0327 「ダイビングの歴史」2016年から、とりかかっている。2017年には出すはずが、2018年になっても目鼻がつかない。執筆をお願いしている山田さんはじめ、みなさんに迷惑をかけている。なのに、事故の歴史から日本潜水科学協会、そして海中開発技術協会 に踏み迷っている。ダイビングの歴史では、2000字、長くて4000字のコラムの下書きのつもりである。書きすぎでどうにもならない。ワークショップの企画書も頭の中にあるだけで、字になっていない。切り上げようと思うのだが、誰かが書いて置かなくてはいけないことだと思うし、ここでプッツンしてしまうわけには行かない。 事故とその背景の流れ、それとともに、自分の周辺の(あくまでも、自分の周囲を自分の視線で見たものだが)ダイビング業界の推移をしばらく書いて行こう。 前回からの続き こうして、日本の海洋開発を担う、というふれこみで、海中開発技術協会が誕生した。例によって、その時点での役員をみてみよう。 まず、日本潜水科学協会終了時の役員をもう一度確認する。 会長 猪野峻 副会長 菅原久一、木村貞造、監事 神田献二、常務理事 山田尚文 吉牟田長生 会計 佐藤賢竣(旭潜水研究所:旭式マスク)理事 広中千鶴子、伊東ヒデ子、浅見国治、梨本一郎(医科歯科大学)大道弘昭(東京都教職員)池田和一郎(太平潜水)遠藤徹(浅見さんと同級、僕の一年下、当時旭潜水、後に福岡潜水)宇野寛(僕の恩師)田辺栄蔵 舘石昭 伊藤則美(舘石さんと当時肩を並べていた写真家)L・E カーン(歯医者さん)工藤昌男 ※(今の自分たちの日本水中科学協会と紛らわしい。潜水と水中が違うだけである。しかし日本潜水科学協会は存在していない。コンセプトとして、後を継いでいきたいこともあって、紛らわしくしている。) 次いで昭和41年(1966) 海中開発技術協会発足時の役員 会長 森清 衆議院議員 (アラメとアワビで興した房総の新財閥一族の代表的な人だ。 副会長 石井千明 田川誠一 沼田貞三 顧問 園田直 川崎秀二 田村剛 理事 猪野峻 宇野寛 太田保人(後に工藤さんと並んで専務理事)小田達太郎 神田献二 工藤昌男佐藤賢竣 田辺栄蔵 谷岡恭也 梨本一郎 横山信立 工藤さん 田辺さんを除いて、スポーツダイビング関係者 関東支部関係者 は消えた。そして、政治的社会的にそうそうたる陣容だ。 そして一方で、切り捨てられたスポーツレジャーダイビングについて、1967年 12月 須賀次郎、後藤道夫、浅見国治が中心になり、当時のスポーツ、レジャーダイビング関係で、親しくしている全国の友人、を集めて伊豆海洋公園で一週間の合宿をする。全員ダイビング指導者になる。その時まで指導員と言う制度名称はなく、講習プログラムも無いから、自分たちで勝手に指導者になったのだ。何の権威もないと外野から声があったが、「権威は努力によって後からついてくる。」とうそぶいた。何にも初と言うのがある。日本初のダイビング指導組織なのだ。それに、権威は全部海中開発技術協会が持って行ってしまった。上に誰もいない。すっきりとして気分は良い。 その時集まったメンバーを紹介しよう。後藤道夫、真鶴で日本初のダイビングサービスを作る。日本潜水科学協会の発足時の若手である。 そして、ものつくりの天才でもある。ウエットスーツのパターン、マスク、フィン、僕たちの使う道具すべて彼がデザインした。そして、その後はカメラを作り、ハウジングメーカーになり、今、彼が亡き後の後藤アクアティックスでも、NHKとJAMSTECのハウジングのほとんどを作っている。 浅見国治 日本アクアラング創立時の社員で、アメリカで、これも創立時に近いNAUIのインストラクターになった。関東支部の講習プログラムは、彼が作り、日本潜水会のプログラムも当然彼だ。関東支部の講習を受け継いだとも言える。 全員この調子で紹介することは難しいが、出来るだけ、順不同、頭に思い浮かんだ順だ。 河野祐一、竹内庸 NHK撮影部の創始者、大崎映晋、海女の撮影記録を最近写真集を出した。出版記念会で昔話をしたが、まもなく亡くなった。96歳?そのころすでに長老であった。日本潜水会合宿はみんな本当に泳いだ。しごきがここから始まったという人もいる。海洋公園の50mプールをウエイト5キロをネックレスにして泳いだ。大崎さんも沈みそうだったが、持ちこたえた。 益田一さん、海洋公園の事実上のオーナー、東拓が出資者だったので、当時はトータクと呼んだ。戦争で足をやられて、ちょっと引きずっていた。泳げないので特別会員になってもらった。泳げない人から紹介しているようだが、新宿の元祖ダイビングショップ、オールニッポンアクアラングクラブの青木大二さんも泳げなかった。そのクラブの会長も松沢さん、初代の日本潜水会事務局長 も泳げなかった。しかし、みんな、途中でおぼれながらも泳ぎ切った。 白井常雄 現在の日本水中科学協会は彼のおかげで息をついでいる。このときの出会いが始まりだった。 友竹進一、海洋公園の主、長谷川剛、神田ミナミスポーツの後に重役、スポーツ洋品店でダイビング洋品を扱った草分けだ。本当に順不同、学生ながら参加した加藤芳雅君、法政アクア、関東学生潜水連盟の創始者の一人だ。彼から学生のダイビングが始まった。野田充彦、学習院大学潜水クラブのこれも彼の仲間たちから始まった。鶴耀一郎、不世出のスキンダイバー、世界的な魚突き大会で名を馳せていた。川俣実隆、鹿児島から参加した。薩摩っぽを売り物にしていた奇人の類、後に潜水病で車いす乗りになるが、口だけは達者だったので、車いすになってからも活躍を続けた。大津善彦、カメラマン、後に一時的だったが、フリーの水中動画カメラマンの第一人者になる、テレビでは僕と競り合ったが、惜しいことに亡くなってしまった。日本潜水会は東京中心だが、時をほとんど同じく、日本水中科学協会の中部日本潜水支部もできかかっていたので、合同で練習した。その中心が望月昇さん。他に中部からは、浜松から清水さん、名古屋からは森さんが出席した。
全員集合 やったことと言えば、プールで泳ぎ、海で潜水して、後にしごき練習になる種目を自分たちで体験し、このくらいならば大丈夫という目安をたてた。
1966年「アクアラング潜水」須賀次郎 浅見国治 共著 座学は、須賀と浅見共著で1966年に出した「アクアラング潜水」が骨子になったが、他にレポートで自分がこれまで見聞きした死亡事故、あるいは自分が体験した危機一髪について書いてもらった。これが死亡事故については必ずレポートをかくということのはじまりとなって、今でもそのレポートがあり、この事故の歴史で紹介している。 ディスカッションでは、今後魚突きスピアフィッシングは止め、水中銃をカメラに持ち替えて映像ハンティングにしようと決議した。実は、この日本潜水会の集まりの原点は日本水中射撃連盟というのを作っていて、神津島でスピアフィッシングの全国大会をひらいている。それが禁止だから大変な議論になった。それでも日本潜水会は、止める決議をしたが、関西潜水連盟は今、2017年に至るも、スピアフィッシングをどこかでやっている。 浅見国治 友竹進一 二人ともとうにこの世にいない。 ※ニッポン潜水グラフィティでも書いたけれど、もう一度、詳しく日本潜水会のことを 書いておきたい。 この一週間の合宿で、僕にとっては生涯の親友が何人もできて、それに頼ってJAUSを作った。後藤道夫は亡くなってしまったが、白井さんが助けてくれている。 これが1967年、その後紆余曲折があったが、日本潜水会、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が中核となって、沖縄から北海道までをまとめた全日本潜水連盟ができ、73年、沖縄復帰記念の海洋博で水中スポーツ(魚突きではない)の全国大会を開催する。 自分たちのことになると、どうしても筆が延びてしまう。☆★☆ 海中開発技術協会創立30周年記念誌にかなり長い時期日本潜水科学協会の副会長をやっておられた、旭潜水研究所の佐藤賢竣さんが書いている。流れを書いている。これしか活字になっているものはないので、再度引用しよう。 海中開発技術協会は、「41年(1966)11月8日をもって科学技術庁を所管とする「社団法人 海中開発技術協会」として総理府の認可となった。 続いて官・学・民合同のシートピア(海底居住基地)計画が着々と進められました。 昭和45年(1970)「海洋科学技術センター」が法令化され、現在の神奈川県夏島を基地とする現在のものが建設される運びと相成ったわけであります。 その時点で母体である当協会の不要論も一部に出され、存続の是非を問われましたが、当時にしてみれば、自然増の潜水人口を野放しに出来ず、存続希望者が圧倒的に多かったので、センター分設後もそのまま存続する事になり今日にいたっておるわけです。」 つまり、シートピア計画を実行する「海洋科学技術センター(今のJAMSTEC)を作る母体となったが、子供である海洋科学技術センターには、海中開発技術協会は不要、母体は卵の殻のようなものだ。海中開発技術協会の理事は、センターにはポジションがない。 海中開発技術協会は、民間のスポーツ、レクリエーショナルを分担することになった、しかし、関東支部は消滅させてしまっているし、日本潜水会が生まれ、関西支部は全日本潜水連盟の中核になる。いまさらよりを戻せといっても簡単なはなしではない。 それでも、科技庁は、面倒を見てくれる。小さな団体ならば、助成金の1本か2本あれば、生き延びられる。小型自動車振興協会オートレースの上がりからの助成金を付けてくれる。 助成金事業がすなわち海中開発技術協会の業績である。一覧表にしめした。なかなかのものである。いま、この報告書が一冊にまとまってあれば、かなりの価値があるだろう。 それでも、本来海中開発技術協会がやると縄張りを決められているスポーツ・レジャーへの足がかりがない。
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