ブログが書けないで、ご無沙汰していた。やめるつもりはないので、心に引っかかっている、書いている時間もなかった。だから、とりあえず何でも書いて出そう、というところから、再スタートする。 偉そうなことを書いては、いやいや、偉そうにと消した、出さなかった。つまり自己嫌悪症におちいっていた部分もある。毎日がけっこう命のやりとり的勝負で、書けなかったこともある。そして、「言い訳、エクスキュース」から、書き物をスタートしてはいけないということを自分に言い聞かせていたから、言い訳しか書き出しがなくなってしまったら、書けない。 まとまったストーリー的に書くのはあきらめて、唐突に断片的にでも良いから、並べて行こう。支離滅裂は、自分の売り物だったはずなのだが、最新ダイビング用語事典Ⅱでは論理的に書かなくては、いけない。最新ダイビング用語事典Ⅱの下書きにブログを使おうと思った。それは、少しの間、置いておかないと進めない。 いま、一番自分の心、自分の思考を占めていることは、これはいつも変わらないでダイビングなのだが、人の心は論理的なものではない。そして、いつも移り変わるその断片しかとらえられない。ダイビングといえば、「安全」という言葉が思い浮かぶ。それほどまでにダイビングは危険な行動なのだろうか。統計的に見れば、ダイビングはそれほど危険ではない? 肝心なのは、恐怖心なのだ。「安全」とは恐怖心と書いたカードの裏側に書いてある言葉なのだ。そして、いつもいつも書いてきたけれど、恐怖心とどうつきあうかがダイビングの安全の本質であり、恐怖心を克服などしてはいけないし、できもしない。ただ、恐怖心に打ちひしがれてしまえば、パニックになってしまう。そのバランスを失ってしまえば、落下、してしまう。やっかいなことは、このバランス感覚は、人の外側、外見からは、窺い知ることができない。 人は老いて行く。残念だけれど、悔しいけれど、それは事実であり、人が生きることの大部分はそのことなのだ。 それを、外見で、見せてしまってはいけない。 人それぞれ、ダイバーそれぞれなのだが、自分についてだけしか人は言うことができない。ダイバーが潜るという行動には二種類あって、練習と本番の二種類だ。この区別も難しくて、練習だからと手を抜いたら危ない、ということも言える。しかし、すべてが本番だったら人の心は持たない。持ちこたえられない。 練習の安全と本番の安全をどのように区別するのか、区別するべきではないのか、これはまたべつの命題である。 すべてのことを論理的に考え、解決できるものでもない。あいまい、ファジイな部分が大事とも言える。 その議論はここに置いておき、本番として、ダイビングを前にして、危険を探し出して積み重ねて見る。その解決手段を考えて、選びだしていく。 ほとんどの危険について、本番としてのダイビングの場合、具体的、絶対的な解決手段は無いのだ。練習を積んでいるとか、恐怖心を大事にしているとか。それは、抽象的なものであり、不確かなものだ。 先に旅客機の機長のことを書いたけれど、これはほとんどの場合に具体的な解決手段が考えられている。できる限りにおいて、抽象的不確かな解決は、避けられようとしている。ただし、コストの問題だけが残るが、それは本質的なことではない。 ダイビングでは、統計的にそんなに死ぬものではない。精々年間で10人程度だ。それも、何にも考えていない人が死んでいる。考え抜いて行動しているダイバーは死んでいないはずだ。実は発表される事故統計を安全の為の気休め材料として使っている。 安全と危険について、高齢になるとともに悲観的にならざるをえない。自分について言えば、トレーニング不足、そして、風邪をひいたりする健康の問題が残る。健康でなければ潜水してはいけない、とすると、潜水する、出来る時など無くなる。 主観的なことばかり書いたが、このごろ考えていたことであるし、 26日には、お台場の潜水に行けます。28日には辰巳でのトレーニング。鍛え直して、春から夏に向かう。もっと潜水した方が良いな。
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