過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させて呼吸するというニッセン式の話の続きである。 オキシフル潜水機のことがでていると記憶にあったので、注文していた有馬頼義の「化石の森」がとどいた。小説はロマンチックな話だが、それはどうでもよい。主人公の中泉という男が、この潜水機の研究をしている。彼は戦時中シベリアで毒ガスの製造の研究をしていた。そんな部隊があったたしか442部隊だったか、それにかかわっていたが、毒ガスがばれなかったので、日本に戻ってくることができた。つまり化学の応用の専門家である。彼が新しく研究した潜水機のことを婚約者に説明する下りがある。 「中泉の研究室は八畳ぐらいの広さしかない。床の上に台があり、その上にいろいろな実験機会が並べてあった。 「簡単に原理を説明しよう」と中泉は、台の端にある小さなボンベを指さした。「この中に過酸化水素の30%液が入っている。此処には触媒、つまり過マンガン酸カリの結晶がある。この二つが出会うと酸素が発生するんだ。しかし、この酸素の中には、水蒸気が含まれている。それで、この次にある濾過機を通す。この中にはソーダ石灰という奴が入っている。ここを濾過した酸素は化学的に作られた純粋酸素だということになる。それをこの気嚢の中に入れておく。ここから管がでて人間がそれをくわえるのだ。」 アクアラングとの比較も出てくる。「ホース式の潜水について、 …大きくて、行動が自由にならない。沈没船を発見しても、狭い入口から中に入るのに骨を折るし、送気管がなにかに引っかかれば、それっきりになる。それで、送気管を持たないアクアラングが登場したのです。これならば安心してどんな格好でもできる。水の中で逆立ちをして作業もできるわけだ。このアクアラングの欠点は、時間の制約を受けることのほかに、中の人間の吐いた空気を水中に捨てているわけでしょう。この気泡の音で、魚は逃げてしまう。」「これからはスポーツとしての潜水が盛んになると思う。その意味でも、ヘルメット式は手数と金と人力が大変必要だし、アクアラングは素人には使いこなせない。僕の潜水機なら、だれでも簡単に使うことができるでしょう。薬屋に行って、オキシフルを買えばいいんだから。」 このあと、伊東の水産試験場へ行き、この潜水機とヘルメット式が潜水を競うシーンがある。 まちがわないように、これはドキュメンタリーではなくて、小説である。だから、書いてあったことが実際にあったかどうかわからない。しかし、小説家の想像だけとも思えない。実物の残骸を見た覚えがある。 化石の森の初出は1960年である。 ニッセン式が神田のYMCAプールで実験され、潜水することができた。いう。 そして、もう一つ、僕の持っている写真である。これが何処なのか、何時の撮影なのかわからない。状況から見て、ニッセン式でプールでのテストに成功していたという神田のYMCAプールではない、屋外のプールでの写真である。この写真がニッセン式だという確認はしていない。山下弥総左衛門先輩の潜水読本にあった絵とにている。 有馬頼義が「化石の森」を書いた、1960年には、まだ、ニッセン式は存在していたのだろうか。僕が神奈川県水産試験場でその残骸をみたのは、1958年だから、1953年の何回かのテストだけで終わったのだろう。もし成功していれば、1954年ごろに、水産大学の小湊実験場あたりに現れて、遅くとも、1956年あたりには、僕が、潜れる、使うことができる形のものを見ているはずだし、きっと、使ってみるチャンスもあっただろう。 これも想像だけど、人間の呼吸で正味酸素の消費はわずかなものである。呼吸袋が十分に大きければ、炭酸ガスを除去して、呼吸を何回か繰り返すこともできるし、酸素が加われば、プールで潜るくらいはできたのだろう。 化石の森、に伊東の水産試験場がでてきている。当時伊東水産試験場は、水産の潜水のメッカの一つだった。三浦定の助先輩が定置網潜水の講習をやっておられて、僕はその弟子にあたる稲葉繁雄さん親しく、彼の家に泊めてもらったこともある。その時にニッセン式のことを彼に訊いてみたら何か分かっただろう。 しかし、ともかく、だめだったことだけは明らかだ。何も残っていない。でも、東亜潜水機の僕のデスクがあった倉庫の片隅で、ニッセン式のパンフレットを見た記憶がある。白い地に、赤と青のゴシック体の字で、写真はモノクロだった。ニッセン式の水中撮影の写真はない。
過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させて呼吸するというニッセン式の話の続きである。 オキシフル潜水機のことがでていると記憶にあったので、注文していた有馬頼義の「化石の森」がとどいた。小説はロマンチックな話だが、それはどうでもよい。主人公の中泉という男が、この潜水機の研究をしている。彼は戦時中シベリアで毒ガスの製造の研究をしていた。そんな部隊があったたしか442部隊だったか、それにかかわっていたが、毒ガスがばれなかったので、日本に戻ってくることができた。つまり化学の応用の専門家である。彼が新しく研究した潜水機のことを婚約者に説明する下りがある。 「中泉の研究室は八畳ぐらいの広さしかない。床の上に台があり、その上にいろいろな実験機会が並べてあった。 「簡単に原理を説明しよう」と中泉は、台の端にある小さなボンベを指さした。「この中に過酸化水素の30%液が入っている。此処には触媒、つまり過マンガン酸カリの結晶がある。この二つが出会うと酸素が発生するんだ。しかし、この酸素の中には、水蒸気が含まれている。それで、この次にある濾過機を通す。この中にはソーダ石灰という奴が入っている。ここを濾過した酸素は化学的に作られた純粋酸素だということになる。それをこの気嚢の中に入れておく。ここから管がでて人間がそれをくわえるのだ。」 アクアラングとの比較も出てくる。「ホース式の潜水について、 …大きくて、行動が自由にならない。沈没船を発見しても、狭い入口から中に入るのに骨を折るし、送気管がなにかに引っかかれば、それっきりになる。それで、送気管を持たないアクアラングが登場したのです。これならば安心してどんな格好でもできる。水の中で逆立ちをして作業もできるわけだ。このアクアラングの欠点は、時間の制約を受けることのほかに、中の人間の吐いた空気を水中に捨てているわけでしょう。この気泡の音で、魚は逃げてしまう。」「これからはスポーツとしての潜水が盛んになると思う。その意味でも、ヘルメット式は手数と金と人力が大変必要だし、アクアラングは素人には使いこなせない。僕の潜水機なら、だれでも簡単に使うことができるでしょう。薬屋に行って、オキシフルを買えばいいんだから。」 このあと、伊東の水産試験場へ行き、この潜水機とヘルメット式が潜水を競うシーンがある。 まちがわないように、これはドキュメンタリーではなくて、小説である。だから、書いてあったことが実際にあったかどうかわからない。しかし、小説家の想像だけとも思えない。実物の残骸を見た覚えがある。 化石の森の初出は1960年である。 ニッセン式が神田のYMCAプールで実験され、潜水することができた。いう。 そして、もう一つ、僕の持っている写真である。これが何処なのか、何時の撮影なのかわからない。状況から見て、ニッセン式でプールでのテストに成功していたという神田のYMCAプールではない、屋外のプールでの写真である。この写真がニッセン式だという確認はしていない。山下弥総左衛門先輩の潜水読本にあった絵とにている。 有馬頼義が「化石の森」を書いた、1960年には、まだ、ニッセン式は存在していたのだろうか。僕が神奈川県水産試験場でその残骸をみたのは、1958年だから、1953年の何回かのテストだけで終わったのだろう。もし成功していれば、1954年ごろに、水産大学の小湊実験場あたりに現れて、遅くとも、1956年あたりには、僕が、潜れる、使うことができる形のものを見ているはずだし、きっと、使ってみるチャンスもあっただろう。 これも想像だけど、人間の呼吸で正味酸素の消費はわずかなものである。呼吸袋が十分に大きければ、炭酸ガスを除去して、呼吸を何回か繰り返すこともできるし、酸素が加われば、プールで潜るくらいはできたのだろう。 化石の森、に伊東の水産試験場がでてきている。当時伊東水産試験場は、水産の潜水のメッカの一つだった。三浦定の助先輩が定置網潜水の講習をやっておられて、僕はその弟子にあたる稲葉繁雄さん親しく、彼の家に泊めてもらったこともある。その時にニッセン式のことを彼に訊いてみたら何か分かっただろう。 しかし、ともかく、だめだったことだけは明らかだ。何も残っていない。でも、東亜潜水機の僕のデスクがあった倉庫の片隅で、ニッセン式のパンフレットを見た記憶がある。白い地に、赤と青のゴシック体の字で、写真はモノクロだった。ニッセン式の水中撮影の写真はない。