このところ、ダイビングの危険とか安全について書いていません。 水中科学協会では、最新ダイビング用語事典Ⅱの編纂に取り掛かっていて、素材を集めつつあります。自分の書くものも素材の一つなので、その視点です。つまるところ、最新ダイビング用語事典Ⅱも危険と安全についての論議が基調になります。その意味で、最新ダイビング用語事典Ⅱというタイトルは適切ではないかもしれない。今後の議論で決めて行きます。とりあえずのタイトルです。 カット写真は、水産大学潜水部が製作した水中橇です。
海洋大学潜水部60周年記念誌への寄稿の一部です。 ①まず、水中では、驚くほど簡単に人が死ぬ。 ②そして、その理由、真因は状況だけしかわからないことが多い。※状況とは、曰く一人にした。頭上に舟をおかなかった。この事故では、肺の破裂と言われたが、二人連続して肺が破裂するとは思えない。 ③事故は、チームの中、メンバーの内で、もっとも優れたダイバー、あるいは泳者に起こることを予想しておかなくてはならない。このことは、重要である。 ④事故は、後かたずけ、あるいは準備、予想外の時におこる。 ②の※は、1954年、おそらく日本のスクーバでの最初の事故であった 学生の実習中に2名の命が失われた事故の状況のことです。この事故は、本当に想定外、実習に参加した学生で最優秀(技量的に、もちろん健康で体力も優れ、水泳も達者)な学生二名が、海況も穏やかな入り江で、後片付けをしている時連続して二名死亡した事故です。ただ、なぜか、頭上に居るべき小舟が居なかった。 ダイバーとして物心がつく、ということは、自分の生命がダイビングによって失われる可能性を、自覚 認識することです。可能性とは何パーセントとかの確率なのかです。可能性は、目前の状況で変化します。なお、①②③④は、人それぞれで、それはそれぞれの体験、もしくは知識から獲得するものです。知識とは、体験、経験を、他の人が認識できるような形にしたものです。 海洋大学への寄稿では、60周年以後、その①②③④を踏まえて、どのようにしたら事故が起きないか、事故が起こったとして、どうすればスマートに解決できるのか、を書いています。どのようにしても、失われた命は戻らないのですから、真の解決はないのですが、人の死は本人以外責任の負えるものではないので、本人以外への責任追及のスマートな解決を意味します。スマートとは、社会的に許容されるということです。学生について言えば、お父さんお母さん、特にお母さんは許してくれることは想定できないので、許容されない。スマートという言葉は不適切かもしれません。 その解決に普遍的なものはないので、海洋大学潜水部についての方策を述べました。 ここではその部分は述べません。もう少し研究を進め、今企画している最新ダイビング用語事典Ⅱ{タイトルは変更する可能性が大きい}で、整理したものを掲載する予定です。 海洋大学潜水部については、60周年の、部がまだできる前に起こった1954年の事故が、以後の事故を防止するための遺産になればと願って、小文(でもないか)を60周年記念誌に寄稿しました。 もしかしたら、その寄稿の意味を理解してもらえないで、事故が起こり(事故は必ず起こると想定していなければいけない。想定外という言い訳は、原子力発電所の事故以来、通用しなくなっています。)その処理が、僕の遺言に背いていたら部が本当に終わる時でしょう。60周年記念誌に書くということは、そういうことなのです。
海洋大学潜水部60周年記念誌への寄稿の一部です。 ①まず、水中では、驚くほど簡単に人が死ぬ。 ②そして、その理由、真因は状況だけしかわからないことが多い。※状況とは、曰く一人にした。頭上に舟をおかなかった。この事故では、肺の破裂と言われたが、二人連続して肺が破裂するとは思えない。 ③事故は、チームの中、メンバーの内で、もっとも優れたダイバー、あるいは泳者に起こることを予想しておかなくてはならない。このことは、重要である。 ④事故は、後かたずけ、あるいは準備、予想外の時におこる。 ②の※は、1954年、おそらく日本のスクーバでの最初の事故であった 学生の実習中に2名の命が失われた事故の状況のことです。この事故は、本当に想定外、実習に参加した学生で最優秀(技量的に、もちろん健康で体力も優れ、水泳も達者)な学生二名が、海況も穏やかな入り江で、後片付けをしている時連続して二名死亡した事故です。ただ、なぜか、頭上に居るべき小舟が居なかった。 ダイバーとして物心がつく、ということは、自分の生命がダイビングによって失われる可能性を、自覚 認識することです。可能性とは何パーセントとかの確率なのかです。可能性は、目前の状況で変化します。なお、①②③④は、人それぞれで、それはそれぞれの体験、もしくは知識から獲得するものです。知識とは、体験、経験を、他の人が認識できるような形にしたものです。 海洋大学への寄稿では、60周年以後、その①②③④を踏まえて、どのようにしたら事故が起きないか、事故が起こったとして、どうすればスマートに解決できるのか、を書いています。どのようにしても、失われた命は戻らないのですから、真の解決はないのですが、人の死は本人以外責任の負えるものではないので、本人以外への責任追及のスマートな解決を意味します。スマートとは、社会的に許容されるということです。学生について言えば、お父さんお母さん、特にお母さんは許してくれることは想定できないので、許容されない。スマートという言葉は不適切かもしれません。 その解決に普遍的なものはないので、海洋大学潜水部についての方策を述べました。 ここではその部分は述べません。もう少し研究を進め、今企画している最新ダイビング用語事典Ⅱ{タイトルは変更する可能性が大きい}で、整理したものを掲載する予定です。 海洋大学潜水部については、60周年の、部がまだできる前に起こった1954年の事故が、以後の事故を防止するための遺産になればと願って、小文(でもないか)を60周年記念誌に寄稿しました。 もしかしたら、その寄稿の意味を理解してもらえないで、事故が起こり(事故は必ず起こると想定していなければいけない。想定外という言い訳は、原子力発電所の事故以来、通用しなくなっています。)その処理が、僕の遺言に背いていたら部が本当に終わる時でしょう。60周年記念誌に書くということは、そういうことなのです。