング講習だった。後にスノーケリングは、潜ってはいけないことになり、悩むことになる。その講習は大好評で、そのときの講習生を中心にして、浦安海豚倶楽部ができた。この倶楽部が僕の生涯スポーツとしてのおおきな成果になっている。続く