この誌の巻頭に旭潜研の佐藤賢竣さんが「安全潜水の啓蒙でスタートした」と題して、日本潜水科学協会から海中開発技術協会になるまでのことを書いている。引用する。 日本潜水科学協会は、「事業の内容としては、主として潜水講習会など多岐にわたり、あげれば枚挙にいとまもないので省かせていただきますが、長きにわたって役員はじめ皆さんが献身的に目的達成に向かって奉仕され、種々の問題を克服されて参りました足跡は高く評価に値すると思われます。 また昭和39年には安東宏喬理事同伴で、私は副会長の立場で正式に自民党の衆議院議員、森清先生に関東支部長をお願いに行きましたところ快諾いただき翌年には会長に就任していただきました。ちょうどこの頃より時代背景は様々な動きがにわかに浮上してきました。主な者をあげれば、先進国に遅ればせながら大陸棚の資源開発の重要なるにかんがみ、当時の佐藤栄作首相とニクソン会談のなかでも海洋開発協力体制のお話し合いがなされ、また河野一郎建設大臣の海洋鉱物資源に併せて海洋蛋白資源の開発を力説された。 また、一方では大衆を魅了する「海底二万哩」や「沈黙の世界」など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。 こうして当協会は41年(1966)11月8日をもって科学技術庁を所管とする「社団法人 海中開発技術協会」として総理府の認可となった。 続いて官・学・民合同のシートピア(海底居住基地)計画が着々と進められました。 昭和45年(1970)「海洋科学技術センター」が法令化され、現在の神奈川県夏島を基地とする現在のものが建設される運びと相成ったわけであります。 その時点で母体である当協会の不要論も一部に出され、存続の是非を問われましたが、当時にしてみれば、自然増の潜水人口を野放しに出来ず、存続希望者が圧倒的に多かったので、センター分設後もそのまま存続する事になり今日にいたっておるわけです。 昭和32年(1957)「日本ダイビング協会」が発足し以来満39年、当協会が法人化して以来、30周年を迎え、これまで築かれた基礎の上に立って今後一層の発展を祈ります。」 これが、関東支部消滅 日本潜水科学協会も事実上消滅してから30年後の挨拶であった。 関東支部消滅の理由は何一つわからないまま、「沈黙の世界など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。こうして当協会は科学技術庁を所管とする法人になった。」
沈黙の世界は、1956年だったと思う。そこから、日本潜水科学協会の10年は飛び越して、こうして海中開発技術協会になったと説明されても「はああ?」であるが、とにかく、日本潜水科学協会がまずあって、海中開発技術協会がそれに変わった、つながりは書いてある。 文書としてはこれだけなので、あとは、類推するほかない。 このページには、海中開発技術協会のスタートの写真とともに、1968年の日本深海プロジェクト設立の写真が載っている。 佐藤さんはじめ、日本潜水科学協会の主要メンバーは、深海、海洋開発の今後に着目してその実験を始めようとしていた。そのあたりの細かい経緯はしらないが、今後の日本の海洋開発の母体を日本潜水科学協会が引き受けないか、と打診があり、折しも深海プロジェクトも発足しようとしている。それに乗った。 一般の講習や、レジャーダイビングの安全な進展を目指す、関東支部、関西支部は不要になった。ならば、切り離して独立させれば、良いのでは、と誰でも思う。どうして、そうしなかったのか、当事者ではなかったのでわからない。 これを書いて、いや、違うのだ、と当時の事情に詳しい、当時の理事の誰かとかが、語ってくれれば、喜ばしい。