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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1122  東亞潜水機

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このところ、東亞潜水機に2回行った。 僕は1959年東京水産大学を卒業した。研究者になろうと志していたのだが、実家が倒産して学費を都合することができなくなり、そのころ、東京水産大学に大学院は無くて、たとえば東大の博士コースに進む術もなかった。ブルトーザの修理工などをして、右往左往した結果、10月に東亞潜水機に拾ってもらった。これらのことは、ニッポン潜水グラフィティに書いたが、100mの実験潜水をするなど、やりたい放題をやらせてもらって、1969年に退社して自分の会社を作った。 その迷惑をかけた東亞潜水機だが、僕が辞める時に中学生だった現社長の佐野さんは、OB扱いにしてくれる。OBであることは間違いないし、他に生きている人もそろそろいなくなる年頃だから大事にしてくれる。  東亞潜水機は、二つのセクションに分かれていて、別のところにある。ヘルメット式などの潜水服関連の東亞潜水機と、コンプレッサーを作る東亞潜水機東京工場である。東京工場の社長が、佐野社長で、センス衣服の東亞潜水機は、三沢社長だ。 なにを目的に行ったかというと、今度のシンポジュウムで、歴史的な潜水器を展示するのだが、その一つとして伏竜特攻の潜水器を飾る。そのレプリカが東亞潜水機にあると言うことなので借りに行ったのだ。 伏竜は小型ヘルメットだから、潜水服の方にあると思った。社長の三沢さんは、僕が入社したときの三沢社長の息子で、彼は服工場の責任者で僕はアクアラングだから、関わりがないといえば無い。そのまま50年、60年かな、が経過している。とにかく、懐かしいのだが、お互いにあまり懐かしがらない。そんなつきあいだ。
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                僕が入社した頃の東亞潜水機
        以後、東京の下町、町工場の変遷、
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              突き当りが潜水服工場で、真ん中が機会工場ここで高圧コップレッサーを作っていたから、すごい。空き地のようなところに小屋を建てて僕のスクーバの居場所になった。
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           左手が僕の居城 前にワンマンチャンバーがおいてある。
 
 建物は、僕の居たときとはがらりと一変している。潜水訓練
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              作りかけのタワー タワーの右手に潜水服工場がある。
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     現在、右に道路ができて狭められた。JR常磐線が隅田川鉄橋を渡る時左手に見える。

タワーだけがそのままにある。そのままと言っても、敷地の真ん中やや左に建てたのが右端になっている。道路の拡張工事で、右側が削られたので、右端になった。伏竜特攻隊の潜水器を設計、製作した清水登大尉が、東亞潜水機に来て、僕の90m潜水の総指揮をやっていただいたりして、ずいぶんお世話になった。この潜水タワーは僕が設計製作したかったのだが、清水大尉にとられたと、僕は思った。もちろん、そんなことは無かったのだが、僕の方がなにかと反抗的で、だから、伏竜の詳しいことを教えてもらわずに退社してしまった。やがて、清水さんも退社して亡くなってしまうのだが、最後まで僕のことをどうしているか、会いに来ないけどと気にしてくれていた。今、自分が年老いて、後ろを振り返れば、言葉もない。
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僕の実験潜水の指揮をとってくれた清水さん 麦わら帽子

最近になって確認したのだが、この伏竜の潜水器は50:50のナイトロックスのセミクローズだったのだ。1960年代の僕はナイトロックス、そんな言葉もないから、知りもしない。世界中でだれも50%の混合気体の半閉鎖など知らなかったのではないだろうか。 まあ、当時の僕が50%の混合ガス潜水などに取り込まれたら、命は無かったと思うから、良かったのかもしれないけれど。  せっかく三沢さんのところにようやくアポをとって来たのに、伏竜のヘルメットは、佐野さんのところだという。そうだったのだ。忘れていた。僕の入ったころにも、東亞潜水機は服工場と機械場にわかれていて、ヘルメットは機械場の管轄だったのだ。 そのころヘルメットは、向島にある分工場で作っていた。ヘルメットは、本当に職人芸で作り出す。僕と同年輩だから、そのころは若い山沢さんが竹内さん?と言う親方の元で修行中だった。後に、機械工場と本社の建物が分かれたとき、機械工場に顔をだしたら、山沢さんが居て、美男子だったのに、禿になって、人のことは言えないけど、懐かしく話をした。しばらくしてからまた行くと、山沢さんの訃報を聞いた。これでもう、日本ではヘルメットを作る職人は居なくなった。職人が居なくなっても、樹脂の成形で作れるではないかと言っても、それはハードハットであり、フルフェースマスクの仲間になってしまう。伝統的なヘルメットではない。 なぜ、そんなにも、ヘルメットにこだわるのだというと、そこにこだわりたくなる潜水の精神、つまり何かがあるからだろう。変わらない、やたらに新型が出てこない何かだ。東亞潜水機で例年の一枚もののカレンダーをもらってきた。ヘルメット式の練習を今でも熱心にやっている種市高校をテーマにしている。2014年に種市高校の話をシンポジウムでやって、みんなでツアーを組んで訪ねていくからと約束して、そのまま果たしていない。種市高校卒業のダイバーは、自分がヘルメットで潜水をスタートしたと言うことを、それこそ、涙を流すほどかっこいいことだと思っているだろう。ただし、卒業してヘルメットダイバーになるわけのものでもないが、プライドを持つ、プライドを持ち続けるということは、プロのダイバーにとって重要なことだ。それにダイバーにならなかったとしても、教育の効果として大きい。 ヘルメット潜水器は、中古がたくさんあって、磨けば新品同様になってしまう。だから大丈夫らしい。 
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           2017年のカレンダー

 金曜日、佐野社長のところに行って、伏竜のヘルメットを借りてきた。このヘルメットにも謎があるのだが、それは、別の機会にしよう。 シンポジウムでは、陳列する。

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