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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0402 ダイビング事故の歴史 9 海中開発技術協会

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ダイビング事故の歴史 9 海中開発技術協会 ダイビング事故の歴史とタイトルを付けながら、日本潜水会のこと、日本潜水科学協会のこと、その後身である海中開発技術協会のことを書いている。 その訳は、たった一つの死亡事故で、その流れ、歴史が大きく変わってしまう。まあ、それにしても、今2018年までくれば、ダイビング社会全般を見通せば、現状、大勢は大差ないかもしれない。しかし、団体の様相などは、ずいぶんと違っていただろう。自分について言えば、今の日本水中科学協会は、存在していなかっただろう。 人一人の命、当事者にとっては、すべてが無担ってしまうわけだから、大事ではすまないのだが、周囲の情勢にも大きな影響を及ぼす。  ダイビングの歴史 足踏みをしたまま、事故のことから海中開発技術協会に脱線してそのまま走っている。切り上げて、歴史年表に取りかかろうとも思うが、年表、歴史コラムは、僕でなくても書ける。自分の見た目、体験したことは、自分でなければ書けない。もう、時間もあんまり無いのだから、自分でしか書けないことを書くことの方が大事だろう。  ここで、JUDF DIVE MANUAL を取り上げる。昭和58年 1983年に発行された、おそらく、日本人が日本のダイビングのために書いた、プロパーのマニュアルとして最も優れたものだったと今でも確信しているのだが、それについても追々説明するが、まず、その巻頭言、オリエンテーションから全日本潜水連盟と海中開発技術協会の沿革について述べている部分を引用しよう。長くなるので、中略を入れずに抜粋していく部分もあるが、活字になっているもの、公知のものである。「 昭和32年 1957年 日本における潜水科学と潜水スポーツの団体として、日本潜水科学協会が創立されました。 初心者似たいする潜水指導は、この潜水科学協会が行っていましたが、まだ潜水教師(インストラクター)の養成は行われず、協会の中心メンバーによるボランティア活動的な初心者指導にとどまっていました。 やがて協会は社団法人海中開発技術協会へと発展し、日本の海洋開発の一翼を担うことになるのですが、残念なことに、この時点でスポーツレジャー潜水の指導を発展させようという努力は打ち切られてしまいました。 昭和42年 1967年12月、スポーツ潜水クラブのリーダー、ダイビングプロショップのオーナー、水中写真家など、潜水指導の確立を重大な急務だと考えている有志23にんが、伊豆海洋公園に集まり、日本潜水会を結成し、日本で初めて潜水教師(潜水指導員)の研修を行いました。 これとほとんど時を同じくして、関西では関西潜水連盟が発足し、中部には「中部日本潜水連盟」が誕生しました。この三者が話し合い、認定証は同じデザインのものを使用し、認定のランクも同等にするように連合しました。ただし、地域差もあり、発足に至ったいきさつも違いますので、お互いに束縛しないように、教育法方の細部、運営の方法については、それぞれの連盟独自に行うことにしました。 ※これが全日本潜水連盟になり、1975年には沖縄の海洋博覧会でダイバーズフェスティバルを行う。 中略 昭和55年(1980)全日本潜水連盟は、社団法人海中開発技術協会と認定書発行に関する提携を行いました。 さらに昭和57年(1982)全日本潜水連盟の発足母体となった日本潜水会を親睦団体とし、新たに関東潜水連盟を発足させました。同時に全国各地の支部を連盟という名称に変更し、全国的な団体としての大勢を強化し今日に至っています。(1983年現在)」  あれほど疎外された海中開発技術協会に自分の全財産ともいうべき日本潜水会、海中開発技術協会を供え物にして、もどって行ったのだ。水産大学の恩師が中心になっている、そして自分は学生会員第一号だったという思いが強かったのと日本を一つの統一された団体にしよう、バカな考えにとりつかれていて、とにかくそれを成し遂げた。 日本潜水会を一緒に立ち上げた、後藤道夫からは、「おまえはバカだ」と決めつけられ、自分でもバカだと思った。後から受けた仕打ち、結果で、人生で一番、鋭く、働く事ができた時期を無駄に過ごしてしまったとも思うが、とにかく、自分のダイビングの原点であった協会に立ち戻り、その傘下で日本のダイビングを一つにすることができた。短い期間、でしかなかったが。
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 認定証カードの表記には、JUDFとともに、「Japan Association of Underwater Exploitation 」と記されている。これが海中開発技術協会の英語表示なのだ。JAUE 読みにくいのでだれも読まなかった。 カードは☆でランクを示している。フォースターの上はアシスタントインストラクター、そしてインストラクターになる。 ☆☆☆☆ ダイバーはインストラクターになるときに指導実技の他は、実技は免除された。☆☆☆☆ダイバーは最強、死ぬことは許されないとした。  そして、資金的には 「全日本潜水連盟は利益を追求する団体ではありません。認定料6000円は、次のように配分されます。(マニュアルに公開されている) まず、2000は安全対策協会費として使用されます。安全対策協会は全日本潜水連盟事務局内に置かれ、潜水事故防止のための活動を行っております。のこりの4000円は4等分され、指導員、支部連盟、全日本潜水連盟、海中開発技術協会に1000円ずつ分配されます。」  海中開発技術協会は自分の手を汚すことなく、ダイバー、1名について1000円ずつ入ってくるのだ。 さらに全日本潜水連盟のメンバーは、可能な限り海中開発技術協会の会員になるよう義務づけた。このことが、あとで大きな問題になるのだが。  この赤い表紙のマニュアルは、これまで、日本で日本人が作ったダイビングマニュアルとして最高のものだったと振り返る。 そして、変則的なマニュアルだ、一冊の中に二冊の本が入っている。なぜそんなことになったかというと、全日本潜水連盟、海中開発技術協会の両方が講習のテキストを作っていた。 しかし、全日本潜水連盟が海中開発技術協会に入ってしまった以上、どちらかを捨てなくてはならない。海中開発技術協会のテキストは、ダイバーの認定にはいっさい触れていない。指導認定のテキストとしては使えないのだ。しかし、原稿は完成してしまっている。ご丁寧に僕はその両方に原稿を書いている。原稿作成中に合併が決まったのだ。 えい、や、と二冊を一冊にして表紙を付けてしまった。 奥付を見ると昭和58年1983年7月の発行である。後に最大の指導組織になるバディジャパンは1982年の発足である。それ以前のPADIは、PADI潜水指導協会の名称で全日本潜水連盟の一角を占めていた。一角どころではない、1975年の海洋博のダイビングフェスティバルは、PADI潜水指導協会の椎名勝巳と僕、須賀の共同プロデュースのようなものだった。
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                     全日本潜水連盟部分
 テキストに戻って、テキストの前半部分全日本潜水連盟部分の目次を見てみよう。 1. オリエンテーション 2. プール実技講習の予備知識 3. プール実技 4. 海洋実技講習前の講義 5. 実技講習 海洋 Ⅰ 6, 実技の海洋が Ⅱ Ⅲ Ⅳ  と続く 執筆者は 須賀次郎 伊庭一男 笠原健男 田村和子 寺島英一郎 壇野清司 で 笠原は後に CMAS JEF を作る。 伊庭は、大川でダイビングサービスを 田村和子はダイビングから足を洗い、書道と合気道の師範だ。寺島は後に全日本潜水連盟理事長、壇野は、現在もJCUEなどで活躍している。  一方で 海中開発技術協会のテキストは 1. ダイバーを取り巻く水中環境 工藤昌男 2. 潜水の医学 梨本一郎 3. スクーバ潜水に使用する機材 尾花英明 4. スクーバ潜水における基礎実技 潜水講習部会 5 減圧表 大道弘昭. 6, 海での潜水 須賀次郎 7. 海の生物と自然保護 内田紘臣 8. スポーツ潜水と漁業 猪野峻
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 常識で考えれば、3 機材 4 基礎実技 6海での潜水を切りとばし、まとめれば、良いのだが、できなかった。できなかった理由はまだ、海中開発技術協会では、講習部会などを新たに作って全日本潜水連盟のカードとは別の認定をしようとしていたからだった。 この中の スポーツ潜水と漁業、猪野峻先生の部分はすばらしく、今でも復刻したい。猪野先生は僕の半ば恩師で、世界的に著名な学者で、なおかつ、良いダイバー、素潜り能力は軽く水深20mを越える。半ばというのは、猪野先生はアワビの大家であり、僕はサザエを研究して卒業した。大変にほめていただいたが、その論文をなくしてしまった。そんな姿勢では研究者になれるわけがない。 

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