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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0317 スクーバ事故の歴史6 ドルフィン

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 1957年に日本潜水科学協会が出来、1966年に海中開発技術協会となり、1996年、海中開発技術協会が消えるまで、40年間、日本のスクーバダイビングは、この団体を軸にして動いていた。
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 事故の歴史、とは言い難いが、もう少し、「どるふぃん」を追って行こう。人の記憶は、正確ではない。自分についても同様で、ここから先、少し綾が出てくるので、活字になったもの、活字になったことだけを積み重ねて見て行きたい。1962年 春号 第五巻2・3合併号までが、小さい判A5サイズであったが、1962年夏号 第6巻1号から少し大きいA6サイズに変わる。ここで台頭してくるのが 田辺栄蔵さんと工藤昌夫さんである。田辺さんは後楽園の御曹司でお金持ちであり、ヨット乗りである。僕は、その後田辺さんの書かれた、海のヨット中心、少しダイビングの随筆集「キャビン夜話」が好きで、全巻(5冊)、今の自分の書棚に入っている。そんなことで、後には親しく話をするようになるが、1962年当時は別に親しくはなかった。工藤さんは科学評論家でありラジオ作家、筆で身を立てていた。そういう関係の仲良しグループだった。だから、この62年夏号からは、工藤さん、田辺さんの色彩が強くなってくる。
 僕は、と言えば、日本水中科学協会の学生会員第一号、会員番号80 東京水産大学では、トップのダイバー(この自負で危うく命を失うことになるのは事故例で書いたが)自意識ではダイビングのトップのつもりである。工藤さんの会員番号は295、田辺さんはもっと後ろだ。
 しかし、僕の就職した東亞潜水機は、日本潜水科学協会の中心でり、大学地代にお世話になった菅原さんと折り合いがわるい。、菅原参は東亞潜水機でクーデターを起こして退社している。日本潜水科学協会に繁区出入りすることはできない。その鬱屈が、1963年、舘石さんと組んでやる100m潜水の動機の一つだったのだろう。
 1962年夏号は、真鶴での「アクアラング潜水お断り!」がメインの記事になっている。
 「協会だより」協会のニュースを集めている後記のだが、これが、ここからの協会、つまりアクアラング界の動きのランドマークである。この62年の7月、関西支部が発足している。ほぼ同じ時期に関東支部も発足して、関東支部の会長は森清衆議院議員、牛耳っているのは安東さん、日赤の救急関係で、協会に入り込んできていて、僕はあまり協会には行けないので、口をきいたことがない。話せば、気が合ったかもしれない。支部制が引かれるとともに、初級講習も中級講習も関東支部が行うようになり、中級修了者には、修了証が出されることになった。日本潜水科学協会も関東支部も事務所は、大塚に事務所を構えた日本アクアラングの社内にあり、日本アクアラングの東京支社長であった山中鷹之助氏が常務理事になっている。つまり、日本潜水科学協会と日本アクアラングは、一つのものと見ても良かった。
 日本のアクアラング界の軸が日本潜水科学協会にあると言う所以でもある。
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       ええっ、なぜこの写真が表紙になるの?そのころの僕でさえそう思った。
 62年 秋号
 関東支部が正式に発足した。
 
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 6・4 63年春号
 「どるふぃん」は季刊の予定だったが、なかなか年に4回は難しかったのだろう。並べて見ると不規則だ。
 関東支部は、講習会の他に練習会も何回か開催している。講師陣は菅原、大道、浅見、南里、竹内、遠藤、土橋、荒井 もちろん、僕の姿はない。浅見、南里、竹内、遠藤、水産大学の同級及び後輩である。
 どるふぃんで東亞潜水機が紹介され、三沢社長と並んで僕の写真がでた。どるふぃんから見て、内輪ではなくよその人である。 関西支部は、京都地区、大阪地区、神戸地区、姫路地区、中京地区、四国地区、地区割りにして各地区に幹事を置いた。
 
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 7・1 63年夏
 初級講習会を7回、中級を4回開催し、練習会を二回、旅行(ツアー)を一回、フーカー潜水講習会、などを行っている。
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 7・2 63年秋
 素潜り大会を行ったが参加人数は7人であった。
 関東支部の支部報の名前が「碧泡」と決定した。
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 7・3 63年冬
 63年夏、舘石さんと一緒に挑んだ大深度潜水の記事が掲載されている。
 初級講習は第30回を迎え、中級は14回になっている。
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 7・4 64年春
 クストーのコンシェルフ計画、海底居住の報告が載る。
 田辺さんのダイビングヨット 蒼竜が紹介される。
 僕たちの大深度潜水の二回目が掲載される。 新宿のトウキョウアクアラングサービスの広告が掲載される。
 セコニックマリン 露出計が発表される。
 関東支部は千駄ヶ谷プールで練習会を5回
 日本クレッシュウサブの紹介 そのころのダイビングショップは、いわゆるアクアラング屋さんで、トウキョウアクアラングサービス、池田和一郎さんの太平潜水 クレッシュウサブ、真鶴の後藤道夫のダイビングセンターなどが、日本潜水科学協会と同じような講習を、数人を対象に行っていて、倶楽部を作ってツアーなどもしていた。柔道や剣道の町道場のようなものと思えば良い。収益は機材の販売であり、ツアーは実費のようなものだが、機材をそこで買うことが常識だった。なお、機材はボンベも買はなくてはならない。ボンベが全部レンタルになるのは、まだ先のことである。車も持たないのに、ボンベを買うのだ。車を持つ人が倶楽部のリーダーになる。
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8・1 64年夏
 表紙は八丈島の底土三又 モデルは岡田真さんの若い日、撮影は舘石さんだった。 この号で工藤昌夫さんの下田から伊豆大島まで潜水し行こうという、長距離潜水の報告が掲載されている。下田から大島までおよそ40キロ、その間を黒潮が流れているので、20キロ幅の黒潮を横切れば大島に到着する。8リットルのボンベを背負い、空気が無くなったら浮上して交換する。12チャンネルの放送企画で、田辺さんの蒼竜が母船になって、カメラマンも田辺さんだった。
 朝の5時から泳いで午後の3時まで、道半ばで予想通りギブアップしたが、有線の通話機を浮かべて通話しながら流れていく、ユニークな、工藤さんならではの冒険だった。 この号で、日本潜水科学協会は、写真部、水中スポーツ部、研究部、訓練部の部制度でやることが発表された。水中スポーツ部とはスピアフィッシングであった。スピアフィッシングが違反であることはわかっているが、ラング普及の芽をつぶしたくないという発想だった。スポーツ部のヘッドは工藤さんである。

8・2 64年秋
 竜宮城が表紙だった。
 この号で僕は、研究部のページで「開放式スクーバの型式と特色」と言う記事を書いている。その当時、レギュレーター設計の第一人者だったのだ。
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8・3・4 65年春
科学討論会が主な記事である。
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9・1・2 65年秋
潜水入門講習(名称が変わっている) 4回を予定する。30回まで連続してきた初級講習、中級講習の予定が発表されていない。
 そして、協会だよりより、関東支部が消えている。協会だより、のページもない。
 延々と実績を積み上げてきた関東支部が忽然と消える。
 このことを書くために、僕も延々と書いてきた。 

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