桶田さんの努力で、出てくれる船が決まった。久ノ浜の船だという。2月内に撮影を終了、3月11日に放送と最初の段階で予定していたのだが、ほぼ予定どおり、2月19日に出発することに決まった。25日までに何日間潜水ができるだろうか。。 2月10日、いわきへ行く。 水産試験場と、久ノ浜の船を見に行く。 試験場では、僕の調査の趣意を説明し、スガ・マリン・メカニックがやった調査の報告書のコピーをもらう。魚礁のGPS値を教えてもらう。 福島の魚礁はほとんどが水深40m線にある。最初に考えていた双葉の魚礁も大熊の魚礁も40ー50mにある。40m以上は混合ガス潜水になるし、福島の海の状況、そして、自分の年齢を考えると、自分が潜るのでは35mが精一杯だ。福島第一の前の天然礁、剣だしは、水深25m線にある。そして、四倉沖、江名の魚礁は、水深32mだ。 水深ということで絞るとこの二カ所が候補になる。 漁場環境部長の談では、今はもうほとんどの魚種がセシウムは検出されていないし、線量も基準値以下で、出荷制限も解除されている。2012年に来た時には、タコが食べられるぐらいで、漁はしても、測定しては廃棄だった。「アイナメはどうでしょうか?」ホームページでも確認できるのだが、インタビューの形で撮影されていたので、僕は訊ねた。「アイナメはもちろん大丈夫です。」福島県四倉のアイナメは、特に美味で、震災前は、ブランド魚だった。そして僕はこのアイナメに特に思い入れがある。 大和田さんと福島の人工魚礁
平成26年:2014年に書いた「ニッポン潜水グラフィティ」のおわりに囲み記事で書いた福島沖人工魚礁「福島県で人工魚礁調査を行った海域は、放射能汚染海域になってしまっている。松川浦、相馬、双葉、大熊、四倉、江名、すべて沖に人工魚礁があり、潜っている。1970年代のホームグラウンドだ。そして、その1970年代は福島県水産試験場の大和田技師と潜っている。大和田さんは、人格が丸く、顔も丸く、身体も筋肉質で丸い。ダイバーとして、僕より上だった。なぜかと言えば寒さに強い。良いダイバーかどうかは寒さに対する強さで決まる。冬、水が澄む頃、相馬の沖から岸を見ると、空気も澄んで、蔵王あたりの山並みが見え、まっすぐに北西の季節風が吹き下ろしてくる。潜水を終了して船に上がると、大和田さんはウエットスーツをがばっと脱いで真水をかぶる。蔵王おろしが当たって身体から湯気がでる。僕もまねしてみた。たちまち身体が硬直して、もう少しで低体温症で凍死するところだった。 震災、大津波のことで何かの役に立ちたいと思ったが、瓦礫の引き揚げは、僕の年齢では足手まといになる。僕でなければできないこと、海に流れた放射性物質の調査を企画した。理化学研究所の守屋さんとともに、彼の微細生物の研究をたすけて、久ノ浜で調査が出来、10日間、うねりの中、濁水の中で潜った。その経験を生かして水深40mまで持ち込める放射線スペクトル分析装置のハウジングを後藤道夫に作ってもらった。彼の最後の仕事だったろう。昔潜った双葉沖(福島第一原発の前だ)の人工魚礁に潜って調べたい。大和田さんの力を借りたかったが、試験場で消息を訊ねると、「残念なことでした」という答えが返ってきた。大和田さんも津波には勝てず、流された。そして僕は福島第一原発の前の海には、いまだ潜れていない。」 これが、今度の企画の原点、僕の書いた企画書ともいえる。大和田さんはすでに定年退職されていたが、彼が生きていれば、僕の潜水は、実現していただろう。少なくても今度の潜水で船の上で助けてくれただろう。 大和田さん、福島魚礁との付き合いの最初のころ潜ったのが、四倉沖、江名だった。その時に書いた魚礁調査報告書のコピーがPCに残っていた。昭和44年:1969年報告書とファイルにタイトルが付いている。その中で、これがベストショットだった。オレンジの縁取りになっている。黄金のアイナメだ。 黄色いアイナメは、アイナメの婚姻色でそれほど珍しいものではな いと知ったのは、後に調べたことであり、水中での出会いは驚きだった。オレンジと黄金に近いイエローとの対比、それを、生きていられる極限のような水深32mの冷たい福島の海底で見る。シャッタアーを押す。 大和田さんは、腕いっぱいに抱えるようにして、オレンジのホヤをもぎ取ってきた。「拓水」という調査船の甲板の上で、ナイフでホヤを開いてたべた。これまで口にしたことが無い味だった。
☆★☆ 船を出してくれるという久ノ浜は2011年10回の潜水をしたところだ。 船は及川造船の及川丸、及川造船は漁港の中心部を大きく占めている。港の最有力者なのだろう。2011年には造船場も大きく破壊されて、壁もなく屋根と半ば破損した作り掛けの船があったが、今は、どんどん新しい船を造りだして居る様子である。作り掛けの漁船が何隻も並べられている。 及川丸は、25人乗りの釣り船で、船室もあり、風を避けられる。心配なのは船へのエキジットで、僕たちはゴムボートを使うつもりであり、またゴムボートがなければ、潜水できない。 人工魚礁調査では、アンカーを入れて、アンカーロープに沿って潜水していくのが常道であるが、魚礁の位置に、潜降索をかねた目印ブイを入れ、それにゴムボートをつなぎ、本船は近くで見守り流しているのが良いということになった。 海を背にして、インタビュー、感慨として、僕の潜水人生のほぼすべてに関わってきた人工魚礁調査が、本格的なものとしては、これが最後、その時僕は本格的調査をするつもりになっていた。最後だと思うと感慨がある。そして、福島の海を一緒に潜った大和田さんに思いを馳せた。いま、ここに居たら、この場にいたら、そんなことを話した。 2012年の調査でお世話になった八百板さんはその時で80を越えていて今の僕よりもはるかに元気だった。今もお元気だろう。及川さんに訊ねると、お元気ということだった。戻り道で、船だまりを見ると、小さい、下から二番目に小さい八百板さんの正栄丸がいて、漁の支度がしてあった。多分刺し網漁をされているのだろう。本当にお元気らしい。多分87歳か。 正栄丸、真中の小さい船。
東京に戻って、夜、1人になると考えた。僕の放射性物質の調査が何になるのだろう。もはや、魚からはセシウムは検出されていない。つぎつぎと生産制限も解除されている。その時にセシュウムのグラフ表示の調査映像が放送される。グラフと言うものは、レンジの取り方で、如何様にも見えてしまう。 人工魚礁調査で黄金のアイナメを追うことをメインテーマにして、第一原子力発電所はサブテーマにしたら?と提案した。 それでは、第一の前に行かないでお茶を濁したという言い訳になってしまう。が、黄金のアイナメは、テーマの一つとしておもしろい。 そして、なぜセシウムを測ろうとするのか。考え抜き、なぜ?が見えてきた。そのことは、もう一度、後に書こう。 ☆☆ 2月13日、風邪を引いてしまった。インフルエンザが流行している。インフルエンザになったら、福島の企画、福島に潜ることは出来なくなる。一日、外にでないで横になっていることにした。 2月14日、 起きあがらなくてはいけないと、起き上がるが全くの無気力とはこういうものかと思うような状態、予定を四つ入れていた。①ダイブウエイズにレギュレーターを持って行き整備してもらうこと②お台場の潜水の申請書をつくり出しに行くこと。お台場の申請は、この後、もしものこともあるのだから、尾島さんの奥さんにバトンタッチするその予行を一緒にやろうと話していたのだが、とてもそんな余裕はない。自分一人でやるのが一番楽なのだ。③ワークショップ、久保さんがDPVの話題を、④ワークショップの後、福島行きの最終打ち合わせをする。 ①②はキャンセル可能、③④は不可。 困ったことが一つ付け加わった。ヒャックリ、横隔膜の痙攣が止まらなくなった。 ワークショップと打ち合わせは何とか、それほど具合の悪さは表に出さずに終えた。潜水すればすべては治る。と言うだけ。幸い、締めの飲み会は機嫌良く、横隔膜の痙攣もおさまって、過ごすことができた。 2月15日 横隔膜痙攣はまたはじまった。胃の調子が少し悪いことと、心理的なプレッシャーのためだろう。 お台場の申請、ダイブウエイズのレギュレーター整備を終えた。レギュレーターのセカンドが30年前の型だと言われた。30年整備をしなかったわけのものではない。度々、見てもらっては来ているが、セカンドはこれが一番気に入っているので、残っている。手島さんは、あんまりだ、ということで、10年ぐらい前?の新型に換えてくれた。新しい型を次々出すメーカーとしては、ギャランティ出来ないというのだろうが、ゴム製の部分だけ換えればレギュレーターは何時までも生きている。東亞潜水機時代、僕はレギュレーターのデザイナーだった。ダイブウエイズの武田さんは、僕の弟子筋なのだ。手島さんは孫弟子になる、と脅迫して、サービスさせている。サービスだから必要最小限度にしている。 2月16日 横隔膜痙攣はどうやら治めたが、喉の痛みがでてきた。これもかなりやばい。古い売薬が残っていたので飲んだ。よく効く薬だ。日本水中科学協会の運営委員会がある。資料作りは最小限度させてもらった。お弁当は食欲がなくて残してしまった。最新ダイビング用語事典Ⅱについて、中川が、このようなものは売れないだろうと今頃になって異論を唱えるが、論争する気力はない。 2月17日 事務所で福島の機材準備をする。今度のテレビ取材の長島カメラマンが事務所の倉庫化した状況でのインタビューを撮りにくる。僕の状態をカメラマンの目で見れば、心配だろう。 2月18日 故大岩先生を偲ぶ会があり、大岩先生には僕の60歳100m潜水の後ろ盾になっていただいたり、お世話になっている。出席の通知を早くから出していたのだが、自重して欠席する事にした。池田知純先生とお目にかかって、高気圧障害防止規則改正についてのお話をしようとも思っていた。池田先生のアドレスがあったので、世話役の望月さんに断りをお願いした。 大岩先生の会は、たいへん盛況だったという。 2月19日 そして、出発の朝がきた。
平成26年:2014年に書いた「ニッポン潜水グラフィティ」のおわりに囲み記事で書いた福島沖人工魚礁「福島県で人工魚礁調査を行った海域は、放射能汚染海域になってしまっている。松川浦、相馬、双葉、大熊、四倉、江名、すべて沖に人工魚礁があり、潜っている。1970年代のホームグラウンドだ。そして、その1970年代は福島県水産試験場の大和田技師と潜っている。大和田さんは、人格が丸く、顔も丸く、身体も筋肉質で丸い。ダイバーとして、僕より上だった。なぜかと言えば寒さに強い。良いダイバーかどうかは寒さに対する強さで決まる。冬、水が澄む頃、相馬の沖から岸を見ると、空気も澄んで、蔵王あたりの山並みが見え、まっすぐに北西の季節風が吹き下ろしてくる。潜水を終了して船に上がると、大和田さんはウエットスーツをがばっと脱いで真水をかぶる。蔵王おろしが当たって身体から湯気がでる。僕もまねしてみた。たちまち身体が硬直して、もう少しで低体温症で凍死するところだった。 震災、大津波のことで何かの役に立ちたいと思ったが、瓦礫の引き揚げは、僕の年齢では足手まといになる。僕でなければできないこと、海に流れた放射性物質の調査を企画した。理化学研究所の守屋さんとともに、彼の微細生物の研究をたすけて、久ノ浜で調査が出来、10日間、うねりの中、濁水の中で潜った。その経験を生かして水深40mまで持ち込める放射線スペクトル分析装置のハウジングを後藤道夫に作ってもらった。彼の最後の仕事だったろう。昔潜った双葉沖(福島第一原発の前だ)の人工魚礁に潜って調べたい。大和田さんの力を借りたかったが、試験場で消息を訊ねると、「残念なことでした」という答えが返ってきた。大和田さんも津波には勝てず、流された。そして僕は福島第一原発の前の海には、いまだ潜れていない。」 これが、今度の企画の原点、僕の書いた企画書ともいえる。大和田さんはすでに定年退職されていたが、彼が生きていれば、僕の潜水は、実現していただろう。少なくても今度の潜水で船の上で助けてくれただろう。 大和田さん、福島魚礁との付き合いの最初のころ潜ったのが、四倉沖、江名だった。その時に書いた魚礁調査報告書のコピーがPCに残っていた。昭和44年:1969年報告書とファイルにタイトルが付いている。その中で、これがベストショットだった。オレンジの縁取りになっている。黄金のアイナメだ。 黄色いアイナメは、アイナメの婚姻色でそれほど珍しいものではな
☆★☆ 船を出してくれるという久ノ浜は2011年10回の潜水をしたところだ。 船は及川造船の及川丸、及川造船は漁港の中心部を大きく占めている。港の最有力者なのだろう。2011年には造船場も大きく破壊されて、壁もなく屋根と半ば破損した作り掛けの船があったが、今は、どんどん新しい船を造りだして居る様子である。作り掛けの漁船が何隻も並べられている。
東京に戻って、夜、1人になると考えた。僕の放射性物質の調査が何になるのだろう。もはや、魚からはセシウムは検出されていない。つぎつぎと生産制限も解除されている。その時にセシュウムのグラフ表示の調査映像が放送される。グラフと言うものは、レンジの取り方で、如何様にも見えてしまう。 人工魚礁調査で黄金のアイナメを追うことをメインテーマにして、第一原子力発電所はサブテーマにしたら?と提案した。 それでは、第一の前に行かないでお茶を濁したという言い訳になってしまう。が、黄金のアイナメは、テーマの一つとしておもしろい。 そして、なぜセシウムを測ろうとするのか。考え抜き、なぜ?が見えてきた。そのことは、もう一度、後に書こう。 ☆☆ 2月13日、風邪を引いてしまった。インフルエンザが流行している。インフルエンザになったら、福島の企画、福島に潜ることは出来なくなる。一日、外にでないで横になっていることにした。 2月14日、 起きあがらなくてはいけないと、起き上がるが全くの無気力とはこういうものかと思うような状態、予定を四つ入れていた。①ダイブウエイズにレギュレーターを持って行き整備してもらうこと②お台場の潜水の申請書をつくり出しに行くこと。お台場の申請は、この後、もしものこともあるのだから、尾島さんの奥さんにバトンタッチするその予行を一緒にやろうと話していたのだが、とてもそんな余裕はない。自分一人でやるのが一番楽なのだ。③ワークショップ、久保さんがDPVの話題を、④ワークショップの後、福島行きの最終打ち合わせをする。 ①②はキャンセル可能、③④は不可。 困ったことが一つ付け加わった。ヒャックリ、横隔膜の痙攣が止まらなくなった。 ワークショップと打ち合わせは何とか、それほど具合の悪さは表に出さずに終えた。潜水すればすべては治る。と言うだけ。幸い、締めの飲み会は機嫌良く、横隔膜の痙攣もおさまって、過ごすことができた。 2月15日 横隔膜痙攣はまたはじまった。胃の調子が少し悪いことと、心理的なプレッシャーのためだろう。 お台場の申請、ダイブウエイズのレギュレーター整備を終えた。レギュレーターのセカンドが30年前の型だと言われた。30年整備をしなかったわけのものではない。度々、見てもらっては来ているが、セカンドはこれが一番気に入っているので、残っている。手島さんは、あんまりだ、ということで、10年ぐらい前?の新型に換えてくれた。新しい型を次々出すメーカーとしては、ギャランティ出来ないというのだろうが、ゴム製の部分だけ換えればレギュレーターは何時までも生きている。東亞潜水機時代、僕はレギュレーターのデザイナーだった。ダイブウエイズの武田さんは、僕の弟子筋なのだ。手島さんは孫弟子になる、と脅迫して、サービスさせている。サービスだから必要最小限度にしている。 2月16日 横隔膜痙攣はどうやら治めたが、喉の痛みがでてきた。これもかなりやばい。古い売薬が残っていたので飲んだ。よく効く薬だ。日本水中科学協会の運営委員会がある。資料作りは最小限度させてもらった。お弁当は食欲がなくて残してしまった。最新ダイビング用語事典Ⅱについて、中川が、このようなものは売れないだろうと今頃になって異論を唱えるが、論争する気力はない。 2月17日 事務所で福島の機材準備をする。今度のテレビ取材の長島カメラマンが事務所の倉庫化した状況でのインタビューを撮りにくる。僕の状態をカメラマンの目で見れば、心配だろう。 2月18日 故大岩先生を偲ぶ会があり、大岩先生には僕の60歳100m潜水の後ろ盾になっていただいたり、お世話になっている。出席の通知を早くから出していたのだが、自重して欠席する事にした。池田知純先生とお目にかかって、高気圧障害防止規則改正についてのお話をしようとも思っていた。池田先生のアドレスがあったので、世話役の望月さんに断りをお願いした。 大岩先生の会は、たいへん盛況だったという。 2月19日 そして、出発の朝がきた。