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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0322 スクーバ事故の歴史 7 水中科学協会の消滅

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 関東支部が消滅した。一般会員には特別の予告も無く、消滅した。自分は関係者でもなく、日本潜水科学協会の理事でもなかったから、その詳しい状況を正確には知らない。会員ではあったが、納得出来る公式の予告、通知を受け取った記憶がない。情報はすべて伝聞である。活字になり公表された情報から、確認したい、と機関誌であるドルフィンの中を探した。どるふぃんの「協会だより」にもない。どるふぃん に公表されている理事会議事録にもない。  こんないきさつは出版するダイビングの歴史には、掲載しない。しかし、僕ももうそろそろだ。自分が書いて置かなくては、という気持ちがある。
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 関東支部消滅後 どるふぃん 最後の号は65年(昭和40年) 水中写真特集号であった。水中写真を並べてお茶を濁しておけば、うるさい追求に煩わされることがない。これは僕の勝手な推察であって、そんなことはドコにも書いていない。水中写真部の人たちは、一区切りとして納得するだろう。個人プレーの世界なのだ。 編集後記は、水中写真部長木村貞造さんが当たり障りのないことを書いている。これだけを読めば、次号66年があるようにおもえる。 なお、木村さんは銀座のみゆき通りにあった「ジュリアン・ソレル」というファッションブティック&喫茶点のオーナーである。古き良き時代の銀座、最先端のお店であった。 そう、真珠とダイヤモンドの「みわ」の斜向かいだった。  組織の連続、人脈の流れをみるには、役員を見る。 この号、どるふぃん では、会長 猪野峻 副会長 菅原久一、木村貞造、監事 神田献二、常務理事 山田尚文 吉牟田長生 会計 佐藤賢竣(旭潜水研究所:旭式マスク)理事 広中千鶴子、伊東ヒデ子、浅見国治、梨本一郎(医科歯科大学)大道弘昭(東京都教職員)池田和一郎(太平潜水)遠藤徹(浅見さんと同級、僕の一年下、当時旭潜水、後に福岡潜水)宇野寛(僕の恩師)田辺栄蔵 舘石昭 伊藤則美(舘石さんと当時肩を並べていた写真家)L・E カーン(歯医者さん)工藤昌男 昭和40年 1965年の役員である。  ここから先の経過は、社団法人海中開発技術協会創立30周年記念誌を見ていくことになる。 海中開発技術協会は昭和41年度(1966)創立で、それから30年後この協会が事実上消滅するときの記念誌である。

 この誌の巻頭に旭潜研の佐藤賢竣さんが「安全潜水の啓蒙でスタートした」と題して、日本潜水科学協会から海中開発技術協会になるまでのことを書いている。引用する。 日本潜水科学協会は、「事業の内容としては、主として潜水講習会など多岐にわたり、あげれば枚挙にいとまもないので省かせていただきますが、長きにわたって役員はじめ皆さんが献身的に目的達成に向かって奉仕され、種々の問題を克服されて参りました足跡は高く評価に値すると思われます。 また昭和39年には安東宏喬理事同伴で、私は副会長の立場で正式に自民党の衆議院議員、森清先生に関東支部長をお願いに行きましたところ快諾いただき翌年には会長に就任していただきました。ちょうどこの頃より時代背景は様々な動きがにわかに浮上してきました。主な者をあげれば、先進国に遅ればせながら大陸棚の資源開発の重要なるにかんがみ、当時の佐藤栄作首相とニクソン会談のなかでも海洋開発協力体制のお話し合いがなされ、また河野一郎建設大臣の海洋鉱物資源に併せて海洋蛋白資源の開発を力説された。 また、一方では大衆を魅了する「海底二万哩」や「沈黙の世界」など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。 こうして当協会は41年(1966)11月8日をもって科学技術庁を所管とする「社団法人 海中開発技術協会」として総理府の認可となった。 続いて官・学・民合同のシートピア(海底居住基地)計画が着々と進められました。 昭和45年(1970)「海洋科学技術センター」が法令化され、現在の神奈川県夏島を基地とする現在のものが建設される運びと相成ったわけであります。 その時点で母体である当協会の不要論も一部に出され、存続の是非を問われましたが、当時にしてみれば、自然増の潜水人口を野放しに出来ず、存続希望者が圧倒的に多かったので、センター分設後もそのまま存続する事になり今日にいたっておるわけです。 昭和32年(1957)「日本ダイビング協会」が発足し以来満39年、当協会が法人化して以来、30周年を迎え、これまで築かれた基礎の上に立って今後一層の発展を祈ります。」 これが、関東支部消滅 日本潜水科学協会も事実上消滅してから30年後の挨拶であった。 関東支部消滅の理由は何一つわからないまま、「沈黙の世界など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。こうして当協会は科学技術庁を所管とする法人になった。」

 沈黙の世界は、1956年だったと思う。そこから、日本潜水科学協会の10年は飛び越して、こうして海中開発技術協会になったと説明されても「はああ?」であるが、とにかく、日本潜水科学協会がまずあって、海中開発技術協会がそれに変わった、つながりは書いてある。 文書としてはこれだけなので、あとは、類推するほかない。 このページには、海中開発技術協会のスタートの写真とともに、1968年の日本深海プロジェクト設立の写真が載っている。 佐藤さんはじめ、日本潜水科学協会の主要メンバーは、深海、海洋開発の今後に着目してその実験を始めようとしていた。そのあたりの細かい経緯はしらないが、今後の日本の海洋開発の母体を日本潜水科学協会が引き受けないか、と打診があり、折しも深海プロジェクトも発足しようとしている。それに乗った。 一般の講習や、レジャーダイビングの安全な進展を目指す、関東支部、関西支部は不要になった。ならば、切り離して独立させれば、良いのでは、と誰でも思う。どうして、そうしなかったのか、当事者ではなかったのでわからない。  これを書いて、いや、違うのだ、と当時の事情に詳しい、当時の理事の誰かとかが、語ってくれれば、喜ばしい。 

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