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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0706 ナヒモフ号の財宝

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 7月5日、元マリンダイビング編集長、鷲尾さんの書いた「小説」「ナヒモフ号の財宝」の出版記念パーティがあり出席した。
 ナヒモフ号の財宝引き揚げは、日本最大の宝引き揚げである。そして、日本のおそらく最初で最大の飽和潜水作業だろう。潜水実験は、JAMSTECが、やったが、実務としては海上自衛隊の潜水医学実験隊が行っている潜水艦の救難作業が残るのみである。
 僕も、二つのポイントからの思いがある。
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 まず、「ナヒモフ号の財宝」は、とてもおもしろい小説だ。なぜ「小説」とことさらに「 」をつけたか、それは、この引き揚げ作業に従事したダイバー他関係者について、この作業の実態について、口外した者は死に相当するという厳重な縛りがかけられているからである。スガ・マリン・メカニックでは、田島雅彦が、このサチュレーションダイバーとして参加していたが、最後まで、この話をしなかた。最後、というのは、残念なことに若くして、癌で亡くなってしまったからである。
 鷲尾さんの本は、だから、小説、架空の話しという前提で発表されている。小説はおもしろければ良い。「小説」として、おもしろかった。
 伊達という主人公の設定については小説であるが、宝探しという詐欺についての解明は、どこまでが小説なのか、真実なのか、わからない。かなり、真実が含まれていると思わせる。なにしろ「死」の縛りがあるのだ。
 
 パーティでは、スピーチを頼まれた。僕がどこかで、ナヒモフにかかわっていたと聴いたのだろうか。 なお、パーティには、ナヒモフ号の実作業に加わっていた人の出席は皆無だった。もしも田島が生きていたとして、一緒に行こうと誘って、来ただろうか。おそらくは、来なかっただろう。
 
 僕とナヒモフのもう一つの関わりは、遠く1964年に遡る。
 僕と舘石さんは、1963年にフーカーとフルフェースマスクが僕、5本組のタンクのスクーバが舘石さん、二つのタイプの潜水機で100mの潜水実験を目指し、90mまで行く。
 たしか、その翌年、それまでナヒモフ号財宝引き揚げをライフワークとしていた鈴木章之さんに呼ばれる。東亞潜水機の三沢社長を通じてだが、僕たちの潜水の詳しいことを知りたいと言うことだった。
 僕は出かけていく。池袋だった。「神力海事」という大きな表札は出ていたが、普通の家だった。普通の座敷、畳の部屋で、話をした。鈴木さんは、立派な人だと感じた。何枚かの写真を見せていただいた。タブボートの写真だった。サルベージといえば、タグボートが一つの象徴だった時代である。そして、イギリスの某組織がスポンサーになってくれて計画が進行中で、これはトップシークレットなのだが、この計画に参加しないかということだ。もちろん即答などできるわけがない。お昼にお寿司をとってくれて、鈴木さんと一緒に食べた。
 この話をパーティでもさせてもらったが、結論から言うと、お断りした。東亞潜水機の仕事もスクーバの販売が、忙しくなりかけていたし、1963年の潜水で深い潜水の恐怖をしっていた。実験潜水だから、引き返すことができる。ナヒモフの現場では引き返せない。
 一方で、ナヒモフの潜水によって、自分のフーカー、フルフェースマスクを完成させられるという魅力もあった。月給3万5千円の僕は、財宝のことはほとんど考えなかった。考えなかったような性格が、自分の後の資金難につながって行くのだが、純粋に潜水技術のことしか考えなかった。その部分に大きな心残りがあり、今でも、今の東亞潜水機の社長である佐野弘幸さんに、僕が東亞潜水機に残って、フーカー、フルフェースマスクを完成させていたら、どうだったでしょう、などと話をすることがある。
 加わっていたら、死か、フーカーの完成(実績)になっただろう。そして、次の、ナヒモフにも加わっていただろうか。どうなったかわからないが、人生の岐路の一つだった。
 パーティではその話をさせてもらった。
 
 1984年頃からナヒモフと関わりを持ったが、現場のダイバーは、多分、もはや、ナヒモフに財宝はないと思っていたことだろう。鷲尾さんの本にもあるのだが、財宝を積んで日本海海戦に出てくるとは思えない。長い航海で使い果たしていただろうとは、誰でも想像できる。それが、なぜ、といえば、笹川さんの目的目標は、日本の海事振興、サチュレーションダイビングの実績を作ること、そして、又聞きではあるが、第二次大戦のオプテンノールという舞鶴沖のシンガポールから財宝を積んで終戦の日本に戻ってきて、後世の帝国海軍復活の財源にすると言って自沈した船。誘蛾灯のように海師、山師を引きつける。それをすべてはっきりさせておく、と笹川さんが言っておられた。これは、テンオーのエンジニアリングの一環を担った親友の石黒さん(僕の60歳100mも彼がやった)の言葉である。その石黒さんも病に倒れていて、今回のパーティには関わっていない。このナヒモフを事実上仕掛けた宇野沢も死んでいる。
 所詮、財宝探しとは、わずかな可能性に賭ける博打のようなものである。
 ダイバーの中心だった高橋君も、優秀な人である。でなければ、このサチュレーションを仕切ることなどできない。
 僕は、このプロジェクトの末期にROVを作らせてもらったが、外国から購入すれば、もっと良いものがある。にもかかわらず、僕に作らせた。日本の技術振興のためである。僕はその期待に応えることはできなかったが、このロブのテスト映像を見て、時のJAMSTECの松本源彦さんに、チャレンジャブルであるとほめられた。
 鷲尾さんの本、面白かったし、一面の真実を衝いている小説だと思う。しかし、このプロジェクトに加わったダイバーの誰かが、たとえば高橋君でも、僕の100mのトップ(船上指揮)をとってくれた河野君でも、技術的なノンフィクションを書いてくれると、良い。それは、笹川さんのもう一つの遺志を継ぐことになる。
 僕は、もしも1964年の鈴木さんの誘いを受けていれば、それを書く人になれただろう。
 サチュレーションダイビングは苛酷である。
 どこが苛酷化というと、一回の潜水はおよそ一ヶ月、3日で潜降、作業を10日、浮上に7日ならば、およそ一ヶ月で、もしも重大な病気、怪我をすれば、交代要員は送り込まれるが、その本人は終わりまで出てくることはできないのだ。
 そんな深海ダイバーを支えている一つは矜持である。ナヒモフの現場のダイバーは、おそらく、そんな思いで、命を賭けた苛酷な潜水をしていたはずだ。
 とにかく、小説としては面白く、また、いくつかの事を考えさせられた。
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 このところ、古い雑誌資料のスキャン整理をしている。1980年11月号、鷲尾編集長の時代のナヒモフ記事の一部である。
 中心人物の写真がある。森さん、玉内さん、ダイバーの高橋君等である。

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