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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0213 スクーバダイビング事故の歴史 3

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スクーバダイビング 事故の歴史 3 1968 事故報告書
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ここまで2回 日本で最初の事故、そして学生最後の年の人工魚礁調査でのエア切れ危機一髪を並べた。 事故を歴史のように並べることによって、そのころのダイビングが見える。ダイビングの歴史が見えると考えている。 ここから先の筋道の予定を一応説明しておくと ここで、1968年の事故を二つ紹介する。これらの事故は、事故を自分たちの手で解決して報告書を出している。本当の事故報告書なのだ。しかし、50年半世紀経過した今でも、紹介をためらった。いわゆるプライバシーの問題がある。しかし、これがないと1968年のダイビングを理解できない。自己責任の意味が理解できないだろう。このあと、1993年、後に「商品スポーツ事故の法的責任」というような本を書く中田誠さんがハワイで遭遇した事故、そして、その後の中田さんの書いた本をとりあげる。1968年と1993年では、全く違うダイビング、違うスポーツになっていることがわかる。 これは、ダイビングというスポーツの根幹の問題だと思う。。 その中田さんの本。それと併行して幾冊かの事故に関連する本を見て行く、予定しているのは「海で死なないための安全マニュアル100」中田さんの本のタイトルと大同小異だが、鷲尾さんの著作である。 そして、これまでに何度となく書いた、自分の会社での脇水輝之の事故、そして、水中科学協会を作るきっかけとなった東大の事故、これは、発表されている事故報告書について論じて行く。だいたいこんなストーリーを考えている。

、昭和43年、1968年の事故報告で、3月29日の報告である。  事故はオールニッポンアクララングクラブ、東京で二番目に古い、新宿御苑前の東京アクアラングサービス(当時と今ではオーナーが代わっている)のお客を中心にしたクラブである。お店とは一応別になっていて、店のオーナーである青木さんとは別の会長(松澤亮二氏)を立てて運営している。※松澤亮二氏は、日本潜水会の初代事務局長でもあった。 当時のダイビングクラブの典型ともいえるクラブである。  以下事故報告書、ほとんど全文そのままである。

 事故直前までの記録 計画は当初、外房の白浜根本にあったサービスを使って、沈没船を探検する予定であった。 朝5時にクラブ事務局に集合、参加者は計11名、しかし、海況などを現地に聞くと、波もあり感心しないという事で、行き先を勝山の浮島に変更、5時30分、3台の車に分乗して出発する。 ・8時ごろ勝山着、かねて知り合いの船頭さんの舟で8時40分ごろ全員乗島 ・小休憩のあと、全員スクーバ着装、以下のバディ組み合わせで潜水開始 ・松澤 仙田 、内藤 小田切、高岡 斎藤 、青木、山田。 水野 伊藤 5組 ・山田 青木組は、オオボケ島外側の水深10-20m付近を約1時間潜水して、三組目にベースに帰投 ・11時頃、全員ベースに帰着、昼食(おにぎり三個宛 味噌汁)山田君大変元気で、味噌汁美味だったため5杯を平らげる。  当日の海況 曇天、時々小雨 北東の風わずか、波ほとんどなく、潜水海域付近はベタナギの状態。水温、約13度、潮流ほとんどなく、透明度10-13m  事故当時のもよう 昼食後1時間半くらい火にあたって雑談、13時頃、15時には乗船できるようにと申し合わせ、各自スキンダイビングに本島ベースを離れる。 山田君は小田切、水野両君とともに「小ボケ島」西側付近を約30分くらい、三点セットの他、5キロのベルト、グラスロッドの手銛、キャリングバッグの他、軍手、スーツは5mm、フード、ベスト付きの装備でスキンダイビングするも、「魚が全然いない」との理由で一旦帰投、小憩の後、今度は一人で、「浮島」と「オオボケ)島の間の海峡を北西側に泳ぎ出る。14時ころ、高岡、伊藤組は、ボンベの残留空気があったため、スクーバを着装して、海図A点付近を水面移動中、山田君スキンダイビング中であることを視認して、その付近でスクーバ潜水、30分後(14時半ごろ)浮上、再びA点付近を通過して本島ベースに帰投するも、同君は見なかった。しかし、移動は当たり前なので、不思議には思わなかった。14時40分ごろ、本島ベースで、仙田、青木両会員、離島時間も20分後に迫り、未帰投は山田君のみとなったので、「そろそろ呼んでこなければ、」ということで、船頭さんの舟に乗り14時45分ごろ岸壁を離れ、15分かかって、小ボケ、大ボケ、浮島の三島を一周するも同君の姿を認めない。  捜索 当日 仙田、青木、両人、同君を遭難と判断、直ちに平服に着替えた者も再度スーツに着替え、「小ボケ」周辺二人、「大ボケ」周辺二人、浮島北西部4人の編成でスキンダイビングによる捜索を開始した。時に、15時15分であった。 ①山田君がスキンダイビングであり、この部門は彼の苦手であり、5mぐらいしか潜降能力が無いことを知っていたので、遭難現場は浅いと判断、全員スキンダイビングに依った。 この時、予備ボンベ、9リットルダブル1組、他、50-70キロ残圧のダブルボンベ5組があった。 ②仙田会員は、平服で船上より捜索に当たり、30分間このまま経過した場合勝山港に帰り、警察、会長、クラブ事務局に現状を電話連絡する手順で、予定時刻に彼はこれを実行した。 ③島の裏側から陸路ベースに帰投もあり得るとし、同行の潜水しない非会員1名は浮島の頂上付近を捜索した。  16時まで、この状態の捜索を行うも、なお手がかりなきため、潜水者全員を一時ベースに集め、ミーティングを行う。その結果、高岡、伊藤組が最後に山田君を認めた浮島西北部のA点付近を重点的に調べることとし、青木、小田切は、念のため、浮島をスキンダイビングで一周することになった。17時頃、数隻の漁船が応援に到着、見突きの「のぞき樽」で捜索に協力する。 17時30分ごろ、会長より、「二重遭難の危険を避けるため、日没とともに捜索を一旦、打ち切れ」との指令が入り、18時ごろ全員浮島ベースに上がる。 翌日 3月25日 前夜から、勝山町のベースキャンプ沼平旅館に続々到着したANACの会員と日本スキューバダイビングクラブ、海底ダイビング((株)、OKアクアラングクラブ、エンジェルアクアラングクラブのメンバーとチャーターした4はいの漁船は、北東の風若干の雨天の中を、7時―8時の間に浮島ベースに集結した。その人員はANAC会員49名、応援の他クラブ会員14名、ボンベの集結量は、ダブル53組、シングル26本であった。 総指揮の松澤ANAC会長より、状況説明有、第一陣の第一回捜索は快苦を指定して以下の手順ではじっめられた。 1班 大野 小野副会長以下5名 2班 海底ダイビングクラブ他3名 3版 日本スキューバグループ 他3名 4班 スキンダイビングによる捜査班 石井、出川ほか3名 船上余地の捜索 小島副会長他2名 遊軍 八木野監事ほか数名 1班3班までは、各班ごとに視界の限界間隔で1本の長いロープにつかまり、見残し店の無いようにした。第一回は発見されず、第二回は,構成は第一回と同じで、各班第一回に捜索した地区の沖側を調べた。 各班が第二回目の潜水を開始した時間は10時30分ごろであった。 結果は、予定コースを若干沖側に外れた1班が、11時28分 水深20m、A 点北西、約300mの海底に足先を組み合わせ、指は握って手は半開き、仰向けの状態で接地の遺体を発見、マスクは正常に掛け、スノーケルは外れており、顔の露出部分は白色であった。網にて引き上げの途中、、口から若干の泡らしきものを吐く。  事故原因と今後へのいましめ 山田  23歳 身長約170cm 体重60キロ 快活でファイトあり。 検死医の公的な死因の表示は「溺死」であり、付帯の但し書きには、 1.水を飲んでいない。2.外傷を認めない。3、口から少量の泡を吐き出している。 の三項目であった。 潜水経験はまる一年なるも、伊豆大島方面にも出かけ、潮の流れや相当の波も経験し、技術は初心者の域を脱していた。 安全度が高いと考えられているスキンダイビングで彼が遭難するとは、通常、考えられない。 ①体に特別な欠陥は無かった。(両親談、および過去の履歴から) ②当日の健康状態 (朝は早かったにしろ大変元気だった) ③当日の水温(もちろん暖かくはなかたが、同行者全員、雨天にも関わらず特に寒がった者もいない) 等から、同君だけが特別の状態の下にあったとは考えられず、スクーバを使用しても相当な技術を有する同君が、ウエイトベルトも落とすことが出来なかったことは、彼の正常な精神、および肉体活動を奪う要素が、瞬間のうちに彼を襲ったと考えなければならない。 一般の溺れの前に来るパニックはこの場合、当てはまるヨウ素は非常に薄い。 一瞬に精神と肉体の活動を奪う要素は数多いが、この場合は外傷もないところから、いわゆる心臓麻痺も考えられるが、水中で長い時間頑張った結果自己の能力の限界を超えた呼吸停止によって起こる、無酸素症状から失神し、顔が水面下にあったため呼吸の継続ができず、ついに窒息死に至ったとの見方が有力である。 あるいは耳がぬけないのに、より深く潜行したため、鼓膜が破れ、このために平衡感覚をうしなって溺死に至ったこともかんがえられる。もちろんこの原因については、今後クラブで指揮者の意見も各方面から集め、この追求を徹底して行うものである。 今後はスキンダイビングの安全性を過信せず 1.自己の能力を越えるような、深度と潜水時間を避ける。 2.スキンダイビングも二人一組で行い、お互いの安全に責任を持つ。 3.この部門にもライフジャケットの必着を習慣づける。  以上を厳守しなければならない。   要した費用 (この他遺族より直接支払われた費用もあった。) 1.車両実費(延べ27台のガソリン、フェリーボート、道路料)  ¥ 62960 2.エアー代金(延べW 47セット s 20本)        ¥22000                  3.沼平旅館支払 (ベースキャンプ設定 宿泊料ほか)      ¥45375 4.傭船料およびチップ                     ¥34000 5.浜のお浄め料(地元漁協)                  ¥ 5000 6.薪代 (含む入島料)                    ¥ 3000 7.ご仏前                           ¥10000 8.食事代(24日夕―25日早朝 スナックバブル)       ¥10000 9.通信費(ちほう電話料 礼状)                ¥1000010.都内交通費 (タクシー)                  ¥ 150011.諸雑費                           ¥16790                           合計 225625 上記金額の 7.を除き その金額を遺族は負担された他 ANACに対して多額の金一封をいただく。  捜査協力者名(順不同) 鋸南町警察署 殿 勝山町漁業協同組合殿 勝山町漁協婦人部殿 勝山町水難救助会殿  海底ダイビング(株)殿 日本スキューバダイビングクラブ殿 日本スキンダイビングクラブ殿 エンジェルアクアラングクラブ殿 オーケーアクアラングクラブ どの ANAC 関係 中川政幸 橋本洋治 松澤亮二 小島幾太郎 上田薫  大野由明 小野悠哉 オールニッポンアクアラングクラブ(クラブ員?) 赤井真吾 米山敏夫 高橋敏夫 笹木陽一 小野喬  佐藤勇  山田勲  誉田正博 中山晴一 安田照  唐沢嘉昭 佐藤春輔 高岡宏二 松沢保夫 小田切敏英 南雲文男 原 仁  前川政幸 伊藤隆一 加藤繁男 桜井義雄 内藤民男 堀保彦  出川良治 石川香司 川俣清志 倉持忠夫 佐藤泰義 川尻喜久雄 古島義昭 大須賀輝明 小宮守保 仙田貞文 矢木野勲夫 市倉文夫 大島忠 福地利夫 佐々木信夫  ※懐かしい名前もあり、現在も付き合いのある唐沢さんが居たりして全員の名前を写した。 さて、これで、当時のクラブ活動、クラブの在り方、事故の対処の仕方 などよくわかると思う。 まだ、シャロ―ウォーターブラックアウトという言葉は使われていないが、「酸素分圧が高くなる海底で酸素を消費してしまい。呼吸停止の限界で浮上するとゼロに近い酸素はますます薄くなり無酸素の症状が急激に襲ってくる 」昭和48年 1973年 鶴耀一郎著 スポーツ潜水 から、報告書も同じような表現で原因を推定している。多分、これで良いのだろう。 当時はスキンダイビングは、スクーバダイビングの基礎であり、スクーバの前段階と考えられていて、スキンのほうが安全度が高いと思われていた。又エアーステーション、ダイビングサービスなど無いから、海に行けば、半日はスキンダイビング、半日はスクーバダイビングをするというような形が通常だった。    事故が起こった場合、とにかく自分たちで解決する。社会的に自己責任での解決を目指している。付き合いのあるダイバー、ダイビングクラブが無報酬で捜索に参加した。 要した実費は遺族が負担することが、通常であり、この負担を軽くするため、この後、全日本潜水連盟では、安全対策費として、別会計で積み立てを行うようになる。  

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