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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0227 スクーバダイビング事故の歴史 4

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 事故の歴史 4 1968年学生のスキンダイビング事故
 1968年 今とは全然違う 事故例報告について、ANACと学生の事故をあげるつもりで、原稿を用意していたが、ブログにできずにいるうちに、海に潜るスケジュールに突入してしまった。お台場、そして波佐間での人工魚礁 テレビ番組撮影である。
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 関東学生潜水連盟は50周年、みんな、この式典の準備をした学生の祖父の若い頃の話だ。東京商船大学潜水同好会の事故の記録である。ほぼ全文を原文のまま載せる。※は、解説である。
 事故報告書 昭和43年 11月23日 名和、山崎 青木の先発が、静岡県南伊豆町入間へ電車、バスを乗り継いで向かう。 0900に出て、15時00分に到着、漁業組合長を訪ねて、ダイビング許可をもらう。 1530 下見でスキンダイビング、赤石付近 海はベタナギである。
 翌11月24日残り6名が0030 自動車で寮を出発、0520民宿着、S君は車中2時間ほど睡眠をとる。民宿着、ただちに用意してあった布団に入り、0930まで睡眠をとる。起床して朝食、S君もみんなと同じように食べる。 1030 準備して、歩いて2ー3分の浜にでる。組合長も来てくれて海の状況など教えてくれる。 それにより、潜水ポイントを赤石と定める。 西の風が少し吹いてきて、波は少々あったが、特に注意するほどの事もなかった。 1100 全員、スキンで水慣れを行い、赤石付近まで行く。このときは全員スキンであった。 1300 全員 帰浜 このころから、風もやや強く波も出てきたが危険な状態ではない。 1330 2名ずつのペアでボンベ使用の練習を行う。残りの者は休息している。 s君はこのとき10分ほどのボンベ練習をしている。 ※ 持参した機材、ボンベの数などの記載はないが、入間には充填する場はなく、充填したと言う記述も無い。6名が自動車で行く車に積んだのだろう。全員で9名10本以上のタンクはなかっただろう。主にスキンダイビングでの魚突きで、ボンベは交代で10分くらいずつ練習したのだろう。
 1430 ボンベ練習も終わり、時間もあったので、元気な人間だけという事で希望者を募った。4名が赤石に行くと言うことで、S君、三尾はスキンで、福地、犬飼はアクアで赤石に向かう。名和、青木、伊藤は、次回の調査もかねてカワラ舟付近に向かう。※赤石とカワラ舟は入り江を挟んで対岸である。 残り2名は体調が良くないと言うことで浜に残った。全員16時には浜に集合と言うことに決めた。 1600  赤石、カワラ舟に向かっていた者も順次引き上げてきた。がS君のいないのに気づき、いつもなら我々より早く引き上げているはずなのにと思いながらも、時間も迫っていたので、名和がボンベを背負って、1600に浜を出発、しばらくして、海岸に居た者がS君らしき姿を認めたので、三輪が泳いで名和のところに連絡に向かい、名和はそのまま潜って浜へ引き上げた。一方、三輪は、認めた人は佐藤君ではないとの知らせを浜より受け、すぐに赤石付近に向かった。多少波があったため、水面より見にくく思い、岩の上に上がって、しばらく海面を探したが、S君らしき姿を認めることができず、事故のあったことを認識し、急いで浜に向かう。途中で向かいの波止場で、連絡を待つ福地をみつけ、S君の居なくなった旨連絡する。 この間に名和、福地の両名は、舟をだしてくれるよう漁師に交渉し、手配してもらっていた。 1630 沖から帰ってくる釣り舟があったので、すぐにその船で現場に向かってもらう。しかし、姿は見当たらないとのことで、改めて、もう一隻の舟に、三尾、福地、および地元の消防団員2名とが乗り赤石付近から立島の周囲を大声を出したり、笛をならしたりして応答を待ったが、何の応答も無し。 太陽が落ちきったため、辺りは急速に暗くなり、舟も危険となったため、やむなく波止場へ帰る。1800 捜索に向かった舟が波止場に帰ってきた。 すでにこの頃には地元消防団員の方々も全員集まってくれており、さっそく陸から、海岸線の捜索に向かってくれる。赤石付近の岩場は、夜は地元の人でも危ないとのことで、我々は、民宿にもどり待機することにした。(1700) この間に連絡係りとして、頼んでいた山崎によって、民宿より、警察。大学に電話連絡が行われた。1930 地元消防団員の方による陸からの捜索も打ち切られ、さっそく、明日の捜索について検討を行う。1900から30分おきに、本学会員が、ベースのあった浜を探して回る。2200 すべて捜索が打ち切られ、本学会員は明日の水中捜索のため寝床にはいってもらう。

11月25日 0030 本学先生、および下田より知り合いのダイバー2名が民宿に到着、ダイバーには早速床についてもらう。 0230 父親ほか遺族の方々が到着 深夜、明日の捜索のために、ダイバー、ボンベなどの手配を行う。11月25日24時ころには、現地には、本学会員8名と、ボンベがダブル1本、シングル5本、レギュレーター四つが確保され、又、日本スキューバダイビングクラブにも連絡がなされ、そちらから法政大学および水産大学のダイビングクラブにも連絡がつき、明朝には、出発してもらえるとの連絡が入る。 また、雲見の高橋さんにも連絡がつき、朝には舟で現場へ到着してくれることになった。 0600 夜明けと共に、本学会員6名と地元の人々を乗せた舟が3隻赤石付近に向かい、捜索が開始された。本学会員5名が 第1班、犬飼、青木、伊藤 第二班 福地 内山 の二班にわかれ1班は陸伝いにゆっくりと岸付近に、寄せられたものではないかという想定で、立島付近まで捜索、何の手がかりも得られなかった。二班は昨日S君が潜っているのを確認した水域を重点的に捜索、三隻の舟からは、三尾の指令のもとに、のぞき眼鏡で捜索をおこなった。 0715 スキンで捜索していた福地が、水深約6mの岩が重なっているトンネル状のところに、トンネル内、に身体を全部入れ、足をのばし、指は握って、手半開きであおむけになったS君を発見した。遺体は、マスクは正常の位置につけ、スノーケルは口から外して、その他、ヒレ、ウエイトも正常の位置であった。1班にも連絡を取り、5名全員が確認をする。その後5名にて事故地点にブイを打つ。 この捜索は素潜りであったため、遺体引上げは、安全を期するためボンベにて行うことになっていたので、一度全員、波止場に帰る。 0800 ボンベを着けた(大方、玉沢、三尾 福地)の4名が事故現場に付き、現場を確認した後。一旦浮上し、引き上げは、舟よりロープをおろしロープで遺体をしばり、ゆっくり引き揚げた。水深2mの時、遺体のマスク内に半分位の鼻血た出る。 ※、ボンベでの引き上げに向かった大方、玉沢とは、当時日本スキューバ潜水クラブ員であったので応援に来ていた。そして大方は、現在水中撮影の重鎮となった大方洋二である。 事故原因の考察 S君 21才、身長1m70cm 体格良 平素から、スポーツになじんでいて、潜水歴も2年になっていた。会の合宿、冬季の潜水行にも数多く参加しており、素潜りの技術面では会員内でも上級であり、特に水平潜水では本学最高であった。又、当日も特に体調が悪いとは聞いておらず、たいへん張り切っており、また、睡眠時間も車中、および宿についてからと、かなりとっていたので、朝食時には何の変化も見えなかった。午後からの潜水前にも、一度本人に確認がなされたが元気で、まだ潜るとのことだった。 海はW の風が吹いていたが、波は少しあるていどで、水温はこの頃にしたら暖かすぎるくらいで、天候は快晴であった。我々の状況にかんしては、それほど大変だとはだれも思っていなかった。 遺体の発見された場所、および状況から判断して(S君は銃体が木製の銃を持って行ったが、現場付近では発見されなかった。彼が大きな魚を追い、銃を撃ち、それが命中して、魚が急激に逃げ回り、銃をとられ、これを追いかけて、岩の下に入り込んでしまい、息が切れてしまったのではないかと思われる。しかし、穴は、身体が全部入るほどなので、後戻りして抜け出すことのできるもので、彼の体の機能を鈍らす、何らかの要素が働いたとも考えられる。 それは、耳がぬけないまま潜水し、鼓膜が破れ、このために平衡感覚を失い、脱出できなくなったか、水中であおむけになり岩を出ようとして、めまいを生じ、穴から抜け切れなかったことも考えられる。 しかし、その深度まで潜るには、たいてい、耳抜きはなし得たものと考えるので、余力、瞬時判断の力があれば、後退は出来るだろうと思われる。そうなると、瞬時判断において、前からでようか、後ろへの退こうか迷い、穴の中で思いがけない時間の経過が立ち、それが窒息をまねいてものではないかとも思われる。 いずれにしろ、今回の経験により、次の点に十分に注意したいものであり、またいろいろ参考意見等もお聞きしたいと思っております。 1.スキンダイビングにおいても、互いにバディシステムという原則を守り合う。 2.自己の能力範囲外の潜水を行わない。 3.海に対し、もっともっと経験をつみ、冷静な状況判断をなし得るよう訓練する 4.指導者、および、見張りの任についてものの徹底した人数確認   潜水海域の指定とその厳守   人数確認のチャンスを多くもてる計画   時間の厳守 5.各自の自覚 今回の事故に協力および助言をいただいた方々の氏名は以下の通りです。  南伊豆町漁業組合入間支部長 渋谷氏 他組合員  区長  南伊豆町役場  南伊豆消防団長  以下、中略  日本スキューバダイビングクラブ会長 鈴木博   会員 玉沢 大方、蓬莱 本田  雲見のダイバー 高橋氏 他3名
  法政大学 東京水産大学 ダイビングクラブ  以下に述べますのは捜索に要した費用で、記入漏れもありますが、その概略であります。  費用すべてが遺族の方より出される。    下田消防団御礼   30000円    日本スキューバダイビングクラブお礼 10000円    民宿お礼  10000円    民宿経費  10100円    神主 お浄め代 1000円    生花一対  10000円    往復ガソリン代 3000円    医者証明書 6500円    その他雑費 4500円    合計 85150円  この報告書の終わりをもって、考えますに、各方面の方々の手早い、ご援助、ご厚情に感謝するとともに、我々一同、深く反省し、再度このようなことの無きよう万全の注意をすることを約し、また、これをお読みくだされた方々に置かれましては、少しでも参考になればと願って事故報告を終わります。
  東京商船大学ダイビング同好会 名和 正彦
 ※ この報告書は、43年12月3日になっており、迅速な対応、と言える。 1968年、今から50年前である。当時の学生ダイビングの様相がわかる、 あたかも、関東学生潜水連盟の創立も1968年であり、創立50周年の祝賀会が行われる。 50周年、半世紀である。これを書いた名和氏は、どうしておられるだろうか。この文からお人柄は良くわかる。 そして、この東京商船大学ダイビング同好会も関東学生潜水連盟に加入が予定されていたと聞く、法政大学、水産大学に連絡して捜索に出発しようとしていた。親交があったのだろう。 関東学生連盟に商船大学ダイビング同好会は加わっていない。この事故のために加わらなかったとも聞いているが、定かではない。この報告書からは、これが終わりという印象は無く前向きに結んでいる。 ※ 2月10日関東学生潜水連盟 50周年祝賀会が行われた。初代の委員長であった銭元さんに商船大学のことを聞いたら、まったく知らないという。捜索に行く準備をしたことも知らないという。銭元君は、法政大学の一期ではない。学生連盟ができる前の事情については知らなかったのだろう。法政の創立時の主要人物であった加藤君(日本潜水会学生会員)に聞けば、より詳しくわかったのだろうが、祝典に来ていなかった。  この事故は水中銃で魚を撃って居た時代の素潜り事故として典型的なもので、その後いくつか同様の事故が報ぜられており、そのいずれもが海底での拘束である。ために、スキンダイビングによるスピアフィッシングは、危険と言われていた。スピアフィッシングの危険は岩の下などに入る拘束事故こであり、この事故に疑問点は全くない。クラブで上級と言われるダイバーがなぜ抜け出せなかったのか、これも学生ダイビングの定石ともいえる、その年度でトップグループのダイバーが事故を起こしている。上手なのになぜ、ではなく、上手だったからの事故である。岩の下で息が尽きるという事故は海女さんにも同じような事故がよくおこっている。岩の下でアワビ二枚まではとっても良いが三枚目が命取りになるなどとも言われている。獲物を追っていれば、限度を越してしまう。そして、その場が上に水面の無い岩の下である。後戻りしたら出られるとかいう問題ではない。 いうまでもなくレクリエーションでは、スキンダイビングでもバディシステムは必須であり、この事故もバディであったならば、助かっていたかどうかはわからないが、助かっていた可能性はある。 当時、多くの場所で、そして南伊豆町でも、スキンダイビングによる魚突きが認められていた。 なお、関東学生泉水連盟は、日本潜水会と同様に、魚突きを止める声明をだしていた。 日本潜水会は、魚突きグループが多い関西潜水連盟と合同して全日本潜水連盟をつくったために、魚突き禁止の徹底は全日本潜水連盟ではできなかった。 前回のANACの事故は、スキンダイビングによるシャロ―ウオーターブラックアウト、商船大学は拘束スキンダイビング事故の典型の二種類である。当時、スキンダイビングはスクーバダイビングの基本であり、スキンダイビングの方がより安全であると考えられていた。現在2018年では、どうだろうか。やはり、スキンダイビングは安全と思われている。岡本美鈴、千足耕一先生、藤本浩一先生、そして須賀が書いた「スキンダイビング・セーフティ」の改訂版で、スキンダイビング・レスキューを書き加えているが、水面でのレスキュー用具である、レスキューチューブ、もしくはそれと同等のものを持ち込んで、複数で潜ることを薦めている。
 ここに挙げた二つの事故は、そのような態勢であれば、起こらなかった。しかし、報告書の反省では、この態勢は持ち出されなかった。以後、おなじようなスキンダイビングの事故は、毎年1例ぐらいずつ報告されていた。
 事故例が運用、どのように活動するかに反映されない。このことは、現在も同じである。言葉だけの反省ではなく、何か物理的に頼りになる、器材が必要で、その機材の使い方(運用)についての、知識と実行が必要である。
 日本水中科学協会、は水中活動の運用研究を目指しており、水中活動運用学会が別名でありたい。この事故の歴史報告もその方向、コンセプトで重ねていきたい。

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