太田さんも謎の人、つまりダイビング関係者ではないのでどこからこられたかわからない。ただ、穏やかで鋭い人、僕には親切にしてくれた。森川さんも太田さんも、大会社を定年退職して、いわゆる能吏として、だれかが、お願いして来てもらったのがはじめでは無いだろうか。もちろんすでに功成りとげているひとたちだった。 理事 名簿では理事はアイウエオ順に並んでいたが、ここでは立場で分ける。 森美秀 衆議院議員 房総の森財閥の有力者である。藤波孝生 衆議院議員 園田矩之 衆議院議員 大臣クラスでないと協会の会長にはなれなかったのだ。 宇野寛 僕の恩師だ。 猪野峻 世界的な水産学者でありダイバーでもあった。 神田献二 水産大学漁業科の教授で良いダイバーだった。 黒田竹弥 水産庁の課長から、いくつかの水産関連の経歴のある先輩 梨本一郎 医科歯科大学、潜水医学の泰斗 斉藤茂 深田サルベージ(新日本海事)の社長 工藤昌夫 上島章生 日本アクアラング 僕の同級生 後に日本アクアラング社長 須賀次郎 このとき、初めて理事になる。僕が理事になることについては、どこの馬の骨かわからない、そんなことはなくて、協会創立からの由緒ある会員番号80なのなのだが、その日本潜水科学協会が消えてしまっている。肩書き資格としてはなにもないので、問題にされたと、後で大道さんに聞いた。 玉置敏夫 全日本潜水連盟理事長 山中鷹之助 日本アクアラングの東京支社 今泉英行 中村万助 下村喜平衛:間組 小池信太郎 渋谷勝治 それぞれ、古くからの有力者だが、僕との付き合いはない。 監事 安藤宏喬 関東支部の有力者だった。なぜかここから監事になる。水面下でつながりがあったのだ。 佐藤賢竣 旭潜研 日本潜水科学協会以来の中心人物 逸見隆吉 海上自衛隊から海洋科学技術センター、 よく人はいう、日本の潜水業界、潜水社会はまとまらなければいけない、などと。いろいろ、あるけれど、とにかく、この1982年、海中開発技術協会で、日本の潜水はまとまっていた。会長には大臣クラスの衆議院議員、管轄は科学技術庁、指導団体は全日本潜水連盟、PADIもその中に加わっていた。ちょうど1982年にJPとの移り変わりとトラブルがあったが。 とにかく。政治家も、役所も、潜水団体も建設業界も、水産の学者も、潜水医学も、メーカーも加わっている。 しかし、満ちれば欠けるのが世の常、団結は分裂の始まり、ここからは、分裂の物語になる。 昭和55年まで副会長だった菅原久一さんが56年1981年 から消えている。 僕が理事になってから後で菅原さんが亡くなっていると記憶していた。もちろん葬儀にも参加したのだが、30年前の事になると、記憶の遠近がずれてくる。 まず、細かい年表をすべての資料をまとめておかなくてはいけないだろう。 ところでそんな時間が無い。 僕の頭の中、昨日のようにしっかり記憶に残っているランドマークが、第一回潜水技術シンポジウム、第一回 潜水用機器展で、これが海中開発技術協会のやった一番良いイベントだった。これが行われたのが1976年だった。これが1986年頃のように思っている。何故か記憶が新しいのだ。僕の会社スガ・マリン・メカニックもダイブウエイズと一緒のブースで出展した。僕でも出展できたくらい、お金がかからなかった。 惜しいことに何故か、一回だけで終わり、二回が無かった。これが続いていけば、ダイビングフェスティバルも違った形だったろうし、ダイブビズショウも、マリンダイビングフェアも別の形だろう。これが続いていたとすれば、日本で一番歴史が古い、権威のある展示会ということになり、海中開発技術協会が消滅する事もなかった。 その潜水用機器展で菅原さんとしみじみ話したので、僕がすでに全日本潜水連盟を海中開発技術協会と組み合わせ、自分も理事になった後だと思っていたものだった。 そのころ、海中開発技術協会の事務所は、お茶の水の順天堂と東京医科歯科大学の間あたりにあった菅原さんのお店?事務所?潜水研究所の4階と言うか、屋根裏のペントハウスのようなところにあった。菅原さんは1階で、2階、3階はどこかの事務所、の4階だ。急な薄暗い階段と梯子のあいのこのような階段を上ったところに、海中開発技術協会はあった。その4階に何度も行き、菅原さんとも話したので、菅原さんがずっと、1982年、83年にも生きていたような錯覚をしたものだった。
太田さんも謎の人、つまりダイビング関係者ではないのでどこからこられたかわからない。ただ、穏やかで鋭い人、僕には親切にしてくれた。森川さんも太田さんも、大会社を定年退職して、いわゆる能吏として、だれかが、お願いして来てもらったのがはじめでは無いだろうか。もちろんすでに功成りとげているひとたちだった。 理事 名簿では理事はアイウエオ順に並んでいたが、ここでは立場で分ける。 森美秀 衆議院議員 房総の森財閥の有力者である。藤波孝生 衆議院議員 園田矩之 衆議院議員 大臣クラスでないと協会の会長にはなれなかったのだ。 宇野寛 僕の恩師だ。 猪野峻 世界的な水産学者でありダイバーでもあった。 神田献二 水産大学漁業科の教授で良いダイバーだった。 黒田竹弥 水産庁の課長から、いくつかの水産関連の経歴のある先輩 梨本一郎 医科歯科大学、潜水医学の泰斗 斉藤茂 深田サルベージ(新日本海事)の社長 工藤昌夫 上島章生 日本アクアラング 僕の同級生 後に日本アクアラング社長 須賀次郎 このとき、初めて理事になる。僕が理事になることについては、どこの馬の骨かわからない、そんなことはなくて、協会創立からの由緒ある会員番号80なのなのだが、その日本潜水科学協会が消えてしまっている。肩書き資格としてはなにもないので、問題にされたと、後で大道さんに聞いた。 玉置敏夫 全日本潜水連盟理事長 山中鷹之助 日本アクアラングの東京支社 今泉英行 中村万助 下村喜平衛:間組 小池信太郎 渋谷勝治 それぞれ、古くからの有力者だが、僕との付き合いはない。 監事 安藤宏喬 関東支部の有力者だった。なぜかここから監事になる。水面下でつながりがあったのだ。 佐藤賢竣 旭潜研 日本潜水科学協会以来の中心人物 逸見隆吉 海上自衛隊から海洋科学技術センター、 よく人はいう、日本の潜水業界、潜水社会はまとまらなければいけない、などと。いろいろ、あるけれど、とにかく、この1982年、海中開発技術協会で、日本の潜水はまとまっていた。会長には大臣クラスの衆議院議員、管轄は科学技術庁、指導団体は全日本潜水連盟、PADIもその中に加わっていた。ちょうど1982年にJPとの移り変わりとトラブルがあったが。 とにかく。政治家も、役所も、潜水団体も建設業界も、水産の学者も、潜水医学も、メーカーも加わっている。 しかし、満ちれば欠けるのが世の常、団結は分裂の始まり、ここからは、分裂の物語になる。 昭和55年まで副会長だった菅原久一さんが56年1981年 から消えている。 僕が理事になってから後で菅原さんが亡くなっていると記憶していた。もちろん葬儀にも参加したのだが、30年前の事になると、記憶の遠近がずれてくる。 まず、細かい年表をすべての資料をまとめておかなくてはいけないだろう。 ところでそんな時間が無い。 僕の頭の中、昨日のようにしっかり記憶に残っているランドマークが、第一回潜水技術シンポジウム、第一回 潜水用機器展で、これが海中開発技術協会のやった一番良いイベントだった。これが行われたのが1976年だった。これが1986年頃のように思っている。何故か記憶が新しいのだ。僕の会社スガ・マリン・メカニックもダイブウエイズと一緒のブースで出展した。僕でも出展できたくらい、お金がかからなかった。 惜しいことに何故か、一回だけで終わり、二回が無かった。これが続いていけば、ダイビングフェスティバルも違った形だったろうし、ダイブビズショウも、マリンダイビングフェアも別の形だろう。これが続いていたとすれば、日本で一番歴史が古い、権威のある展示会ということになり、海中開発技術協会が消滅する事もなかった。 その潜水用機器展で菅原さんとしみじみ話したので、僕がすでに全日本潜水連盟を海中開発技術協会と組み合わせ、自分も理事になった後だと思っていたものだった。 そのころ、海中開発技術協会の事務所は、お茶の水の順天堂と東京医科歯科大学の間あたりにあった菅原さんのお店?事務所?潜水研究所の4階と言うか、屋根裏のペントハウスのようなところにあった。菅原さんは1階で、2階、3階はどこかの事務所、の4階だ。急な薄暗い階段と梯子のあいのこのような階段を上ったところに、海中開発技術協会はあった。その4階に何度も行き、菅原さんとも話したので、菅原さんがずっと、1982年、83年にも生きていたような錯覚をしたものだった。