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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0602 ダイビング事故の歴史13 日本国籍潜水指導団体の推移(1) 

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日本国籍潜水指導団体の推移(1) 
 
 ここから、あまりにもダイビング事故から離れる。日本国籍潜水指導団体の推移とでも、タイトルにしておこう。また事故の話に戻ったときにタイトルももどそう。
 事故が起こらなければ、海中開発技術協会は日本の科学研究者のダイビングを司る組織に変革して行く可能性があっただろうし、海中開発技術協会は日本の科学潜水の中心になったであろう。そうなれば、僕は、日本水中科学協会などつくらなかっただろう。
 そして、海中開発技術協会も通産省のレジャーセクションへの移籍の話もでなかっただろう。 今現在自分は、ダイビングの世界の片隅で生きている。ダイビングをやめない、死んでいないだけだが、1980年代には、日本のスクーバダイビング業界の真ん中にいて、自分の周囲で、いくつかの状況が同時進行的にめまぐるしく動いていた。間の悪いことにちょうどその時期、テレビロケ、ニュースステーションが、僕の主たる業務で、そのことについては、かなり書き残しているが、これら業界のことごとについて書いていない。そしてまたこの時期、日記も完全ではない。
 手元にある資料を見ると。まず、CMASの動きの一つの到達点である、名古屋で豪華客船、富士丸を係留したままとはいえ、チャーターして行ったCMASの世界大会についての報告書がある。これが1989年である。自分のニッポン潜水グラフィティの年表では、社会スポーツセンターの常務理事になり、生涯スポーツのためのダイビング指導者を作ったのが1988年になっている。自分の記憶の時系列ではこれが逆なのだ。CMASが先、社会スポーツセンターが後なのに。
 
 とにかく、一つずつ追って見よう。そして、その結果をあとで並べて見ることにしよう。書きながら考える。そして後から整理しよう。 まず、CMASから。 関邦博博士 海洋科学技術センターに所属していた生理学の研究者 フランス マルセイユ大学で学位をとる。ジャック・イブ・クストーのグループで仕事をしたキャリアがあるという。
 フランス語は達人
 神奈川大学の看板教授になるが、失速して、現在は南米のどこかで、長生きの研究をされていて、その資料をメール配信している。自分も受け取っているが、あまりにも多すぎて、目を通しきれない。タイトルは「生活習慣病や老化を克服して二百寿者になろう。」彼は、200歳まで生きる気だ。読んでみると本当におもしろいが、分量が多すぎて読み切れない。それが、ほぼ毎週配信される。半端なことではない。もしかしたらメール配信の数は万に達しているのかもしれない。
 本にまとまれば、とも思うが、 その関博士が、CMASを海中開発技術協会に持ってきた。 CMASはフランスで生まれた。ジャック・イブ・クストーが初代の会長だったはずである。
 当初、Cカードを発行する指導団体ではなかった。まだCカードなど無かったのだが。
 スポーツのブランチと学術のブランチがあり、スポーツのブランチでは、スピアフィッシングのオリンピックである、ニックネームではブルーオリンピックがあり、フィンスイミングもCMASのスポーツブランチから始まった。
 学術にいくつかのブランチがあり、考えられる学術を網羅していた。 伝聞だが、関さんは、バックパッカーのようなスタイルで、フランスに行く。そのとき 留学に海中開発技術協会が資金援助をしていたという話を海中開発技術協会事務局の栗山美和子さんから聞いた。海中開発技術協会にお金などない。多分、少し多い目の餞別程度だったのだろう。「どるふぃん」とかには載っていないから、確たることはわからない。
 関さんは、マルセイユ大学の学位を持っていた。マルセイユはジャック・イブ・クストーの本拠地だ。そこで、ジャック・イブ・クストーのチームでダイビングを修得した。 まず最初に書いておこう、彼は毀誉褒貶の多い人だ。教授だった神奈川大学に消息を訊ねると、そんな人は居なかったと言われる。が、僕とは終始親しい友人であり、僕のフランスエージェントと言ってもよく、ずいぶんと世話になった。僕も、自分の力が及ぶ限り、彼を立てた。いい加減な人だと思ったことはあるが、不愉快な思いはしたことがない。
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 今、書棚を見て、関さんが書いた、あるいは訳した本がたくさんある。
 その第一が「イルカと海に還る日」ジャック・マイヨール著、関邦博訳・編 となっているが、事実上、関さんが書いた本だ。そう、日本にマイヨールを紹介したのは、関さんだ。マイヨールは日本語はしゃべらない。「イルカと海に還る」映画グランブルーの原案でもある。今、フリーダイビングをやる人、必読の古典だと思う。
 その他、書棚にあるのは、「潜水学」これは、フランスのダイビングマニュアルの訳だ。そして、ぼくらのバイブルであった米国海軍のダイビングマニュアルも日本語訳の訳者は関さん、誤訳云々を言う人もいるが、意見の相違だろう。そして、「海底居住学」1970年代世界的にフィーバー状態になった海底居住のすべてがわかる、これも訳書だ。木村京子の「ジュニア スキンダイビングマニュアルにも名をつらねている。
 そして、関さんが仕掛けたもう一つがコーラル・ルネッサンス 宝石としての珊瑚の復活プロジェクトで、このことは、僕の60歳の100m潜水と大きな関わりがあり、これは、別に書いている。
 
 とにかく、その関さんが、日本におけるCMASの総代理を海中開発技術協会がやらないか、と持ちかけてきた。
 それまで、CMASの日本ブランチは大崎映晋さんだったが、スピアフィッシング部分だけにしか加盟していなかった。
 海中開発技術協会はCMASの科学委員会に加盟したら、というのが関さんの持ちかけだった。
 CMASには国際的なカードビジネスという考えは当時は無かった。ただ、技術を教えて、その修得証を発行するというのは、すべての習い事の基本だ。踊りでも、剣道でも柔道でも段位があり免許がある。ダイビングの資格免状は、日本でも僕たちは作った。海中開発技術協会は作りかけで折れた。そして、作った僕たちと合流した。イギリスではBSACが、免許証書を出していた。ダイビング発生の地であるフランスでももちろん出していた。しかし、それはまだ国際的なビジネスになってはいなかった。ヨーロッパのライセンスが、遠い極東のライセンスとして通用するとは考えては居なかったのだろう。
 しかし、そのようなカードはあった。僕にとっては、学術とともに、いや、学術よりもそのカードに魅力があった。それを持てば、国勢的に通用する事はまちがいないだろう。当時、僕たちのカードは日本ローカルだと言って叩かれている。CMASは少なくともその名称は世界であり、たしかに世界各国が加盟している。
 僕の書いた絵は、海中開発技術協会がCMAS、世界水中連盟の日本支部になり、CMASのカードを、すでに全日本潜水連盟のカードを持っているメンバーに国際版オプションとして発行する。CMASは別に、日本の教育プログラムに四の五の言わない。要するに技術ランクも表示する会員証である。
 別にCMASを義務づける必要はない。自分たちのプログラムをいじる必要はない。理想的な話に思えた。
 これが、このリーズナブルな提案が通っていれば、ここから書くような、自分でも時系列が混乱し、わけがわからなくなうような混乱は起こらなかった。
 しかし否決された。

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