ブログが滞っている。今日あたりはなんとかしなくては。 滞っている理由は、別に書くものがオーバーフローしているからだ。 まず関東学生潜水連盟50周年の寄稿をたのまれた。僕が書くと長くなりすぎて、おさまらない。しかし、大先輩だから切るわけにもいかないだろう。困らせることになるからどうしよう。ためらった。 とにかく書いてみようと下書きを書いた。50年を振り返る、そして現状を俯瞰して、未来、明日、これからの50年について提言する。やはり一万字を超えてしまった。切って、8000字ぐらいにしてだしたけれど、やはり困らせただろうと少し後悔している。 これが書き出しの部分だ 1968年発足の関東学生潜水連盟の結成大学は、法政大学、東京水産大学 中央大学 獨協大学だった。 僕たちは1967年、当時のスクーバダイビングのエキスパートを集めて日本で初めての潜水指導団体である日本潜水会を創った。27人のメンバーだが、その中の一人に、法政大学の学生である加藤君がいた。彼のお兄さんと親しかった縁で、加藤芳雅君が来た。日本で潜水指導者と言う資格もその時僕たちが創ったのだから、学生指導員、学生インストラクターの第一号であった。但し、その頃はまだインストラクターという言葉は使われていない。 その日本潜水会の技能資格は、一級、二級、三級とあり、一級が一番上だ。次は一級の講習会が行われ、そのとき、法政アクアから最上級生の銭元君はじめ何人かが参加した。 当時の一級の実技科目は、海洋公園の3mプールで鉛5キロを持っての立ち泳ぎ、50mプールで、スクーバ全装備を着けて、マスク、スノーケルなしで、タイムを計って周回させる。BCの無い時代である。溺水を防ぐには泳力しか手段が無かった。 一方、水産大学の方は、当時、第13期だった。 その13期は、僕がコーチをしていた。僕は、今も昔も、潜水で何かをすることを目標にしている。その時の目標は船で曳行する水中グライダーだった。水中グライダーは成功して、テレビ番組になった。1960年代のテレビである。 もしも、そのまま僕がコーチを続けていたら、やがては、水産大学潜水部は、水中を走るビークルのパイオニアになっていたかもしれない。 その期のほぼ全員が潜水関係に職を持った。高橋実は、僕と一緒にスガ・マリン・メカニックをつくり、現在は海洋リサーチ代表そして潜水団体スリーアイの代表、後藤一郎はダイビング会社を起こして成功し、奥川と大掛は、海洋科学技術センター(今のJAMSTEC)に入り、和久井は、芙蓉海洋開発に入った。 その和久井君が関東学生潜水連盟初代の副委員長、委員長が法政の銭元君だった。 そして、二代目の委員長が和久井になる。僕がコーチの時代に育った後輩が委員長である。僕の感覚では、当然、関東学生潜水連盟は、日本潜水会と密接な親子組織にはなるものと考えていたが、ならなかった。 時代背景を見ると、1968年は学生運動が盛んな年で、大学闘争で、水産大学も学生の集会で教授がつるし上げられ、授業は行われなかった。闘争の一つのテーマは、産学共働に反対するという、今の時代から考えたら信じられない。つまり、学は産業に支配、左右されてはいけないとう、学の独立であった。 関東学生泉水連盟では、学生は学生のダイビングの途を選ぶ。社会人の団体の意向に左右されることはない。生意気だと思ったが、筋は通っている。そして正しくもあった。 日本潜水会は全日本潜水連盟に移行して、1973年には海洋博記念のロレックスがスポンサーの競技会を開き、それは現在の全日本室内選手権大会に繋がっていくのだが、ロレックスがスポンサーの競技会、一位にはロレックスが副賞としてでた。1位はロレックス、二位はダイビングバック、差がありすぎると苦情が出たが仕方が無い。そのロレックスのほとんどを法政アクアを中心とする学生が持って行った。 これが書き出しだからたいへんだ。 どうなることやら。
↧