この10年は、ほとんどボートだったから、ビーチについて、全く事情はしらない。たしか、沖縄でのスキンダイビングのロケーション、参考書を買ってあったはずだが、必要になって探すと見あたらない。
聞けば沖縄本島では、ビーチからのスキンダイビングはやらせない、とか。噂だけにしても信じられなかった。スキンダイビングは、ダイビングの基礎、大本ではないのか。
スノーケリング、スキンダイビング、フリーダイビングの区別、線引きも、スキンダイビング・セーフティの改訂版で提案したばかりだし。どういうことなのだと知りたかった。
ライフジャケットを着けたスノーケリングは、安心だ。フリーダイビングは、自己責任が明確だし、それにいろいろ安全策を講じているようにみえる。
スキンダイビングがよくわからないものになりかけているのだろう。
スキンダイビングもスクーバもほぼ同じ程度危ないとすれば、スクーバダイビングはダイビングショップが管理できるから、責任はダイビングショップにある。スキンダイビングだってダイビングショップが管理すれば良いのだが、ショップに行かなくてもスキンダイビングはできる。ダイビングショップがスキンダイビングに熱心ではない。スノーケリングツアーのほうが商売になるし安全だ。スキンダイビングは監視の眼がとどかないおそれもある。
沖縄では、スキンダイビングは、わけのわからない谷間におちている。ということだろう。 この日、本部にあるゴジラチョップというポイントに行く。略してゴリチョ、有名なポイントらしいが、僕は行ったことがない。スクーバでもビーチエントリーの良いポイントらしい。
海は凪で、流れもないようだ。滑るので危ないが、タンクを着けていないから大丈夫?、という階段になっているスロープからエントリーする。別にスキンダイビングが禁止されているようには見えない。ただ、泳ぐ人はマスクとスノーケルを着けていれば、ライフベストか、腕に取り付ける浮き輪を使っている。つまりスキンダイビングはしていない。スノーケリングだ。一人だけ、地元の人らしいスキンダイバーが泳ぎ出して行った。観光的にはスノーケリングが定着している。
沖縄本島あげて、溺死者を皆無にしようと努力しているのだ。それに反対することはできないが、こちらはとにかく潜らなければいけない。
溺死を無くすには、物理的な手段が絶対的である。僕がスクーバで死ななかったのも、危機一髪の時にロープが、あるいはケーブルがあった。
物理的な手段としてはライフベストが一番確実だが、着けていたのでは潜れないから、浮子は、手でつかまる。潜るときに手放せば良い。これは海女の浮樽と同じようなもので、伝統的とも言える。
ゴリチョは、水深5ー6mで、サンゴも美しくないし、魚もクマノミ程度だが、練習には、良いところだ。
浮子の操作体験という海洋実習らしい海洋実習ができた。これまでの海洋実習としてベストである。
次回、来年の実習には、二人に一個ずつ魚雷型のブイを持たせることになるだろう。
ブイがあることによって、一人はブイにつかまって、バディの潜るのを監視できる。
心配なのは、フリーダイビングのトレーニングを受けた、つまりフリーダイバーが、ここに述べたスキンダイビングルールを越えて潜る場合だ。不世出のモルチャノバもこれで死んだ。いけないとは言わない。死に方の一つの理想のようにもおもえる。ただ、これをスキンダイビング事故、ましてやスノーケリング事故だと呼ばない、呼ばせないようにしたい。フリーダイビングのトレーニングを受けたダイバーが、スキンダイビングの範囲を超えて潜り、事故を起こした場合には、それはフリーダイビング事故だ。と説明する義務が、フリーダイビングの組織にはある。
こんなことを言うと叱られるだろうが、チャレンジはフリーである。フリーということは別の表現で言えば、幸せということだ。幸せに死んだら、それを他の責任にしてはいけない。行動の責任を商品化すること。責任者を探すことで制限がかかる。 またここで僕は撮影の失敗をしてしまう。波左間の失敗の後遺症とも言えるのだが、マスクマウントの動画、GOPROもAKASOも持ってきていない。スキンダイビングで使いやすいマスクマウントのマスクが、紛失中だったのだ。車の中に忘れていた。なんとかOlympus TG-4とNikonAW1300で間に合うだろうと判断した。しかし、ゴムボートだとかブイのテストは、ダイバーの目線、マスクマウントの動画が最適なのだが。
廉価のカメラで撮影する日常の画なのだが、撮影しないで過ぎ去らせてしまえば、チャンスはもう巡ってこないのだ。動画を撮っておけば、ワークショップで使えたのに。