1957年の装備 竹下先輩 ウエットスーツは今のものとはちがう。
東京水産大学小湊実習場にて、ここでは、事故の歴史、と言うか、僕の事故とのつきあいの流れを書く。「ダイビングの歴史」の記事にするつりだったけれど、どうなるか。ブログにのせるのも、長すぎてためらわれる。
はじめに
1953年に日本にスクーバダイビングが導入されてからの、事故、の歴史を振り返って見よう。自分の目(視点)から見た、あるいは自分が体験した事故についてである。ここまでも再三述べてきたように、物事は、誰がどんな思いで、どこから見たのかによって大きく変わる。したがって、別の視点、別の解釈も当然ある。それはまた、それで、見て、読んで自分なりの結論が見いだせれば、良い。
僕たちの目指しているのは、ダイビングの運用、やり方を論じて行く、ダイビング活動運用学とでも言おうか、日本水中科学協会のシンポジウムは、ダイビング活動運用学会を目指している。人間が生存し続けられない水中という環境に入っていって、目的を達して無事に戻ってくる。それには、どうしたら良いのかというやり方の研究である。
潜水医学とか、生理学の研究は、また別にある。それを基にしてどうしたら良いのか、どうすれば良いのかである。それをまとめて運用学と呼ぶ。
運用は理論の実践である。実践の結果、実践の過程で起きた失敗、あるいは悲劇的な結果を、経験という。人はほとんどのことを経験から学ぶ。失敗は二度と繰り返さないのが理想である。すべての失敗が繰り返されないようになれば、成功だけが残る。そんなことは理想であり、実際には在り得ないが、失敗から学ぶことによって、失敗の被害を最初言う限度にとどめることは出来る。潜水、ダイビングとは、特に経験から学ぶことが多い活動である。経験とは個人が持っているものであり、そのままでは、他の人には役立たない。
それを文章に表現することによって、他と共有することができる知識になる。
こんなことは誰でも知っていることであり、取り立てて、述べることでもないが、スクーバダイビングで起こった失敗、事故、あるいは事故にならない一歩手前の出来事を、なるべく時系列にそって述べて、知識として共有したい。
事故は、個人的なことであることが、多く、プライバシーに言及することにもなる。ダイビングの事故は、賠償にも関わるので、慎重に扱わなければならない。一番いいのは具体例はのべないことである。しかし、それでは、具体例、すなわち経験を知識に変換することができない。日本という国では、事故について詳細を語ることを嫌う傾向が強い。火中の栗を拾うことになるのだが、ここでは、出来うる限り、すでに本、新聞、ネットなどで公表されていること、を出典を明らかにして、引用する、あるいは、自分自身の体験をのべることにしたい。
※ブログに書くという事は、印刷物にする前に、問題点の指摘を受ければ、修正可能である利点がある。事実関係の誤りについては、指摘を受けることはありがたい。自分の方が正しい、と直さないこともあるが。 ダイビングをはじめて、60年になる。潜り続けて来た。今も、出来るだけもぐっている。その間、大げさかもしれないが、常に生と死を考え続けて来た。ダイビングとはそういうものだから、ダイバーのだれでも同じだろう。そのことを考え続けているから、生の側に居られるのだろう。自分については、そう思っている。何にも考えない幸せな人も少なくないが。日本初のスクーバダイビング事故
何事も、世界初、日本初というのは胸を張れるものなのだが、事故については、自慢できない。自慢できないが必ず始まりというものがある。自分にとっての原点にもなっている。
日本にスクーバが正式に紹介されたのは、1953年(詳しくは年表部分のコラム参照)東京水産大学安房小湊実習場であった。その時に教えを受けた宇野寛、神田憲二が、日本での正式なスクーバダイビング技能講習を開始する。
それまで、進駐米軍関係者から手ほどきを受けた、という人が何人かいるが、それは講習と呼べるものではなかった。
その日本初の講習で、死亡事故が起こる。1954年の夏、小湊実習場で、学生に対する講習が行われた。日本初である。僕(須賀)が東京水産大学に入学したのは、1955年であるから、この事故には立ち会っていない。不遜なことを言えば、立ち会いたかった。
事故のあった講習での指導教官は恩師である宇野寛(後に名誉教授)であるが、実習の際にこの事故について言及されることは無かった。本当に不遜な事をいえば、きちんとした報告書として、残してほしかった。そうすれば、後で起こるいくつかの事故が、防げたかもしれない。
文章として残すことが、経験の共有になり、それを知識という。なお、知識によって回避したことは、頭の中の出来事だから、これも書き残さなければだれも知ることはできない。 報告書が無いので、後に断片的に先生に聞いたこと、また実習場の古川技官に質問して断片的に聞いたことなどを総合した類推である。正確ではないが、これはこれで、調査結果という、一つの報告ではある。
まず、事故はダイビング講習が終了した後に起こった。宇野教官は現場にはおられなかった。講習中であれば、不在はありえない。死亡したのは旭さん〇〇さんの二名で、実習が行われた実習場前の入り江で、エントリー場の小さな桟橋から沖に向かった。誰がどこから見ていたか不明だが、見ていると一人が浮上して、助けを求めるように手を振った。その後沈んでしまい、見ていた者が異常を感じで小舟を出し潜ってみたところ、二人を発見し引き上げたが蘇生しなかった。
なお、この小舟は何時も桟橋にもやってある艪漕ぎの木船で4人程度が乗れる。遊びで艪漕ぎの練習をよくしたもので、大学の実習場でこのような小舟に普通に名づけられる「サジッタ(プランクトンの名前で日本名は矢虫)」であり、実習中はダイバーの気泡を追って付いている。艪漕ぎの船は視点が高いので、気泡を追って漕ぐのに適している。
二人が何の目的で、何をしていたのかわからない。一つは、実習に使用したロープ片付け撤収、何か探し物をしていたのかも知れない。あるいは、何か理由をつけて、遊び的な体験ダイビングをしていた。この二人は泳力抜群で、実習の成績はトップであった。ロープの撤収であれば、小舟が追従して引き上げなどを行うだろうから、片づけとは考えにくい。が、考えにくいことをやっていたかもしれない。
小湊実習場 今は千葉大学の実験場になっている。この前行って潜って来た。桟橋まわりは昔と変わらない。
上は昔、下は今。この沖100mほどのところで事故は起こった「
とにかく、二人はバディを組んでおり、そのうちの一人が浮上して救助を求めている。当時、事故原因は、息を止めての急浮上による空気塞栓だとも言われたが、実習の初めから、息を止めての浮上は固く戒められており、二人が連続して肺破裂をするとは考えられない。なお、解剖所見などは公表されていない。 この事故は学校側の刑事責任が問われる裁判になっていて、現場の責任者である、宇野講師(当時)が矢面にたっていた。この講習の翌年は講習は行われず、翌々年の1956年に講習が再開された。講習は3年次に行われるものであり、当時3年生であった、竹下、橋本両先輩らが受講している。聞けば、ロープを体に結び付けて、鵜飼の鵜のような状態で講習が行われたと言う。その翌年の1957年に僕が受講する年次になるわけだが、鵜飼の鵜にはなりたくなかった。幸い?にして僕の年次からはロープは付けられなかった。スクーバの最大の特色は、ロープなどで拘束されていないことであるから、拘束を実習で続けるのは無理である。このことは、後になって自分にとって、大きな意味がある。この事故の歴史の芯でもある。
刑事裁判が続行中であるにもかかわらず、実習が再開された恩恵で僕は実習を受けることができたが、当事者であった宇野寛先生の心労は大きなものであったとだろう。しかし、その心労を私たちに語られたことは無かった。これも、語られた方が良かったと思う。 責任追求の具体点は、小舟のサジッタが頭上の水面に居なかったことであったと聞く。そして、僕の四年次に先生に聞いた範囲では、「疑わしきは罰せず」だったという事であった。舟が頭上に無かったことの責任を問われて有罪であったとするならば、その後、すべてのスクーバダイビングで小舟を頭上に置かなければ、刑事裁判で有罪になってしまう。即ち、スクーバダイビングはできなくなってしまう。 この事故は、その後、数えきれないほど起こる原因不明、予測不可能の第一号であった。事故の原因は当事者、本人でなければ正解はわからない。そして、事故は強者に起こることが多い。理由は簡単、強者は自分でも、他からもケアを受けていないことが多い。しかしながら、強者がケアをしないことも自然であり、自分にしても、強かった年齢、体力の時は、自分は死なないと思っていた。
すなわち、インストラクターもダイブマスターもクラブの主将(キャプテン)作業でのチーフダイバーも不死無敵ではない。 この事故で遺族からの民事訴訟が起こされていたかどうか知らない。起こされていたならば、翌々年という早い時期での潜水実習の再開は無かったと思う。
自分についていうと、バディが居たからと言って事故を防げない場合もある。頼りになるのは、頭上に置くボート、小舟である。出来うる限り、小舟、ゴムボートを置くようにしようと考えるようになった。以後、何回か、頭上に置いた小舟で事故が大事に至らなかった経験がある。陸上からエントリーできるということは、スクーバの大きな有利点であるのだが、それがために起こった事故が多い。陸上からのエントリーによる事故の大半は、ボートが頭上にあれば助かっただろう。日本初の事故と同じことだ。
東京水産大学小湊実習場にて、ここでは、事故の歴史、と言うか、僕の事故とのつきあいの流れを書く。「ダイビングの歴史」の記事にするつりだったけれど、どうなるか。ブログにのせるのも、長すぎてためらわれる。
1953年に日本にスクーバダイビングが導入されてからの、事故、の歴史を振り返って見よう。自分の目(視点)から見た、あるいは自分が体験した事故についてである。ここまでも再三述べてきたように、物事は、誰がどんな思いで、どこから見たのかによって大きく変わる。したがって、別の視点、別の解釈も当然ある。それはまた、それで、見て、読んで自分なりの結論が見いだせれば、良い。
僕たちの目指しているのは、ダイビングの運用、やり方を論じて行く、ダイビング活動運用学とでも言おうか、日本水中科学協会のシンポジウムは、ダイビング活動運用学会を目指している。人間が生存し続けられない水中という環境に入っていって、目的を達して無事に戻ってくる。それには、どうしたら良いのかというやり方の研究である。
潜水医学とか、生理学の研究は、また別にある。それを基にしてどうしたら良いのか、どうすれば良いのかである。それをまとめて運用学と呼ぶ。
運用は理論の実践である。実践の結果、実践の過程で起きた失敗、あるいは悲劇的な結果を、経験という。人はほとんどのことを経験から学ぶ。失敗は二度と繰り返さないのが理想である。すべての失敗が繰り返されないようになれば、成功だけが残る。そんなことは理想であり、実際には在り得ないが、失敗から学ぶことによって、失敗の被害を最初言う限度にとどめることは出来る。潜水、ダイビングとは、特に経験から学ぶことが多い活動である。経験とは個人が持っているものであり、そのままでは、他の人には役立たない。
それを文章に表現することによって、他と共有することができる知識になる。
こんなことは誰でも知っていることであり、取り立てて、述べることでもないが、スクーバダイビングで起こった失敗、事故、あるいは事故にならない一歩手前の出来事を、なるべく時系列にそって述べて、知識として共有したい。
事故は、個人的なことであることが、多く、プライバシーに言及することにもなる。ダイビングの事故は、賠償にも関わるので、慎重に扱わなければならない。一番いいのは具体例はのべないことである。しかし、それでは、具体例、すなわち経験を知識に変換することができない。日本という国では、事故について詳細を語ることを嫌う傾向が強い。火中の栗を拾うことになるのだが、ここでは、出来うる限り、すでに本、新聞、ネットなどで公表されていること、を出典を明らかにして、引用する、あるいは、自分自身の体験をのべることにしたい。
※ブログに書くという事は、印刷物にする前に、問題点の指摘を受ければ、修正可能である利点がある。事実関係の誤りについては、指摘を受けることはありがたい。自分の方が正しい、と直さないこともあるが。 ダイビングをはじめて、60年になる。潜り続けて来た。今も、出来るだけもぐっている。その間、大げさかもしれないが、常に生と死を考え続けて来た。ダイビングとはそういうものだから、ダイバーのだれでも同じだろう。そのことを考え続けているから、生の側に居られるのだろう。自分については、そう思っている。何にも考えない幸せな人も少なくないが。日本初のスクーバダイビング事故
何事も、世界初、日本初というのは胸を張れるものなのだが、事故については、自慢できない。自慢できないが必ず始まりというものがある。自分にとっての原点にもなっている。
日本にスクーバが正式に紹介されたのは、1953年(詳しくは年表部分のコラム参照)東京水産大学安房小湊実習場であった。その時に教えを受けた宇野寛、神田憲二が、日本での正式なスクーバダイビング技能講習を開始する。
それまで、進駐米軍関係者から手ほどきを受けた、という人が何人かいるが、それは講習と呼べるものではなかった。
その日本初の講習で、死亡事故が起こる。1954年の夏、小湊実習場で、学生に対する講習が行われた。日本初である。僕(須賀)が東京水産大学に入学したのは、1955年であるから、この事故には立ち会っていない。不遜なことを言えば、立ち会いたかった。
事故のあった講習での指導教官は恩師である宇野寛(後に名誉教授)であるが、実習の際にこの事故について言及されることは無かった。本当に不遜な事をいえば、きちんとした報告書として、残してほしかった。そうすれば、後で起こるいくつかの事故が、防げたかもしれない。
文章として残すことが、経験の共有になり、それを知識という。なお、知識によって回避したことは、頭の中の出来事だから、これも書き残さなければだれも知ることはできない。 報告書が無いので、後に断片的に先生に聞いたこと、また実習場の古川技官に質問して断片的に聞いたことなどを総合した類推である。正確ではないが、これはこれで、調査結果という、一つの報告ではある。
まず、事故はダイビング講習が終了した後に起こった。宇野教官は現場にはおられなかった。講習中であれば、不在はありえない。死亡したのは旭さん〇〇さんの二名で、実習が行われた実習場前の入り江で、エントリー場の小さな桟橋から沖に向かった。誰がどこから見ていたか不明だが、見ていると一人が浮上して、助けを求めるように手を振った。その後沈んでしまい、見ていた者が異常を感じで小舟を出し潜ってみたところ、二人を発見し引き上げたが蘇生しなかった。
なお、この小舟は何時も桟橋にもやってある艪漕ぎの木船で4人程度が乗れる。遊びで艪漕ぎの練習をよくしたもので、大学の実習場でこのような小舟に普通に名づけられる「サジッタ(プランクトンの名前で日本名は矢虫)」であり、実習中はダイバーの気泡を追って付いている。艪漕ぎの船は視点が高いので、気泡を追って漕ぐのに適している。
二人が何の目的で、何をしていたのかわからない。一つは、実習に使用したロープ片付け撤収、何か探し物をしていたのかも知れない。あるいは、何か理由をつけて、遊び的な体験ダイビングをしていた。この二人は泳力抜群で、実習の成績はトップであった。ロープの撤収であれば、小舟が追従して引き上げなどを行うだろうから、片づけとは考えにくい。が、考えにくいことをやっていたかもしれない。
小湊実習場 今は千葉大学の実験場になっている。この前行って潜って来た。桟橋まわりは昔と変わらない。
刑事裁判が続行中であるにもかかわらず、実習が再開された恩恵で僕は実習を受けることができたが、当事者であった宇野寛先生の心労は大きなものであったとだろう。しかし、その心労を私たちに語られたことは無かった。これも、語られた方が良かったと思う。 責任追求の具体点は、小舟のサジッタが頭上の水面に居なかったことであったと聞く。そして、僕の四年次に先生に聞いた範囲では、「疑わしきは罰せず」だったという事であった。舟が頭上に無かったことの責任を問われて有罪であったとするならば、その後、すべてのスクーバダイビングで小舟を頭上に置かなければ、刑事裁判で有罪になってしまう。即ち、スクーバダイビングはできなくなってしまう。 この事故は、その後、数えきれないほど起こる原因不明、予測不可能の第一号であった。事故の原因は当事者、本人でなければ正解はわからない。そして、事故は強者に起こることが多い。理由は簡単、強者は自分でも、他からもケアを受けていないことが多い。しかしながら、強者がケアをしないことも自然であり、自分にしても、強かった年齢、体力の時は、自分は死なないと思っていた。
すなわち、インストラクターもダイブマスターもクラブの主将(キャプテン)作業でのチーフダイバーも不死無敵ではない。 この事故で遺族からの民事訴訟が起こされていたかどうか知らない。起こされていたならば、翌々年という早い時期での潜水実習の再開は無かったと思う。
自分についていうと、バディが居たからと言って事故を防げない場合もある。頼りになるのは、頭上に置くボート、小舟である。出来うる限り、小舟、ゴムボートを置くようにしようと考えるようになった。以後、何回か、頭上に置いた小舟で事故が大事に至らなかった経験がある。陸上からエントリーできるということは、スクーバの大きな有利点であるのだが、それがために起こった事故が多い。陸上からのエントリーによる事故の大半は、ボートが頭上にあれば助かっただろう。日本初の事故と同じことだ。