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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1120 日本ハウジング史 2

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1120 日本ハウジング史 2ハウジングから見た日本テレビ映像史 かな良いタイトルが見つからない。
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 1980年 ポンペイ 日本テレビ 山中プロデューサーの作品、ナンマタール(ナンマドール)遺跡に潜った。ムウ大陸の遺跡?ナンマタールに潜ると死んだりする。タブー、呪いがあるのだ。その呪いで僕はカメラマンに復活してしまった。 詳しくはここでは書かない。月刊ダイバーのグラフィティに書いている。 このロケで、DR70 ベルハウエルが水没した。水没させたのは、鶴町君、そのベルハウエル、今回陳列する。すでにフィルムカメラはサブになっていて、水没しても実質上製作に支障はなかった。この水没で、以後、フィルムカメラは、ハイビジョンのためのスーパー16になる時代まで手にすることは無くなった。  
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 日本テレビの撮影で使っているビデオカメラ、あまりにも大きく重すぎる。水中では重くないが。とりまわしにたいへんだった。 自前のカメラを作る。ビクターのKY2000,KY1900 
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 このKYシリーズは、撮像管(真空管)ではなくて撮像板を使っている。板の方が廉価、当然、色も劣るが水中ならば、これで我慢できると考えた。 ビデオカメラは、民生用、業務用、放送規格と分化していて、ビクターKYは、放送規格に近い業務用に位置づけられていた。  ENG  エレクトロニック・ニュース・ギャザリング街に進出して撮影する、ニュース取材用のテレビカメラの意味である。 今でこそカメラと言えば、すべて電子的記録で、小さなカードに記録、録画されるが、初期のテレビカメラは、幅1インチのテープに録画される。大型のテープレコーダーで、放送スタジオに、どんと鎮座している。そのレコーダーとカメラは太いケーブルで繋がれていて、大きなカメラは車付きの三脚に乗せられていてスタジオの床を走り回り、ケーブルも床をのたうち回る。 街中、野外はフィルムで撮影する。だからニュースはすべてフィルムである。フイルムは現像して、編集しなければ放送できない。今、編集と言えばすべてPCの中での出来事である。フイルムの時代は現像してからの「切った貼った」である。一度、NHKのニューススタジオに見学に行ったことがある。編集済みのフィルムを放送するのが原則だが、ニュースは時間との競争でもある。カメラマンが撮影してきたフィルムを、秒を争って、現像して、切って繋ぐ、アナウンサーがしゃべっているスタジオのかた隅で、編集マンがフィルムを切って繋いでいる。秒を争って秒を繋ぐ、神業である。もしもカメラマンが、余計なものを撮ってきたとすれば繋げない。間に合わないのだ。ベルハウエルのカメラが3分で30秒のカットが六つ、それで良いのだ。 ニュースのカメラマンも、頭の中で編集しながら撮影する独特の感覚が必要であって、それは編集マンとの闘いとも言えた。編集マンに気に入られるカメラマンが良いカメラマンだ。 一方、スタジオのカメラマン、あるいは野球中継のカメラマンはまた別の感覚である。  ENGは、スタジオのビデオカメラが屋外にでて、走り廻ることだ。そんなに大きいものを担いで走ることはできない。テープレコーダーもできるだけ小さく、カメラもできるだけ小さくしようとするが、それでも大きい。ENGは、ビデオ・テープ・レコーダー(VTR)を肩に掛けて走るビデオエンジニア、いわゆるVEと、カメラを担いで走るカメラマン、二人が一組で、その間はケーブルで繋いでいる、二人三脚となる。   水中撮影の場合は、ビデオ・テープ・レコーダーは船の上に置き、カメラは水中で、これもケーブルで繋がっている。ケーブルは100mぐらいが限界である。やってみればわかるがこのケーブルと言うものが水中で如何にも始末に負えないものであるか、ケーブルの芯線は原則として銅線であるだから重い。沈む。やがては中性浮力のケーブルを作るが、当初は浮きを着けて中性浮力にする。だからかさばる。水中ではこのケーブルを捌くダイバーが必要である。ヘルメットダイバーはホース捌きが技術だが、水中カメラマンはケーブル捌きが技術である。 これは、面倒ではあるが、ダイバーにとって、一つの安全管理になっている。つまりケーブルでボートとつながり、ケーブルを捌くバディがいて、しかも役割分担が明確である。 このシステムのおかげで、どれほど救われたかわからない。僕が生きているのはこのケーブルシステムのおかげ、といっても良い。  カメラとビデオが次第に小さくなり、一体化するのは90年代である。
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KY2000 龍泉洞
1981年 竜泉洞 NHK特集「地底の湖・謎の大洞窟」 NHK仙台制作、NHKなのに、僕がカメラマンしている。フィルムとエレクトロニクス録画の端境期だった。 この竜泉洞がヒットで、未曾有の視聴率をとってしまった。当然、NHK潜水班としてはおもしろくなかったかとも思うが、「潜水撮影の半世紀」には須賀次郎氏が潜る と記載されている。撮影とは書いていない。
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NHKでも、その1981年 水中ビデオシステムが開発され、これは島野製作所が作っている。サチコン3管型のカメラだ。3管とは、色の3現色RGBを三つの撮像管で撮るもので、放送規格のカメラである。一般アマチュアが使う民生は単管で、業務用はその中間型である。 なお、撮像管は、ビジコン、プランビコン、サチコンがあり、プランビコンが最高位であるが、サチコンはNHK放送技術研究所と日立が開発したものであり、プランビコンよりも安価であり、性能の差はわずかである。撮像管は真空管だから、衝撃には弱い。やがてCCD 固体撮像素子に代わって行く。
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同81年 ハンディな3管型ソニーBVP300のハウジングシステムを後藤アクアティックが作っている。これまで、フィルムのカメラ時代は島野製作所が、ハウジングを作っていたが、この1981年のBVP300以来、後藤アクアティックに移り、以後、島野製作所が作ることは無くなった。島野製作所の島野さんはスガ・マリン・メカニックの取締役であり、後藤アクアの後藤道夫は、日本潜水会の盟友、無二の親友である。葛藤がないこともなかったが、島野製作所とNHKは、河野を通して、つまり須賀のルートで仕事が始まったのだが、以後、製作はスガ・マリン・メカニックではなくて、島野製作所になっている。 争うようなことは全くなかったが、僕は、ダイブウエイズでハウジングを作るようになり、80年代初期は、後藤アクア、島野、ダイブウエイズが特注タイプのハウジングメーカとなり、NHKは、後藤アクアが一手に引き受けるようになった。 1982年 孀婦岩「東京無人島群」これもNHKの番組で僕が撮影し、夏休み特集として良い視聴率だったが、これを最後に僕がNHKの撮影をやることは無くなった。 1984年 NHKは、VTR一体型のソニーBVW-3のハウジングを作っている。前述したようにENGは、VTRとカメラが別であり、二人がチームで動く。一体型になれば、一人で撮影できる。当然、機材として目指すのは一体型であるが、一体型はそれなりに大きい。一人で担いでバッテリーその他の付属品を持って動くのは容易ではない。助手としてのVEは、なかなか便利な助手である。それに、水中はケーブルで繋がっていた方が安全という考え方もある。一方、VTRを別のハウジングに入れる分離型も考えられ、NHKは、1985年に分離型のハウジングを作っている。スガ・マリン・メカニックでもソニーBVW50の分離型を作っている。 続く

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