魚突きでなくても、ダイビングの事故で、主催者、たとえば倶楽部、連盟、あるいは指導員、などの責任を追及して訴えるという文化は、揺籃期の日本のダイビング社会にはなかった。僕たちが日本潜水会を作り、潜水科学協会が支部制度を作った名残の関西潜水連盟らと合同して全日本潜水連盟を作ったのが1970年、その全日本潜水連盟で、安全対策協会という組織を別に作って、安全対策費を積み立てた。それは、事故が起こった場合の捜索費用などにあて、その対策費を引き出すためには、詳細な事故報告が必要であった。そのときの事故報告が残っていることはすでに述べたが、そして、もしも、事故が起こり捜索などが必要でなかったばあいには、報告書の提出で、お香典に相当するような見舞金が100万だか200万だかが送られた。
そのころのそのような考え方を僕はまだ引きずっていて、陸上よりも危険であることが認識され受け入れられて、ダイビングを始めたものであり、その危険な環境の中で事故が発生したとして、その責任を自分以外の誰かに転嫁するということはおかしいと思っている。
ただし、誤解のないように言って置くが、これは遊びの世界、レジャーダイビングの世界のことであり、労働、事業者が労働者を雇ってする潜水作業はまた別である。これは労災保険でカバーされるが、高気圧障害防止規則などの規制を受ける。なお、労災保険は雇用者、事業者が加入して保険料を支払って居なければならない。労働者の事故については、また別に論じるとして、レジャーダイビングについて、これは雇用関係などによって強いられるものではなく、あくまでも自分の自由意志で危険があることは承知してやっていることだから、自分の責任であろう。と思う。
これから、高齢化社会を迎えて、高齢者がダイビングを行っての死亡事故が増えていくであろう。後期高齢者、これは自分も含めてだが、それほど遠くない先に死ぬ。ダイビングを続けているならば、水中で死ぬこともかなりの確率である。自分が心配しているのは、そのとき、一緒に潜っている仲間、あるいは組織に迷惑をかけることが心苦しく、さりとてダイビングをやめたら生きていく力を失ってしまう。人間の身体とはうまくできているもので、死ぬより先に歩けなくなる。立ち上がれなくなるだろうから、タンクを背負って、重いウエイトを付けて立ち上がれているうちは大丈夫だ。そして、自分の動物的な、死についての予知感覚をしんじている。これが信じられなくなったら、だれも潜れないだろう。とにかく、若い時から、死のことばかり考えている。だから、ここまで生きたと思っている。突然死についていうならば、若い人も突然死するからイーブンだ。とか思っている。若い人の突然死にどれほど悩まされたものか。
とにかく、その心配であって、誰かの責任を追及しようとかは、爪の先ほども思っていない。これは、65歳を越して、ダイビングを続けるすべてのダイバーに言えることなのではないだろうか。今、65歳と書いたのは、保険の世界で、65歳で線が引かれているからで、ダイビングの自己責任もそのあたりに線を引いたらと思う。
それは高齢者のことであり、一般のダイバーではどうだ、というとやはり、死は自分の責任だと思う。
今、60歳以上の人が多い、スキンダイビング倶楽部をやっているが、もし何かがあって主催者の僕を訴えたところで、どうにもならない。高齢になり、高齢になったが故の事故の責任を誰にも転嫁できない。
「海で逢いたい」という写真展があるが、「海で死にたい」ダイバーがこれからどんどん出てくる。もしも、その責任を若い人に負わせるならば、海に入れてもらえない。
それは、ともかくとして、若い人の場合でも、たとえば神子元島に行く、パラオのペリリュウーコーナーに行く、といってこれも自分の意志で行くのだから、流されてもすべて自分の責任だろう。
それでは、講習はどうだろうか、講習の場合だけは、インストラクターの責任だと考えている人が多いと思う。しかし、その講習中の事故も当初は自己責任だった。
事故の歴史は、講習の歴史、講習を受ける人と、講習主催者とのかかわり合いの歴史、と言う一面がある。講習を抑えてしまえば、あとは自ずとわかってくる。
まず、ダイビングの講習は、東京水産大学小湊実習場で始まった。学生だけではなく、学生と同じようなプログラムで、学生以外の希望者を対象にした講習会もあった。日本潜水科学協会が発足したのが、1957年の夏だが、この講習が潜水科学協会の主催だったか、どうかわからない。しかし、その当時、東京水産大学と潜水科学協会とは一心同体のようなものだった。水産大学の学長だった佐々木忠義先生が、潜水科学協会の会長でもあったのだ。一つの理想型であった。
この1957年から1996年あたりまでの40年あまり、日本のスクーバダイビングは、日本潜水科学協会、そして、それが変身した海中開発技術協会を軸として展開する。まあ、視点によってそれは変わるが、とにかく、軸があった方がわかりやすい。
この軸に沿って、見ていくことにする。 1957年、日本潜水科学協会が発足した年、僕が東京水産大学三年生の時に潜水実習を受けた。これは水産大学の単位にはまだならなかったが大学の実習だった。その前後にこの潜水科学協会の講習があった。NHKのカメラマン竹内庸がまだ学生でこれに参加している。これ以前に日本でスクーバダイビングの一般人むけの講習はない。1953年が正式に日本にアクアラングが入ってきた年で、54年に水産大学の学生の講習が小湊であり、さっそく死亡事故が起こったことは、すでに述べた。ダイビング講習は、事故を乗り越えて行くのだ。 その小湊での講習の他に、江東楽天地の屋内プールでほぼ同じ講師陣で講習が行われている。これは水産大学は関係していなかったようだ。そして、その講習で死亡事故が起こっている。もしかしたら、その第二回かもしれない。後藤道夫は、この江東楽天地の講習でアクアラングを始めている。もしかしたら、後藤道夫の方が、僕よりも何ヶ月か早いかもしれない。1957年の7月のことだ。もしも、今、後藤道夫が生きていれば、江東楽天地のことが聞けるのだが、残念なことに今はもういない。
そして、この事故の記録が一切ない。講師陣は、僕の師匠ばかりだ。ダイビングを教えられるのはこの人たちより他にいない。菅原さんを筆頭にした日本潜水科学協会のグループだ。
そして、この楽天地の確か二階だったかにあったプールでの講習は、以後行われていない。
江東楽天地の建物の下には、3月9日の下町大空襲での焼死者が埋まっているそのたたりだなどという噂もあった。
水深1。2mぐらいの競泳プールで、しかも第一回だから、マスククリアーぐらいしかやっていないだろう。空気塞栓にもなりようがない。事故の原因などわからない。ただ、死んでしまったのだ。やはり、祟りだろう。そして、この事故のこと、本当に噂だけの都市伝説なのかもしれない。
☆★☆
日本潜水科学協会の講習も次第に回数が増えて行く。これらの詳細は、機関誌の「どるふぃん」を見れば、今でも克明にわかる。
初期の講習で1958年7月 どるふぃん 2ー1
以下原文
第五回初級講習会
※1957年に発足、から数えて5回ということ。 昭和33年6月21日22日
場所、東大室内プール
講師 菅原久一 宇野寛(僕の恩師)神田献二(水産大学漁業科の先生)吉牟田長生(東海区水産研究所)梨本一郎(医科歯科大学 で潜水医学の嚆矢)
助手 原田進(僕はなぜか助手に居なくて、僕のバディ:僕よりランクは下)上島章生(後の日本アクアラング社長)松原陽二郎(後にカナダで定置網をやり成功する)他に伊東ひで子、伊東栽子 乾康子(東大教授夫人)伊東淳子(アイドル後に、マリンダイビングができる前の水中造形センターの多分、第一号社員)
受講者は、22名名簿省略
受講に先立ち、6月19日、東宝診療所にて健康診断
講習内容
第一日に遊泳力、素潜り能力検定、スキューバ野間少なし潜水まで行った。同時に菅原講師よりスキューバの構造機能などの座学があった。
第二日は、日曜日なので午前、午後にわたり、みっちりスキューバの基礎訓練を行い、昼休みを利用して、梨本講師より、潜水生理ならびに救急法の話があり、その後、伊東、乾氏などにより、溺者救助、人工呼吸などの実演がなされ(このおばさんたちは日赤の救助員だった)潜水の安全教育が強調された。
ただ、水温が低かったので、時々休まなければならないのは残念だった。
※まだウエットスーツはない。
中級講習 第4回
※中級:海での講習の4回目だ。原則としてプールでの講習修了者を対象にしているので中級だ。 1959年 12月号 どるふぃん より
※僕は59年の3月水産大学を卒業して、東亞潜水機に入社して、日本潜水科学協会とは縁が遠くなっている。
7月29日
講師 海老名謙一 神田献二 菅原久一
助手 増田辰良(水産大学、実習場長)伊東秀子
古川(実習場 技官)永持(後に舘石さんの助手)笹原(潜水部後輩、後に、ブリジストンで土肥の101、初代場長)
※海老名先生は、魚類学教授、すでに定年間近であったが、スポーツマンであり卓球が強く、僕が大学入学時の水泳実習で、アクアラングのデモストレーションをされ、僕はこれを見て、自分の将来を決めた。
が、別にダイビングの専門家ではない。小湊実習場での講習なので、名誉講師で参加されていたのだろう。 7月30日快晴 (第一日)静穏
受講生18名 事故無く揃い、元気に作業開始
午前岸壁水深1。5m付近にて呼吸停止2分以上の記録もでる。
※息こらえのテストをしたらしい。
200m遊泳
A班B班に分かれて機材試用に移る。
マスククリアー ホースクリアー マスクなし潜水
潜水テスト中 小川君は48mにて(おそらく水平潜水)意識不明となり直ちに救助、舟に収容し(
1分20秒後)人工呼吸、直ぐに呼吸回復し、岸壁到着3分後には意識回復し、大なる事故にならなかったのは幸いであった。天津小湊村上病院の医師到着治療を受けたが、肺に若干の浸水があり、肺炎を警戒して安静の要ありとのことだった。本人は至極元気であったが、夕刻入院して大事をとった。
小川君は前夜一睡もできず体力衰弱の上に無理をしたため意識朦朧の陥り酸素欠乏直前の経過をたどったものとおもわれる。
午後 午前の科目復習、及びマウスピースの交換(※バディブリージング)一部の人は着脱を終わる。
夜 19時ー21時 学科 潜水の生理と注意事項 7月31日 快晴 静穏
午前 全員着脱終了
午後 潜水台(コンクリートのベース)にて総合動作及び6ー7mの三角コースを泳ぎ、耳抜き、計算問題など、水深6mにてマスククリアー
小川君 1500退院し、本人は直ちに講習に復帰の希望であったが、東京より見舞いにこられた実兄の助言もあり、講習を断念して帰京。
※ これとほぼ同じ事故?をこのあと10年後、潜水部13回を同じ小湊でコーチしていて、起こす。このときも呼吸停止後2分で回復、入院したが、同じ事故の情報を頭に入れていたならば、潜水しての息こらえテストなどは行わなかっただろう。これが遠因で僕は水産大学潜水部のコーチを辞める。 夜1900ー2100 小湊周辺の海中生物についての講話 8月1日 快晴
午前 潜水台より三角コースで総合潜水 水深8m
昼食後 機材整備
1400退場 1650小湊発 1930 東京着
これが、1959年当時の日本潜水科学協会の講習である。二日間のプール講習、三日間の海洋実習で水深8mまで潜る。