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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0209 事故例2 人工魚礁調査

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 ブログに載せるには長すぎると思うし、このような文の集積を「ダイビングの歴史」の載せられるかどうかもわからない。しかし、とにかく、

 人工魚礁ブロックの模型を見た目のように並べて、全体像を知ろうとしたもの。
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事故例 2
 事故の詳細を知るには、彼もしくは彼女がどんなトレーニングをしていたか、どんな講習を受けたか、そのキャリア、経験 その人の性格、そしてその時の海況 場所、流れ、水温、水深 設備、もちろん器材、そして同行している人などが必須である。
ここまで記録している事故例は、その報告書を受ける側にならないと受け取れない。
 
、自分の経験、報告書、本雑誌など公刊されたもの、現在であればネットにも公開されている。ここでは、そのいくつかをなるべく時系列で紹介したい。時系列でというわけは、器材も考え方も周囲の状況も事故の原因になるからである。 その中で、一番正確なのは、その事故本人の報告である。しかし死亡事故、死んでしまえば、それは受けられない。
 まず、自分の事故例、もちろん生きているから書ける。
 1958年、東京水産大学4年生の時の出来事である。
 なお、これらのことについて、拙著 「ニッポン潜水グラフィティ:成山堂書店書店 2014」も参考になる。
 まずこの例に先立つ僕のトレーニングとキャリアだが、大学1年からダイビングを生涯の目標にしようと志を決めた。葉山の磯で、素潜りで魚を追いまわした。大学2年生の時、3期上の白井祥平先輩の手伝いで、奄美大島に行き、タンクを背負って10分ぐらいダイビングを経験した。3年次に大学のダイビング講習をうけた。当然、僕は技術的、泳力的にトップだった。東京水産大学のダイビングについてはトップエリートだった。そして、日本潜水科学協会の学生会員第一号になった。そして、一年上の竹下、橋本、両先輩、同級生で僕のバディの原田と語り合って、潜水部を創立させた。2017年、昨年だが、潜水部は創立60周年を迎えた。 4年次、潜水実習の教官だった宇野寛先生の教室に入った。当時、日本全国でダイビングができる大学、そして教室は、ここが唯一だったと思う。卒業論文のテーマには、サザエの日周成長線で、サザエの育ちかたの良否、生態を選んだ。伊豆大島の波浮の港の湾でのフィールド調査の結果と分析がテーマである。その昔だから、伊豆大島には、空気充填設備は無い。アクアラングを買うということは、充填用のコンプレッサーも購入することを意味していた。コンプレッサーが無い場合には、充填済みのタンクを現地まで運ばなければならない。
 伊豆大島へ、充填済みのタンクと、大ボンベ、7立方mのボンベを3本運び込んだ。使い終わったアクアラングボンベに親ボンベから移充填する。昇圧器などは無いから、移充填するたびに充填圧は下がってくる。最後は20キロでも移して潜水呼吸する。さすがに5とか10は無いが、背負っているタンクはゼロまで吸い尽くす。今のように、戻った時が50atm、ターンプレッシャーが100などというのは夢にさえみない。
 1958年 7月 須賀、原田のバディ、に宇野先生の3人で、波浮湾で、ライントランセクト、今でこそ、ライン調査は調査の基本だが、当時は、生物関係の潜水調査では、僕たちが日本での嚆矢だった。なにしろ潜水する研究者が数えるほどなのだから。
 およそ20日間ほどの予定だったが、タンクはたちまち吸い尽くしてしまった。後は素潜り、スキンダイビングでする他ない。 毎日スキンダイビングで、それも次第に深みへと進んでいく。忍者が萱の種を蒔いてその上を飛び越える。成長するにしたがって高く飛ぶ。同じように僕たちも、20mていどまで潜れるようになった。海士級であり、当時としては威張れた。
 そして、その8月には日本潜水科学協会が日本橋三越の屋上に円筒形、径3m深さも3mのアクリルプールでスクーバダイビングのデモストレーションをやった。見せるものはバディブリージングと水中脱着である。これに参加して、水中脱着は目をつぶってでも出来るようになった。タンクの空気はゼロまで吸える。このことは良いか悪いかわからないが、とにかく移充填で20キロならば使った。 そうなると、スキンダイビングでタンクの空気を吸っているわけだから、空気塞栓による肺破裂の可能性が限りなく高いわけだが、そんなものは水面を向いて息を吐き出しながら上がれば良いだけだからと、問題にしなかった。それに、浮上して肺の内圧が上がってくれば、気道が開放されている限り、空気は出て行く。
 そういうダイバーとして、自分は恐らく日本で有数、指折りだと自賛していた。 夏も終わり、秋も中ごろだった。人工魚礁の調査潜水が宇野教室に持ち込まれた。
 人工魚礁は1935年ごろから、本格的になったが、戦争で中断、、そして戦後になり、食料としての魚類生産拡大の切り札のひとつとして、コンクリートブロックが各地に沈設されはじめた。しかし、潜水調査はまだ本格的には始められていない。日本潜水科学協会の主要メンバーには東海区水産研究所もあり、各地の水産試験場もマスク式潜水などでの調査は行っていたが、まだアクアラングによる調査例は少なかった。アクアラングによる調査の先端を走っていた宇野教室に調査の話が持ち込まれた。 人工魚礁は、後に自分のライフワークの一つになるわけだから、当然、僕はやりたかった。しかし、僕と原田は夏に採集したサザエの日周成長線を数えるのに忙しい。365本数えれば、一年間の成長がわかるわけだが、三年物ならば、365本掛ける3、五年ならば、掛ける5を数える。とても人工魚礁はやれない。後に日本アクアラングの社長になる上島君が、宇野教室に来て、研究テーマが無くてぶらぶらしていた。しかし、上島さんは、ダイビングについては、潜水実習を終えただけのキャリアだった。目標とする人工魚礁は神奈川県浦賀の鴨井漁港の地先、水深33mだ。水深33mは、今でも昔でも深い。1958年では、33mに潜ったスクーバダイバーは数えるほどだったろう。定置網の調査を始めていた一級上の恵理さんは、僕たちとは科がちがう漁業科であり、水深80mに潜って窒素酔いの経験があると豪語していたが、そのくらいのものだ。
 もちろん、僕は30mを越える経験などない。
 しかし、宇野教室でこのテーマをやろうとすれば、僕が潜る他ない。僕は潜りたい。
 その頃、ウエットスーツというもの、今と同じ独立気泡ネオプレーンのものはない。クストー等が使ったもの、単なるスポンジのスーツはあった。水産大学でもあって、一年先輩の竹下さん、橋本さんはそれを使って小湊でサザエの調査をした。僕と原田が、ためしに使って見て、接着剤が老化していたらしく、バラバラにしてしまった。だから、宇野教室にはウエットスーツは無い。
 なお、今の独立気泡のウエットスーツができるのは1960年である。この時は1958年である。
 ウエットスーツの前にドライスーツはあった。いわゆる潜水服とはドライスーツのことだから、あっても当然だが、ヘルメット式、マスク式の潜水服は、歩く潜水服であり、泳ぐスクーバには使いにくい。
 スクーバ用のドライスーツは、これもクストーのグループで水服も作られていた。
 密閉されたドライスーツは、内圧外圧(水圧)の不均衡によって、スーツの内側が陰圧になり、身体が吸いだされる絞られるスクィーズが起こってしまう。スーツ、潜水服の中に空気を送り込んで、内圧外圧を均等にしなければならない。ヘルメット式、マスク式の場合には問題なくできているが、スクーバの場合には、なにか工夫しなければならない。クストーの工夫は、マスク式と同じように、マスクの中に空気を送り込んで、圧を均等にする。わかりやすく言うと、潜水服とマスクを密閉状態にして、その中にダイバーの呼気を吐き出して均等にする。コンスタントボリューム型と呼ばれるもので、スーツの頭の部分足の部分にも排気弁が付いていて、内側全体が外の水圧と吊りあうようになっている。(※現在のドライスーツは、レギュレーターの高圧弁を通してインフレ―ターで空気を送り込んでいるが、)
 つまりダイバーは、ドライスーツの中に密閉される。
 このドライスーツは、後に大学を卒業してから、就職した東亜潜水機で、クストーの複製(多分無断)を作っていたものであるが、こちらの(潜水科学強化)仲間内には、菅原久一さんが持っていた一着しかなかったので、それを借りに行った。
 僕がこれを使った経験は二回、一回は大学のプールで、ぺガスという水中スクーターのテストをした時、もう一回は木更津の実習場で海苔の養殖網の水中撮影をした時で、二回とも水深は1.5mほどだった。 このドライスーツを着て、生まれてはじめて30mの水深に潜る。今考えれば無謀に近い。しかし、そのころ(今でもだが)海はフロンティア、西部劇のイメージだ。
 潜ること自体が人間にとって無理なのだ。
 車は持っていない。教室でも車はない。充填された二本組のダブルタンクを背負って、電車に乗って行くことはできない。駅員さんにダメだと言われれば終わる。
 充填したタンクを木枠に荷造りして、鴨井の漁協まで送る。充填済みのタンクは爆発物だから、それなりの方法で、運送会社に依頼する。 潜って写真の撮影もしなければならない。手作りのハウジングは持っているが、これは、ようやく小湊の水深5mあたりまでが限界、30メートルでは押しつぶされてしまう。カメラは理化学研究所に借りに行った。20万とか40万とかするカメラだ。当時の大学卒の初任給は1万5千円、15万ではない一万五千円だから、20万は大変な代物だ。
、宇野教室にとって一大プロジェクトなのだ。潜るのは僕でも、論文を書くのは上島さんだ。宇野先生、上島さん、僕の三人で行く。鴨井港から漁船を出してもらう。人工魚礁の位置で、魚探で探る。記録紙の上を上下にせわしなく針が動いて、海底の影を作り出して行く。1,5m角のコンクリートブロックが二段、最高部で三段に積まれている。この時、初めて魚探が描き出す人工魚礁の凸型のパターンを見た。
 錨が人工魚礁の中に入ってしまうと引き上げることができなくなってしまう。少し外して、人工魚礁の脇に落ちるようにする。アンカーのロープは水深の2から3倍だから、80mから100mぐらいだ。このロープを手繰って潜って行く。 ドライスーツに入って、マスクのガラスを一番後でクリップのような金具で締め付けると完全に密閉される。閉所恐怖症ならば耐えられない。ドライスーツの中に突き出しているマウスピースを咥える。吐く息を鼻から出してやれば、服の外の水圧と服の中の圧が均衡する。
 恐ろしくないと言えば嘘になる。全て初めての体験なのだ。30mは浅くない。ドライスーツに閉じ込められる。動きは不自由であり、これも慣れてはいない。ウエイトも重い。斜めになっているアンカーロープを手繰って行く。その時に、このドライスーツは下の視界が悪い。前方だけ見える。眼が慣れないので暗黒の世界への潜降である。
 ようやくアンカーにたどり着いた。周囲を見回すが魚礁はない。探さなくてはならない。
 その頃のアクアラング、スクーバはもちろんBCは無い。BCが普及するのは1980年代だ。残圧計も無い。ダブルホースのレギュレーターには残圧計は付けられない。そして時計も無い。時計を水密ケースに入れて持って行くのだが、それも無い。空気が渋く、つまり呼吸抵抗が大きくなったら浮上する。それと、大体の時間経過で浮上してくる。20キロの充填圧で潜水を何回も繰り返しているから、この感覚は磨かれている。はずだ。
 捜索用のロープを持っている。一端をアンカーに結び、一端を手に持って、進んでいく。ロープの長さは20mだ。だんだん目が暗いのになれて来て、かなり遠くまで見える。透視度は10mほどだったと思う。足元から1mほどもある大きなヒラメが飛び跳ねた。このことは60年経った今でも鮮烈に覚えている。
 20m進んでも魚礁は無い。透視度は10mあるのだから、20m巾で20m進んでも魚礁は無い。サークルサーチと言って、円を描くように捜索する。ということは知識として知っている。練習はしていない。左側に円を描くように泳いでみた。しかし、そろそろ戻らなくてはいけない時間だ。ロープを手繰って戻る。
 アンカーまで戻って、アンカーロープをたどって浮上を始める。少し行くと、眼下に魚礁が固まって見える。一番高いところで三段のようだ。魚もメバル、クロソイののようなものが見える。潜って行くときに、下方視界が悪いために、腹の下の部分が見えなかったのだ。空気がそろそろ渋くなってきた。戻らなければいけない。もどるべきである。
 しかし、ようやく送ったタンク、借りてきた高価なカメラ、一枚でも撮らなければすべてが空しくなってしまう。降下して魚礁に降り立ってカメラで撮影した。その時魚礁の上に膝を突いたらしくちくっと痛かった。ドライスーツが破れて水が入って来た。すぐに浮上しようと足を蹴った。薄い袋のようなドライスーツが水が入った袋のようになり、動きが鈍い。焦ってなんとかアンカーロープをつかんだ。手繰り始めた時、空気が尽きた。
 潜水病だとか空気塞栓、肺の破裂など頭に浮かばない。とにかく空気を求めてロープをたどる。ロープは長い。肺が空気を求めて痙攣した。息を吸い込もうとする。密閉されているから、吸い込むことはできない。あとから考えればこのことが幸いして水を吸い込まなかった。肺に水を吸い込んでいれば、直ちに入院だった。死んだかもしれない。とにかく船にたどり着いたがガラスを外さなければ息ができない。ガラスを外した上島さんは、顔はチアノーゼで土気色だったという。先生はパニック状態で怒鳴っていたが、何を言われたか覚えていない。1954年に二人死んでいて、こんどは船の上で一人殺す。どうなるかわからないが大変なことだ。 その後、人工魚礁の調査はもう少し浅い横浜沖で実施されたが、もはや宇野先生は僕を潜らせようとはしなかった。上島さんが潜り、僕は上回りになった。
 ※後に上島さんは日本アクアラングの社長になる。 考察すると
 ①無理をしてでもやり遂げようとする性格、責任感が若者を殺す。
 ②海士なみのスキンダイビング能力が命を救った。
 ③アンカーロープがあったから、たどって船に戻ることができた。ロープが無かったら浮上できなかった。
 ④幸運の第一回目だった。
 
 技術的にはサークルサーチのやり方とか練習が必要うだった。しかし、この部分は当時としてどうすることもできなかった。 もし、僕が死んだ場合母親はどうしただろうか。先生を学校を訴えただろうか。訴えなかったと思う。
 フロンティアに命を賭けたのだ。死んだ自分としても後悔はしなかっただろう。
 そのころ、本当にダイビングは命がけだったのだ。
 
 その後10年ほどして、1967年、日本潜水会という指導組織を作って、教える立場になり、このアクシデントのことを話して、おなじようなエア切れを経験したことがある人は?と聞いた。およそ半数が手を挙げた。中には小便を垂れ流したとか、水を吸い込んで、救急車で運ばれたとか様々だった。
 この文でもエア切れの例をこの後いくつか述べることになる。 今は残圧計も時計もダイブコンピューターもあって、エア切れの可能性はひくくなったが、それでもなお、エア切れは、ダイバーにとって宿命的、致命的なできごとであり、70歳を過ぎてから、リブリーザーを使っていて6リットルのベイルアウトタンクに救われたことがある。また、同じようにリブリーザーを使っていて行方不明になったダイバーがベイルアウトタンクを持っていなかったことが、原因の一つで、彼が持っていなかったことが信じられないと言われたりした。 今、2017年、これを読み返してみて、僕の行動は必然だったのではないかと思い始めている。その時代のアクアラングは、この後に来る海洋開発時代の先駆だった。見ることなすこと、すべてが最初の経験だった。振り返って見るのは、その事実が自分の体験としてあって出来ること。スプートニックに乗ってガガーリンが地球を眺めるのは、5年後だが、海に潜ることは一つ一つが探検であり、未知だった。ゲージがあれば、思いとどまったと思うけれど、自分の感覚だけが頼りだったから、やはり行くと思う。そして助かったのは幸運だった。
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 潜水科学協会の機関誌 ドルフィンに宇野先生が寄稿したが、僕の死にかけた部分は伏せられているがこれが僕が命がけで撮った、写真。クロソイを撮ったつもりだが、頭がかげになってしまっている。それでも写ったのはこの一枚だけで。もしも死んでいれば、これがこの世で僕が見た、シャッターを押した最後の光景になった。
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