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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0420 スクーバ事故の歴史 10

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あまりにも、間が開いてしまったので、梗概を書くことにする。ダイビングの歴史を出版する計画を進めている。 その一つとして、事故の歴史、死亡事故、あるいは危機一髪を年代順、時系列で並べて行こうとはじめた。 ① 1954年 日本で初めてのスクーバダイビング事故、小湊での潜水実習中の事故、原因不明 2名の学生が死亡 ②1958年 人工魚礁調査中、自分の危機一髪 ③3回目に 1968年のオールニッポンアクアラングクラブの保田、浮島の事故を書いた。 ④学生、商船大学の入間の事故 ⑤4回目までは、良かったのだが、事故の扱いが変化していくのは、講習、指導をする組織団体の変化に対応していると気が付き、講習の始まり、日本水中科学協会のことを書いた。そこから、脱線してしまった。 ⑥日本潜水科学協会の推移 ⑦日本水中科学協会の消滅 1966ー7年 ⑧海中開発技術協会になるいきさつ、そして、そこで置き去りにされた講習が、日本潜水会を生み、関西潜水連盟、そして全日本潜水連盟ができた。 ⑨全日本潜水連盟が海中開発技術協会と合同して、全国統一のカードを発行するところまで来た。1980  ずいぶん事故から離れてしまったが、実は、事故が状況を一変させ、それが、現在の自分に関わってくるそのことを書いているのだが。 こんな事を書いている時間なんてない。早く、歴史にもどらなければ、と思う。一方で、歴史は誰か他の人でも書ける。この日本のダイビング指導の本流とも言うべき、日本潜水科学協会から海中開発技術協会に至り、そして消えていってしまう流れのことを流れのなかでもがいていた、自分が書いておくことの方が大事なのでは、と思う。  ともあれ、スクーバ死亡事故は、指導をする団体のあり方に大きな関わりがある。そして、それが周り回って事故、危険性とかかわってくる。 いましばらく、海中開発技術協会を追って見ていこう。  海中開発技術協会から閉め出され、それでもカード枚について1000円を拠出して、助けたのだが、僕が海中開発技術協会の理事になり、経営に加わったのは1982年であった。先の合冊したマニュアルは1983年の発行である。  1982年 昭和57年の海中開発技術協会の役員を見ると 何で役員にこだわるかと言えば、参考にしている冊子 海中開発技術協会創立30周年記念誌、平成8年1996年 に役員の年毎の名簿が全部載っていることと、役員の名簿を見ていくと、勢力地図というか、そのときの人間関係が見えてきて、そのころの状況がよくわかる。  昭和57年、1982年、僕が理事になったときの役員 会長 園田直(衆議院議員) 副会長 森川吉郎  会長はお飾りの有力者、つまり道具だから、副会長が事実上の会長といえるだろう。森川さんは仲良くしていただいたが、ダイビングとは縁もゆかりもない方で、確か、商社関係だとか聞いたことがある。最後まで謎の人だった。 専務理事 大道弘明(明治大学講師) 大道さんは日本潜水科学協会時代から、熱心に協会に出入りしていた方でたしか数学の先生、後に僕と共著のような形で、全日本潜水連盟の減圧症のテキストを書いた。 専務理事 太田保人
 太田さんも謎の人、つまりダイビング関係者ではないのでどこからこられたかわからない。ただ、穏やかで鋭い人、僕には親切にしてくれた。森川さんも太田さんも、大会社を定年退職して、いわゆる能吏として、だれかが、お願いして来てもらったのがはじめでは無いだろうか。もちろんすでに功成りとげているひとたちだった。 理事 名簿では理事はアイウエオ順に並んでいたが、ここでは立場で分ける。 森美秀 衆議院議員 房総の森財閥の有力者である。藤波孝生 衆議院議員 園田矩之 衆議院議員 大臣クラスでないと協会の会長にはなれなかったのだ。 宇野寛 僕の恩師だ。 猪野峻 世界的な水産学者でありダイバーでもあった。 神田献二 水産大学漁業科の教授で良いダイバーだった。 黒田竹弥 水産庁の課長から、いくつかの水産関連の経歴のある先輩 梨本一郎 医科歯科大学、潜水医学の泰斗 斉藤茂 深田サルベージ(新日本海事)の社長 工藤昌夫  上島章生 日本アクアラング 僕の同級生 後に日本アクアラング社長 須賀次郎 このとき、初めて理事になる。僕が理事になることについては、どこの馬の骨かわからない、そんなことはなくて、協会創立からの由緒ある会員番号80なのなのだが、その日本潜水科学協会が消えてしまっている。肩書き資格としてはなにもないので、問題にされたと、後で大道さんに聞いた。  玉置敏夫 全日本潜水連盟理事長 山中鷹之助 日本アクアラングの東京支社  今泉英行 中村万助 下村喜平衛:間組 小池信太郎 渋谷勝治 それぞれ、古くからの有力者だが、僕との付き合いはない。  監事  安藤宏喬 関東支部の有力者だった。なぜかここから監事になる。水面下でつながりがあったのだ。 佐藤賢竣 旭潜研 日本潜水科学協会以来の中心人物  逸見隆吉 海上自衛隊から海洋科学技術センター、  よく人はいう、日本の潜水業界、潜水社会はまとまらなければいけない、などと。いろいろ、あるけれど、とにかく、この1982年、海中開発技術協会で、日本の潜水はまとまっていた。会長には大臣クラスの衆議院議員、管轄は科学技術庁、指導団体は全日本潜水連盟、PADIもその中に加わっていた。ちょうど1982年にJPとの移り変わりとトラブルがあったが。 とにかく。政治家も、役所も、潜水団体も建設業界も、水産の学者も、潜水医学も、メーカーも加わっている。 しかし、満ちれば欠けるのが世の常、団結は分裂の始まり、ここからは、分裂の物語になる。  昭和55年まで副会長だった菅原久一さんが56年1981年 から消えている。 僕が理事になってから後で菅原さんが亡くなっていると記憶していた。もちろん葬儀にも参加したのだが、30年前の事になると、記憶の遠近がずれてくる。 まず、細かい年表をすべての資料をまとめておかなくてはいけないだろう。 ところでそんな時間が無い。  僕の頭の中、昨日のようにしっかり記憶に残っているランドマークが、第一回潜水技術シンポジウム、第一回 潜水用機器展で、これが海中開発技術協会のやった一番良いイベントだった。これが行われたのが1976年だった。これが1986年頃のように思っている。何故か記憶が新しいのだ。僕の会社スガ・マリン・メカニックもダイブウエイズと一緒のブースで出展した。僕でも出展できたくらい、お金がかからなかった。 惜しいことに何故か、一回だけで終わり、二回が無かった。これが続いていけば、ダイビングフェスティバルも違った形だったろうし、ダイブビズショウも、マリンダイビングフェアも別の形だろう。これが続いていたとすれば、日本で一番歴史が古い、権威のある展示会ということになり、海中開発技術協会が消滅する事もなかった。 その潜水用機器展で菅原さんとしみじみ話したので、僕がすでに全日本潜水連盟を海中開発技術協会と組み合わせ、自分も理事になった後だと思っていたものだった。  そのころ、海中開発技術協会の事務所は、お茶の水の順天堂と東京医科歯科大学の間あたりにあった菅原さんのお店?事務所?潜水研究所の4階と言うか、屋根裏のペントハウスのようなところにあった。菅原さんは1階で、2階、3階はどこかの事務所、の4階だ。急な薄暗い階段と梯子のあいのこのような階段を上ったところに、海中開発技術協会はあった。その4階に何度も行き、菅原さんとも話したので、菅原さんがずっと、1982年、83年にも生きていたような錯覚をしたものだった。  

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