サイエンス ダイビングについて、 (ダイビングの安全について) ぽつんぽつんと書いたことを並べているので論理的な矛盾があるかもしれない。つながりが唐突であったりする。こういう言い訳を書かなくてはいけないことは書くなと言うルールある。(自分なりの)でもそのルールに従って、ブログが書けない。取り払うことにした。 リサーチダイビングの企画を書いていて、 今度の規則で水深40m以上は、混合ガスでなければ潜れなくなった。まあ、もぐりで潜る場合には良いのだが、報告書を出すような潜水などで、位置が特定されていた場合にはできない。 ほとんどの調査会社が何らかのROV,無人カメラを持っているから、見てくるだけのリサーチでは。あえて潜水させる必要もない。禁止されているのだから、よほどの必要がなければ、要求されることもない。 ならば、なぜ、そんなにしてまで、混合ガスをつかってまで潜るのだろう。 理由はいくつかある。まず一つは潜りたいから潜るのだ。人の意志、遊びだから潜る。行けるところまで行かなくては気が済まない人がいる。主にそういう人のおかげで、人類は進歩してきた。 昔、深く潜ろうと、計画すると、仕事でもないのに、なぜ、深く潜るのか?今は、遊びでもないのになぜ深く潜るのだ。ということになる。 規則で定めた40m以上の混合ガス潜水とは、船上に減圧用の再圧タンクを置き、ステージで潜降浮上するような潜水をイメージしている。 そのくせ、船上減圧が許されるのかどうか微妙であったりするのだが、これはもう遊びの世界ではない。サイエンスダイビングの世界でもない。作業ダイビングの世界なのだ。 そして、労働でなければ、遊びならば高気圧障害防止規則は適用されないはずである。 この辺の議論を突き詰めることが、大事なのか、全部ネグッてしまって、なあなあで行くのか? ところで、そんなにしてまで、研究者が、学生が潜らなければいけないのだろうか。やめてしまえばいっさいが解決する。賢い人、賢い研究者はやめてしまう。大勢は、日本ではやめる方向である。 規則もやめる方向に規制する。一人でも多くの研究者が危ないことをやめるように規制する。規制、規則とは、常にやめさせる、制限する方向に働く。そういうものだ。そのバランスの中で、生きる。つまり潜水することを考えなくてはいけない。 つきつめれば、これも、遊びと言えないこともない。ここで「遊び」と言う言葉を使うと、それは、どうでも良いことと思われてしまうかもしれないけれど、ロジェ・カイヨアの研究を引用するまでもなく、人間の生きる目標の重要部分を占めている。 人間が、人間の頭脳、心(感性)を海の中に送り込む必要性を無視できない。たとえば自走式のカメラを水中に送り込んでの撮影は受動的で、なるほどなるほど、そうだったのかと、理解するだけだ。 自分の例で言うと、2017年2月撮影3月放映の福島第一原子力発電所の放射能調査でも、海底に分析装置を吊りおろして、曳航しても測定はできる。しかし、それだけでは、何ともない。数値が出現するだけだ。それを、僕と言うダイバーが潜っていき、周囲を見回して、ここと言うところに測定器を当てて、数値を読みとる。測定器の奥に見えるメバルも目で見て、目で見た記録のマスクマウントで撮影して、僕が感じたことを言葉にする。僕というヒューマンインターフェースを差し挟むことによって、僕が周囲を見回すことで、周囲も測定したように感じる。そして、自分、僕が感じたこともとても重要で、次の調査の計画が、僕の心に芽生えて、先に進む意欲が出てくる。それは、僕だけでなく、このダイビングに参加したメンバーみんなの心にも意欲がめばえる。 僕は残念ながら、プロの研究者の世界からドロップアウトしてしまっているが、 もうひとつ、遊びごころのダイバーが研究者になるという形もある。それが、科学にとって、大事でもある。 昔、水中撮影が仕事として始まったころ、カメラマンに潜水を習わせるのか、ダイバーに撮影を習わせるのか、という議論があった。僕はダイバーだったから、写真の素養が無いままに、ダイバーとして、カメラマンになった。おなじようなことが、海の研究でも言える。 それはそれとして、プロの研究者が、自分の目で見て、自分の感性で感じ取ったことがあるのと無いのとは、研究の展開がまるで異なる。 しかし、安全は、研究者にとって、学生にとって何よりも優先する。どうしたら、良いのだろうか。続く
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