左側が大同物産で輸入していたフランス製のアルミタンク
機雷処理にはタンクは非磁性でなくてはだめで、アルミであることが必須
アルミタンクについているレギュレーターは、無印で国産、
右側の多分消火器タンクについているレギュレーターがフランス製
最新ダイビング用語事典Ⅱは年表を芯にしようと計画していて、下書きの下書きと言うか、企画のための年表を作った。その年表を見ていると、次々と連想が思い浮かんでくる。掬い取てみよう。
今、日本のスクーバダイビング事始めのような部分を書いていた。1950年か、もしくは1951年に大同物産の渋谷社長が、フランスのスピロテクニックから、アクアラングを輸入したことは、周囲の状況から考えて、妥当だと前回述べた。大同物産という大きい商社もあったのだが、その大きい商社ではなくて、社長と事務員一人、二人だけの大同物産で、有楽町の国鉄(今のJR)の高架線路下のビルの一室にあった。登記所の区域が違うと、同じ名称の会社も登録できるのだという。小さい大同物産の仕事といえば、海上自衛隊に主にスクーバを納入する。他にも何かやっていたかも知れないけれど、鎌倉にお屋敷があって基本的に金持ちだったから、仕事はそれだけでも良いのだろう。フランスからの輸入は、たしかバルコム交易という会社で、渋谷社長はその取次だけで商売していた。
東亞潜水機の社員の僕は、大同物産であつかうスクーバの実質的に全ての身体を動かす仕事を東亞潜水機内でやっていた。渋谷社長は、東亞に電話して指示するだけ、フランスから輸入されてくるスピロテクニックのアクアラングは、東亞に入る。荷造りをといて、テストする。納入のときは検査官が、横須賀から東亞にやってくる。検査を受けるのは渋谷社長立会で、僕が実質的な全てをやる。渋谷社長の大同物産は何もしない。頭のいい人だ。
場合によっては、神田のYMCAのプールを借りて、検査官の前で実際にそのスクーバで潜って見せる。全数検査などというと大変だ。一人ではできない。水中造形センターの館石さん、後のマリンダイビングのボスに手伝ってもらう。その後、社員としてアシスタントの安森が入ったので、そして、館石さんも仕事が増えて、館石さんの撮影を僕が手伝うようなことがおおくなった。手伝いの地位が逆転した。
その大同物産が1950年にアクアラングを日本で初めて輸入したらしい?それほど親しくしているのだから、訊ねて確認しておけば良かった。とは言っても、渋谷社長が本当の事を言ったかどうかはわからない。証拠になる書類などを見せてもらうほどの熱心さはその頃の僕にはない。ただ、前回述べたように、幾つかの状況から、ディーツ博士の1953年ではなくて、渋谷社長の1950年、もしくは1951年の輸入というのが、最初だろう。
アクアラングは米軍も戦争の道具として使っていたから、その方面から日本に入ってきたルートもあると思うけれど、それは1953年以降だろうと思う。それ以前については証拠がない。
実技の講習は、東京水産大学のライン、海上自衛隊のライン、二つのラインがあった。その一つ、東京水産大学のラインが1953年のディーツ博士の指導であったと考えよう。、もう一つの海上自衛隊のラインは、後に親しくなり、お世話になった逸見隆吉三佐(1952年当時?)飯田三佐 が最初の講習指導の中心だったことは間違いない。
大学時代の竹下先輩
着ているウエットスーツは、ネオプレーンではなく
クストーたちが沈黙の世界で着ていたのと同じデザイン。
次の年、僕が着て、バラバラにしてしまった。糊が剥がれたのだ。
1962年。僕は横須賀基地に水中処分隊を訪ねている。大学の一期先輩で、一緒に潜水部を作った竹下徹さんは、大卒の士官候補生になり,士官になって横須賀の水中処分隊に配属されている。潜水士官の草分けだと思う。飯田三佐が初代の水中処分隊の隊長で、竹下先輩はまだなり立ての士官だが、潜水能力は抜群だから、潜る実務の隊長だったのだろう。
掃海艇「のぎく」が処分隊の船だが、米軍からの貸与だった。「のぎく」は木造船で250t小さい船である。処分する機雷は、磁気に反応して爆発するものもあるので、鉄の船ではいけないのだ。機雷を爆発させる信管は、接触して爆発する信管、音に感じるもの、磁気に感じるもの、水圧の変化に感じるものがあり、その組み合わせになっている。音を出してもいけないので、気泡を出す開放式スクーバは危ない。音を出さないが用いられるのはそのためである。しかし、そのリブリーザが国産化されて、処分隊に配属されるのは、もっと、ずいぶん後になる。機雷処分は、大抵は引っ掛けたりして、爆破するのだが、ソレができない状態では、潜水は必須であり、未だ当時は気泡の出るアクアラングが配置されるのだから、命がけである。竹下先輩は、自衛隊で命を懸けて戦争しているのは、処分隊だけだ。と胸を張っていた。
二代目の隊長が逸見さんで、 全日空の飛行機が羽田沖に落ちたときの隊長で、活躍された。退役された後は、日本海洋産業という会社で石油掘削リグの仕事などをされて、僕は随分仕事をさせてもらった。
さらに後になり、海洋産業もお辞めになった後だが、日本にスクーバが最初に入ってきたのは、大同物産で1950年だっただろうかお聞きしたのだが、はっきりした時日は覚えておいでにならないということだった。やはり類推する他ないのだろうか。
竹下先輩も退役された後は、住友海洋開発という会社から、JAMSTECに出向され、シートピア海底居住の指揮をとられた。
エピソードを一つ。1962年当時、僕と館石さんは、館石さんの実家が館山湾に面した船形で釣宿をされていたことから、館山湾内を虱つぶしに潜り歩いた。
お気に入りは、魚礁にするために沈められた水雷艇で、水雷根と呼ばれていた。そのころは水雷艇の形がしっかり残っていて、船体の中に入ることができた。水雷艇は小さい船なので、船体も小さく、中に入るのが恐ろしいくらい狭かった。中に入ると、船を沈めて置くために、割石が詰め込まれて、敷き詰められたようになっている。その石の隙間、船体の天井、などにイセエビが詰まっている。大きいイセエビが髭を動かすと、きしむような、キイキイという音がする。その音でうるさいほどだ。僕はスカリを持って入り、イセエビを手当たり次第に網の中にいれた。網から逃げ出すのも居たがそれをつかむよりも、新しいエビを掴んだほうが手っ取り早い。狭い船体の中だから、若干焦っていたかもしれない。10尾以上詰めたのが、5尾しか残っていなかった。
少し後に、同じことを期待して、イセエビを採りに潜ったが1尾の姿も見えない。竹下先輩のところに遊びに行った時、このイセエビの話をしてしまったのだ。横須賀から館山は、近い。館山湾は自衛艦の錨地でもある。聞けば、水中処分隊に処分されてしまったのだ。
さらに歲月が流れ、どうしても水雷艇をもう一度見てみたかった。館山を基地にしている水産工学研究所の調査船、たか丸で調査をしている時、2005年だったか、水雷根に潜った。水雷艇は影も形も無く、上に魚礁のブロックが落とされていて、海底に折れた鉄の板に水雷艇の丸いガラス窓が一個残っているだけだった。