書きたいこと、例えば、学生のダイビングのこと、書かねばならないと決めていること、例えば、自分のダイビングの記録とか、を書いていると「ダイビング事故の歴史は置き去りになってしまう。
たぶん、誰も読んではいないだろう、という期待? あと、適切な写真がない、ということにも、輪をかけられて、気が付けば、前回、「ダイビング事故の歴史11」が4月25日だ。 続けるならば、続けなくては。
ここからが、前回の続き とにかく、1984年の事故は、平成4年、1992年に示談で解決し、1993年 河野洋平氏が会長に就任した。そのとき以来、河野洋平先生と潜水業界の縁がつながった。僕は、何度かお目にかかり、親しくしていただいた。現在もマリンダイビングフェアの会長をしてくださったり、先日、全日本潜水連盟の名誉会長の玉置氏の88歳のお祝いの席にも出席された。
事故の歴史と言いながら、事故の直接のことから離れて、業界の昔話をしていると言われるかもしれない。確かにその通りだが、これは僕でなければ書けないことだから、これを書くことも仕事の一つだと思っている。
事故というのは、その場、溺れ死ぬその場のことだけではなく、その溺れ死ぬ現場にたどり着く、その人のすべて、性格、生まれ、育ち、現在の状況、生き方に密接に関わっている。そして、周囲の状況、ダイビング社会の状況、ダイビングに対しての姿勢、アプローチのすべてが関わってくる。最近書いていることで言えば「空気」がある。 そのうちのどれか一つの歯車が違っていても、事故は起こらない。言い換えれば、悪い選択肢、悪い歯車に替わっていたために事故がおこるとも言える。 例えば、今は減圧症、減圧表のことが話題の中心になっている。1970年代、減圧症になれるほどの空気を背中に背負うことなど出来なかった。しかし、急速潜降、急速浮上は常であって、魚突きをタンクを背負ってやるダイバーなど、素潜りをタンクを付けてやるような急速浮上だった。恐ろしいのは肺破裂で、今は、AGE と言うような名前で呼んでいるが、肺がポンと破裂するから、「エアポン」と呼ばれた。「エアポン」の方がわかりやすい。今、これを書くのに、横文字が思い出せずに調べたりしてAGEと書いた。 それでも大部分の魚突きダイバーはAGEにもならず、死ぬようなこともなく、無抵抗の魚を殺し続けたが、中には簡単に死んでしまう人もいて、遺族から、「人間って、こんなに簡単に死んでしまうものなのでしょうか」と言われ、返事に困ったこともあった。すなわち、ある一部の人は簡単に死んでしまうのだ。その一部が誰か、わからないところが問題なのだ。
少し脱線したが、時代背景、その時のダイビングの様相に、重大事故は大きく左右されている。 さて、海中開発技術協会の事故は解決したが、そのとき、訴えていた遺族はハイエナのようなものだ、と僕は感じた。もちろん、ケースバイケースであり、これは、殺人に近いと憤慨して、訴える遺族の側、原告側の証人として、法廷に立ったこともあるし、意見書も何通も書いたが、人殺しのようなインストラクターだと言う事故もあれば、ハイエナ遺族もいて、法廷、保険屋は、公平に?これを処理して、賠償金を支払う。賠償責任保険に加入していなければ、争いは死ぬまで続く、わけには行かないから、泣き寝入りして賠償を払う。これが、1990年代の、スクーバダイビング事故についての、今現在の感慨だ。
さて、少し話題を変える。 この話が先に進まないのは、資料がないこと、資料を探して、見ると、自分の記憶と時系列が違ってしまうので、そこで停滞してしまうのだ。 時系列が定かではなく、明確に言えないが、それまで海中開発技術協会は科学技術庁・資源エネルギー庁の所管だった。それが、科学ではなく、通産省のレクリエーション、レジャー部門の所管になるという話が持ち上がった。 話は、前後するのか、同時発生か定かではないが、海洋科学技術センター、今のJAMSTECが、海中開発技術協会を引き取ると言う話もあった。 専務理事を一名、海洋科学技術センターからだす。事務局は、新橋にある、一緒の場所にする。 あとは、レクリエーション部分などについてはこれまで通り全日本潜水連盟で良い。 別に文書を見て書いているわけではないので、正確ではないかもしれないが、とにかくそういう話があった。 僕は、それに賛成だった。日本潜水科学協会からのスタートなのだから、科学を捨てるわけには行かない。そして、海中開発技術協会の業績、及び収入の多くは科学関連の助成金に頼っていた。レクリエーションになったら助成金はなくなる。科学関連の仕事をすることも出来なくなる。 しかし、先輩理事のほとんどすべてが、レクリエーション行きの意向だった。 これは勘ぐりだが、シートピア海底居住で、はじき出されて、全日本潜水連盟と合同し、また元の鞘、軍門に下るというのは意地でも出来なかったのだろう。 所管を変えるのは定款を変更しなければならない。定款変更は会員の三分の二の賛同が必要である。 全日本潜水連盟は協力する証として、指導員の殆どを海中開発技術協会の会員にしている。全日本潜水連盟の賛成が得られなければ、定款は変更できない。どうにもならないのだ。
社団法人だから、個人の投票で決まるのはおかしい法人会員のみにするべきだ。という意見もでた。しかし、そのためにも定款変更が必要なのだ。 僕の恩師である宇野寛教授から、僕はお願いされてしまった。僕らは大学を通じた体育会系世界に生きてきている。目上には逆らえない。 全日本潜水連盟から専務理事をだすと言う条件で僕は折れた。 このあたり、話の前後関係があやふやだ。時系列に沿って、組立直さなければいけない。 いくつかの年表を取り出して、出来事を時系列で並べてみる。 自分にとって1980年代は、40代後半から50代へと、夏の盛りである。ダイビング界も大きく変動する。時系列で並べて考えないと、思い違いが多く、支離滅裂になってしまう。
1982年、竜崎君、田中龍彦が主催していたPADI潜水指導協会が、アメリカのPADIと再契約ができず、宮下君、荒川君が契約して、PADIジャパンと変わった。 そして海中開発技術協会の事故は起こったのが、1984年 昭和59年だった。 1986年 昭和61年に、海中開発技術協会は世界水中連盟 CMASに加盟する。そのころまで、世界水中連盟の日本ブランチは大崎映晋さんの日本水中連盟だった。しかし、この日本水中連盟は魚突きのブルーオリンピックだけにしか出て行かない。魚突きは、日本では、正式には御法度である。世界水中連盟には、科学技術の部局がある。その部局に海中開発技術協会は加盟した。 この時点で、CMASもそしてBSACもCカード発行団体ではない。会員証、あるいは認定証を出していた。でも、Cカードは、利益がでる。CMASは、Cカードビジネスを始めようとしていた。 世界水中連盟はブランドである。国際的、世界で通用する。残念ながら全日本潜水連盟 (JUDF)は、国内ライセンスである。英語で書いてあれば、世界で通用する。通用しなければ、隣の店(サービス)に行けば良いのではないかなどとうそぶいてはいた。当時、僕は世界中に出かけるようになっていて、例えばガラパゴスに行ったとき、JUDFの指導員にしてくれないか?とガイドが頼んできたりする。彼らにしてみれば、日本の資格を持っていれば、日本のお客が優先的にくると考える。 しかし、国内では、日本の資格は海外では通用しない、といわれれば、一般のお客は、そうかな、と思ってしまう。 国際ライセンスという言葉は商品価値があるのだ。
1982年がCカード元年だとおもう。でもまだ、Cカードとは何だ、このことは後で述べるが、ライセンスという呼び名でも良いではないかとという議論が続いていた。 海中開発技術協会と全日本潜水連盟は、CMASのカードを出そうとしていた。海中開発技術協会イコールCMAS、世界水中連盟というのが僕の描いた図面だった。
次回は世界水中連盟CMASのことを書こう。