ダイビングの安全について、
何百回このテーマで書いたことだろう。 ダイビングは、安全か危険か?一例でも死亡事故があれば危険である。問いたいことは、どれほど危険なのかということだろう。毎年10ー20例の死亡事故があるのだから危険である。 昔、ダイビングをロシアンルーレットにたとえた。拳銃を頭に当てて、引き金を引く。 およそ、2万発に一回弾がでる。僕のわかりやすいデタラメな統計処理によれば、すなわち、現実のダイビング人口を40万人として、毎年20人が事故死するとすれば、20000人に一人ということになる。20000回に一回のルーレットというと、19999回は大丈夫だから、人間が生きているという事、もっと危ないことがある。行け!無視しても良いように感じるが、確率とは、最初の一回がで弾丸がでる可能性でもあるのだから、重大である。 しかし、ダイビングの事故はルーレットのように偶発的なものではない。全部理由がある。 まず、愚かな事故はわかりやすい。最近、ダイビング雑誌のスキャン、整理をしているが、ダイバー誌の「危機からの脱出」は、それにあたり、原因は、わかりやすい。わかりやすいことをわかって、繰り返さないようにすることは、大事なことで、これで大半の事故が防げる。なのに、繰り返すというところが愚かである。世にダイビングがある限り、危機の数は尽きない。 ※危機からの脱出は、我妻さんが解説している。 プロのレベルの事故は、わかるようではプロの恥?原因不明のように見えることがある。よそ目でわからなくても、本人はわかっている。なぜ本人にはわかるかと言えば、事故に至るまでの分かれ道を事故の方向に選択していた記憶があるからだ。 その分岐点のどこかで、別の選択をすれば事故にならなかった。これは、すべての事故で、言えることだ。 そして、運、不運がある。これについても別に論じなくてはならないのだが、僕は、自分が生きているのは幸運としか思えなかったことが、かなりあるから、やはり、運、不運があるのだ。 先に述べた「危機」愚かな行動からの生還もその多くは運がよくて生還した。 何百回もダイビングの危険と安全について書いてきて、ということは、このテーマが念頭を離れないですごしてきたのだが、待てよ、このことが、自分が生き残っている所以なのではないだろうか。ダイバーは自分の頭でこのことを考え続ける。考えたダイバーが生き残るのではないか。と思った。 だから、危険についての考えは、生き残っているダイバーの数だけある。もちろん、ここで述べている、この見方、考え方も幸いにして生き残っていたダイバーの一人である僕の考え方の一つであるのだが。 危険、今そこにある危険、安全、危険に対処して生き残る方法、について、自分の考え方で考え続けることが大事で、何も考えない人は危ない。ダイビングがメンタルなスポーツであると呼ばれる理由である。 その、ダイビングの危険についての自分の考えも時々刻々変化しているように思える。10代のころ、20代、30代、10年区切り程度の間隔で、大きく変わって来ている。 80代現在、どう考えているかをまとめると。 まとめるときは、三つにくくる。 ① フィジカル: 健康と身体能力 ② メンタル : ダイビングで最重要 ③ 運、 ダイバーという潜水艇に乗って、操縦のパネルを見ると、この①②③の計器がみえる。 三つの計器を見て、あらかじめ立てたコース、計画に沿って操縦している。なおその計画、についてはまた別にのべる。 バディシステムとか、フォーメーションは計画の内である。崩れた時にどうするかは、計画の重要なポイントである。 飛行機が好きで、飛行機の本をよく見る。飛行機とダイビング、潜水と対比して考えることが好きだ。 今の自分は、DC-3 の心境である。 DC-3については、ダグラスDC-3 でネットを見てもらうと出てくる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9_DC-3 DC-3 ダコタは、1937年に初飛行、僕はその2年前、1935年に生まれた。今でもどこかの空で飛んでいる。この前、息子が見たと言っていた。 こんな飛行機と自分を重ねるのは、思い上がりだと言われるかもしれない。思い上がらないと飛べない。潜れない。 計器を見るという事、この三つに何時も心を配る。眼を離さないという意味だ。 自分についてゲージをみる。 ①フィジカル 健康についてのゲージ 余裕、は残りわずかだ。でも、飛び続ける。 最後までダイビングを続けようと願っている。できれば現役で。僕の場合、現役とは、リサーチ ダイビングを続けること、と自分で定義した。以前は、自分で自分のことがすべてできなくなったら、現役ではないと思っていたが、80になるとそれは無理だ。バディの助けが必須になる。およそ、どんなことでも、続けることは闘いである。ダイビングの記録、ログとしてブログを書いているが、その記録である。 やがて、倒れるだろうが、倒れても、カウントナインで立ち上がりファイティングポーズをとるつもりだ。 ファイティングポーズをとっているのにカウントアウトするのは、やめてほしい。 順序は逆になったが ③ 運 昔、ダイビング事故の三要素を①病気②へたくそ③思い上がり にわけて考えた。三つに分けるのが僕のフォーマットなのだ。そのうちで、③の思い上がりが始末におえない。漁師でも潜水会社でも、船や事務所に祀ってあるところが多い。これは、思い上がりを戒めるためのものだ。僕は不幸にして信心ができにくいのだが、自分の力、能力の及ばない部分を認めるということは、大事なことで、僕が生き残っていること、昔ならば神仏の加護のおかげと言っただろう。言うまでもなく、運任せというわけではない。これについての考えは稿をあらためるつもりだ。 ②一番重要なメンタルについて 安全について述べる時、最重要なのはメンタルだ。①のフィジカルの不足はメンタルでカバーする他ない。特に書き出さなくても、ここに書くことのほとんどが、メンタルにかかわることである。だいたい、書くという行為がメンタルなのだ。 最近起こった沖縄の大学院大学OISTの事故のネット上の報告では、計画の不十分、いや不十分どころか無計画であったと述べられている。https://www.oist.jp/ja/news-center/news/2017/7/11/31238何時でもどこでも、事故があった場合の反省は、無計画である。無計画が事故に至るルートの王道だ。 では、計画とは? ようやく、書こうとしていることの玄関口までたどり着いた。 最初に書いたことだが、思いついたことを並べている。まだ、点の羅列である。点を線で結ぶのはできない。というよりまだしたくない。 書いてきたように、大事なことは、自分の考え、自分の絵を持つことだ。そして、その絵は常時変転している。 こんな形でこのテーマを続けて行こう。
何百回このテーマで書いたことだろう。 ダイビングは、安全か危険か?一例でも死亡事故があれば危険である。問いたいことは、どれほど危険なのかということだろう。毎年10ー20例の死亡事故があるのだから危険である。 昔、ダイビングをロシアンルーレットにたとえた。拳銃を頭に当てて、引き金を引く。 およそ、2万発に一回弾がでる。僕のわかりやすいデタラメな統計処理によれば、すなわち、現実のダイビング人口を40万人として、毎年20人が事故死するとすれば、20000人に一人ということになる。20000回に一回のルーレットというと、19999回は大丈夫だから、人間が生きているという事、もっと危ないことがある。行け!無視しても良いように感じるが、確率とは、最初の一回がで弾丸がでる可能性でもあるのだから、重大である。 しかし、ダイビングの事故はルーレットのように偶発的なものではない。全部理由がある。 まず、愚かな事故はわかりやすい。最近、ダイビング雑誌のスキャン、整理をしているが、ダイバー誌の「危機からの脱出」は、それにあたり、原因は、わかりやすい。わかりやすいことをわかって、繰り返さないようにすることは、大事なことで、これで大半の事故が防げる。なのに、繰り返すというところが愚かである。世にダイビングがある限り、危機の数は尽きない。 ※危機からの脱出は、我妻さんが解説している。