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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1119 日本ハウジング史 1.

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ここから先シンポジウムの報告書の原稿を書かなくてはならない。ので、
 その下書きをブログにしていく。
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 2016年、昨年のシンポジュウムで、最新ダイビング用語事典Ⅱの編集を決め、それは、ダイビングの歴史中心にしようということで、制作の準備を始め、元JAMSTECの山田稔さんに協力を依頼して、年表の制作、監修を行っていただいた。
 そして、年表については、2016年のシンポジュウムの報告書としてまとめ、おいでになった聴講者に配布した。
 そして、年表に沿った1000字程度のコラムを必要ポイントに並べて、ダイビングの歴史が理解できるとダイビングの安全確保のテキストにもなるというねらいで作業を進めることとして、タイトルも「ダイビングの歴史」とし、山田さんにはこれまでに書きためた原稿を多数提供していただいた。
 しかし、自分の作業が進まないまま時を過ごしてきた。2017年のシンポジュウム、すなわち今、今年は映像機器の歴史を取り上げ、展示をするとともに、映像機器の歴史を書く。2016年が年表とマスク式潜水機の記事がある。すべてにわたってコラムを書くことなどできない。予定しているコラムを順不同で並べると、すでにあるものから、①マスク式、②今回書く映像 ③人工魚礁調査を中心とした、水産、リサーチについて、④ヘルメット式、房総のアワビ採り潜水の歴史、⑤山田さんにはシートピアのこと海底居住について、⑥レジャーダイビングについては、事故の歴史を⑦学生のダイビングとしては、今年50周年を迎えた関東学生潜水連盟について、⑧サンゴの保護について ⑨高気圧障害防止規則(減圧症 減圧表についても含めて)⑩海保について特殊救難隊の歴史、⑪スチルについては、益田一さんとその一門について、そ
の他水中カメラマンの系譜 ⑫環境保全については、海中公園の歴史⑬テクニカルダイビングとリブリーザについて⑬日本独特とも言う海洋高校の潜水(種市高校を含めて)⑭宝探しについてナヒモフについて、⑮書誌 ダイビング雑誌とダイビング関係出版物について あとは、走っている内に浮かび上がってくるだろう。
 作業について滞った理由の一つは、なるべく多くのひとから原稿を集めようとしたことにある。ここからは、自分に資料があり、自分が書き進めるもの、親しく依頼できるものを中心にして、自分でやれるところまでやる。歴史とはそういうものだろう。 本題にもどって、映像(映画、テレビなど動画について)
 ここでは、自分の視点から自分中心に書く。出版には、このブログをカットしていく。
 中心になるテキスト 参考としては、「NHK 潜水撮影の半世紀」 編集は小口順吾 親しい友人で、寄贈していただいたものだ。
 まず、NHKの潜水撮影と自分との関わりを述べよう。この年表に出てくるNHK水中撮影班のルーツである竹内、畑中、河野 (それぞれ親友で日本潜水会の会員であるので敬称略)ら、そして、その次世代のカメラマン諸氏は、親友とまでは行かないが親しい友人である。その次の世代になると、ただの友達だ。その友達世代が、先頃亡くなってしまった木原さんで、彼がこのごろでの、NHK水中撮影班の長老だ。思えば長くいきてしまった。なお、上に名をあげた河野祐一は、すごい人で、未だにカメラを持って潜り仕事をしている。息子の河野君は、高校生の時に日本潜水会の忘年会に来たが、彼が現在のNHK水中撮影班の現役のトップ、重鎮だ。
 そんな親しい間柄だが、自分的にはNHKをライバル視して併走した。もちろん勝てるわけもない。日本放送協会だ。それでも、そこそこがんばって、鼻の差ぐらいまで追い込んだこともあった、と思っている。
総合的には比較にならないから、あくまでも個人としての勝負だけど。 ここでは、僕とNHKの併走、勝負の視点で見ていこう。
 ところで、この小口君(彼も上記御三家に次ぐカメラマンだが)が編集した「NHK 潜水撮影の半世紀」は、すごい本(資料)だ。僕がこれからつくろうとしている「ダイビングの歴史」は、とても、これには及ばないかもしれない。
 まずNHk潜水撮影班(以後NHKと略称)が行った全撮影が年を追って番組名撮影の概略、撮影したカメラマン、スタッフとともに記されている。
 NHKは、世のたいていの出来事には対応して取材、放送しているので、この年表を見れば、日本の水中関連の出来事が何時だったのか時系列でわかる。しかもそれは、別ページにそのときの写真がまとめられている。この写真を見るだけで、この年表が始まった1953年から半世紀50年の間のダイビングと撮影の様相の変化が見られる。 次はNHK潜水撮影班が行った全研修の講習内容、講師、参加講習生の名簿が示されている。本来組織が行う講習会はそうあるべきだが、日本水中科学協会のプライマリーコースはここまで完璧ではない。
 ただし、僕も講師として参加したことがあったのだが、探したが僕の名前は見あたらなかった。たぶん、僕は、ライバルと認められてカットされたのだろう。
 次に使われた全撮影機材が写真で示されている。これも僕がスガ・マリン・メカニックとして納入したものがあるのだが、製作した島野製作所の名前でのせられている。つまり僕の関わった名前はすべてカットされている。今でも、ほんとうに親しい間柄なのだが、それとこれは別ということと割り切れている。そうなっている理由は後述する。 とにかくこのテキストは、このスタイルとしては完璧に近い。
 そしてNHKの水中撮影が、水中撮影のみならず、日本のスクーバダイビングに貢献したことは大きく評価できる。撮影の歴史であるとともにダイビングの歴史でもある。 この「NHK 潜水撮影の半世紀」の中でも、畑中さん河野さん、竹内さんは別格の扱いで、それぞれ紹介に1Pをとっている。三人は、僕にとっても特別な友人なので、紹介しよう。
 畑中伸一氏は、NHK入局が1955年であり、NHK歴は最古参である。早稲田大学のアメフト部の出身である。学部名は知らない。
 1957年に水産大学館山で潜水の実習を受け、スプリング巻きのベルハウエル70DR スプリング巻きの16mmカメラのブリンプをつくって、その1957年にNHKで最初の水中撮影をする。
 鎌倉で奥さんが喫茶店を経営していて、僕も2回ほどおじゃましたことがある。最初は硬派体育会系で、後輩のカメラマンたちはびくびくしていたが、後にベトナム戦場にカメラマンとして行き、帰ってきたら穏やかな人になっていた。1967年、日本潜水会指導員
 河野祐一は、1958年にNHKに入る。日大芸術学部卒 1962年に潜水士の資格を個人でとる。湘南ボーイで、後藤道夫のところでダイビングをしていた。これが後藤、須賀 河野ラインの始まりである。1966年2月、全日空の727が、羽田沖に落ちる。その時、河野、竹内が水中撮影に成功して、NHK水中撮影班の大スクープとなった。他の民放には水中撮影班はなかったのだ。
 僕は舘石昭と一緒に航空局の依頼で事故現場写真(スチル)を撮った。舘石さんはこのとき撮った写真を雑誌に売り込んで、名を挙げた。僕はウエットスーツが破れ、水温6度の海で体が凍傷状態になった。
 次の年 1967年、後藤道夫、須賀、浅見国治で、日本初の潜水指導団体日本潜水会を結成した。河野、竹内は中心メンバーだ。一週間の合宿生活の中で、午前中は今後の日本のダイビングをどうする?ディスカッションを行い。河野がスピアフィッシングをやめようと緊急動議を出した。これが日本のスピアフィッシングをやめる最初の動きとなった。
 
 竹内庸氏は、1957年、日本ダイビング協会が行った最初のダイビング講習を受講している。僕が水産大学の潜水実習を受けたのも1957年だから、同じ小湊での実習、入れ替わりだったかもしれない。竹内さんは当時大学生、1961年にNHKに入っている。1967年には日本潜水会の指導員になり、河野さんと羽田沖の全日空を撮っている。
 やがて、日本潜水会は全日本潜水連盟に指導を移行し、親睦団体となり、2008年まで、毎年恒例の忘年会をやっていた。日本潜水会がダイビング界で唯一の大人の集まりだと言ってくれたのが印象に残る。
 後藤道夫が亡くなり、日本潜水会でお別れの会をやったが、竹内さんは体調が悪いとかで、こられなかった。どうしているか気がかりである。機材について
 1953年 NHK東京テレビジョン開局。
 1954年 東京水産大学が魚介類の研究のために買い入れた900万円のIO水中カメラ かなり大きい。をプールに沈めて泳ぐ魚や子供たちを撮った。日本で初めての水中テレビカメラによる撮影、そして放映だった。
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 1957年 水産大学学生が行う海底地図の作製を取材。これがNHKカメラマンによる最初のテレビ番組の水中撮影だった。カメラマンはすでに紹介した畑中さん。
 確か、僕の一年上の竹下さん、橋本さんが取材されている。僕はまだひよこで、その年に潜水部ができた。今年60周年を迎えた。
 1963年には、ボレックスの16mm、これもスプリング巻きを輸入 これで奄美の海を撮っている。撮影は河野、竹内だ。
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                       ボレックス
 さて、自分の方だけど、川崎に島野徳明という人が居て、潜水協会の会員として知り合った。東芝に勤務していたのだが、器用な人で何でも出来る。本当に何でも作れるのだ。何でもできる、何でも作れるというのは才能で、僕の周りで、その一人が後藤道夫で、もう一人が島野さんだ。島野さんには東亞潜水機で僕が作っていたレギュレーターの部品の加工をしてもらうことになった。 1965年 加山雄三の「海の若大将」シリーズが始まり、その水中撮影のカメラハウジングの問い合わせが東亞潜水機に来た。島野さんのことを思い出して、出来るかと訊いてみた。出来ると言うことになり、製作をたのんだ。35mmフィルムのシネカメラで、大きい。無理かと思ったが、巨大なハウジングだが何とか出来た。
 1966年前述の全日空機羽田墜落がある。
 1967年 ベルハウエルDR70 スプリング巻きの16mmカメラのハウジングを作ることになった。このフィルモは、先のNHKの畑中さんが1957年作ったものと同じカメラだ。
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                     このハウジング カメラ展示する
 このカメラは鋳物で10台単位で作った。この種のハウジング、しかも水中用としては大量生産だった。
 このDR70というカメラは、第二次大戦、朝鮮戦争そしてベトナム戦争で活躍する。すごいタフなカメラなのだ。スプリング巻きだから、電池の充電の心配がない。野戦で使える。そして、カメラマンが地雷を踏んで飛散しても、カメラ直撃でなければ、カメラは生き残る。
 使用するフィルムは短尺で、撮影時間はおよそ3分である。スプリングをいっぱいに巻くと、およそ26秒シュートすることができる。26秒とは、そのころ流行した「お富さん」を歌い終わる時間数だ。このカットを6回撮影すればフィルムチェンジをしなければならない。水中ならば浮上しなくてはチェンジできない。 1969年 このカメラを使って、僕は日本テレビの番組で日本初、摩周湖に潜って撮影した。 日本潜水会とか、撮影のための潜水とか、次第に東亞潜水機の仕事が留守になり、わがままいっぱいさせてくれた、東亞潜水機を退社した。1970年、自分の会社スガ・マリン・メカニックを作る。 退社の条件で、僕は潜水機そのものは作らない約束をした。1963年100m実験潜水で送気式のデマンドバルブ着きフルフェースマスクを開発していたので、それを商品化するのは、義理にはずれる。
 僕は島野さんと組んでカメラハウジングを売ることにした。
 NHKには、島野製作所という名称で「ボユー16mmシネカメラのハウジングを2台納品した。この16mmカメラはモーター駆動なので、3分連続して回すことが出来る。
 以後島野製作所は、1981年まで、フィルムカメラ4台、ビデオカメラ2台をNHKに納入する。
 
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これが誰だかわかる人居るだろうか。
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 1977年 マチャアキ海を行く、これは、日本で初めての水中撮影の連続番組であり、後には僕と組むことになる田島プロデューサーの作品で、カメラマンは後藤道夫、益田一、田口哲、中村宏治、中野修三らで、僕はここには入っていないまだカメラマンではない。
この番組で主に使用したのは、NHKも導入したスプリングモーターのボレックスで、ドイツからの輸入品であった。
上から蓋をする形であり、大きく重いが、水密、沈没しにくいということでは、僕の作った70DRよりも確実だった。
※この番組をフイルム時代のテレビ代表として、シンポジュウムで映写する。


 1978年 潜水と水中撮影入門 という本を須賀と後藤道夫、共著で書くが、まだその時点では、須賀はカメラを作る人、後藤はカメラマン写す人という縄張りである。
 1979年 日本テレビ 大型 NEC テレビカメラを作り、それを運用して水中番組をつくるプロデューサーとして、山中康夫氏が就任し日本一周の水中撮影があり、水中撮影はスガ・マリン・メカニックが受けるがまだ僕は水中カメラマンはやらない。撮影は好きだし経験もあるが、じっと我慢して社長さんをやろうと心にきめていた。


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