お台場を一段落させて、12月18日のシンポジウムのことを書く 今度のシンポジウムでは、一つはダイビングの歴史を取り上げる。もう一つは、減圧理論と減圧表 について、2014年に改正された潜水士の規則に関連して、とりあげた。これは久保君に講演してもらう。 シンポジウムのレジュメにするために、自分がこれまで作ってきた年表をまとめた。全部エクセルで作っていたのだが、エクセルでは印刷の原稿にならない。別の文、例えばこのブログに挿入したい時もうまくできない。それに加入と入れ替えがうまくできない。エクセルのことだから、うまくやる方法があるに違いないが、今更、学ぶこともできない。エクセルからワードに項目の一つ一つをコピーペーストした。これも他にやり方があるのだろうけれど、一つ一つ確認できるので、コピペでやった。 期待通り、直したほうが良いところ、いくつかの着想を得ることができた。 なおしたとしても、この年表がそのまま最新ダイビング用語事典にはならない。基幹の一つとしてたたき台にする。シートピアについての講演をお願いする山田さんも立派な年表を作っている。うまく合わせられると良い。とにかく、最新ダイビング用語事典Ⅱの年表は、現時点でも、そして、さらに成長させて、一番信頼できる年表にしたい。 いくつかの直すところを調べる覚え書きをブログにする。 これまで、日本にアクアラング、今あるオープンサーキットスクーバが正式に紹介されたのが1953年、新聞にも掲載されたのでこれを正式としていたのだが、年表に並べてみると、明らかにもっと前からに違いない。確認する記録がないので、新聞紹介があった1953年をはじめてとしていたのだが、以下で考えてみたい。 今度のシンポジュウムの展示品として船の科学館から預かる一つ、タンクは、クストーらのグループが映画「沈黙の世界」で使ったと思われる形だ。展示するのは1本で小さいタンクであるが、映画ではこれを2本、もしくは3本連結して使っている写真がある。 1953年にディーツ博士が背負っているタンクはこれよりも後の形だ。 年表では、 1950 大同物産 渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB) が新しくできる水中処分隊(掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと言われるが未確認 1951 12月 米国でダイビング雑誌「スキンダイバー」が発刊される。 1952 クストーのアクアラングが米国で発売される。 オーストラリアのテッド・エルドレッドがシングルホースのレギュレーターを開発し販売する。 1952-53 過酸化水素によって酸素を発生させる潜水機、ニッセン式が実験されたが実用に至らなかった。 1952 教育 種市高校海洋開発科 日本で唯一ヘルメット式潜水機の訓練も含めて潜水士の養成を行っている。1952年に久慈高校種市分校に「潜水科」として創設された。 1953 米国でアクアラングを輸入していたルネ・スポーツ社がアクアラングを作っていた、スピロテクニック社に買収され、USダイバー社が誕生した。 1953 出来事 米国海洋学者、ロバート・ディーツ博士が東京水産大学小湊実習場において、アクアラングを海洋研究に使用するための運用を指導し紹介した。新聞の記録が残っている。 1954 出来事 洞爺丸海難事故に際して、当時・東亜潜水機に勤務して居た菅原久一氏がスクーバで捜索に参加した。このとき、菅原氏が試作したリブリーザーを持参したと言われているが、この時の写真を見ると、アクアラングを使用しているみたいだ。 1954 事故 東京水産大学の潜水実習で2名の死亡事故が発生する。日本でのアクアラング事故の始まりである。 1954 映画 イタリア映画 青い大陸 使っている潜水機の主体は純酸素を呼吸するリブリーザーである。 1954 指導 米国のロスアンゼルス・カウンティがブルーカード(C-カードの第一号か?)を発行した。 まず、1950年、大同物産の渋谷さんのこと、ニッポン潜水グラフィティにも渋谷社長のことは書いているが、僕が東亜に入社したその日に、渋谷さんが海上自衛隊にアクアラングのタンクを納入する検査を手伝った。それ以来、自分が退社するまで、贔屓にしていただいたが、その1950年のことを親しく訊いていない。ここにきて振り返ると、すべて、僕より一世代前の人たちが、年表に書くようなことに直接にかかわっているのに、何も聞いていない。聞いたとしても伝聞だから、正しいとは決まらないが、とにかく聞いていない。何かを書き残して行くことは、とても大事なことだと思う。今、最新ダイビング用語事典Ⅱを年表にする意味は、それである。渋谷社長は、帝国海軍のOBで、たしか大佐で終戦を迎えている。大佐というのは、終戦で米軍による追放パージにかからなかった最高位かもしれない。この人が、戦後の保安隊、今の海上自衛隊の潜水部隊、水中処分隊の創設に機材納入業者として関わっていることはまちがいない。 1950年についてはまず未確認としておいて、1951年には、米国で雑誌「スキンダイバー」が創刊している。1952年に過酸化水素を使ったニッセン式が日本で実験されている。このニッセン式だが、どこかで、カタログ、印刷されたパンフレットを見たことがある。実物を1958年、神奈川県の人工魚礁に潜水した時、神奈川県水産試験場で見ている。ビニールで作られたペラペラで、とても使える代物とは思えなかったが、すでに埃にまみれて、しまい込まれていた。もしかして、まだ神奈川県水産センターの倉庫の奥にあるのではないだろうか。
ニッセン式については、山下弥総左衛門先輩(本当に水産講習所・水産大学の前身の先輩なのだ)が1959年に書いた「潜水読本」に記述がある。この潜水読本は東亜潜水機もスポンサーになり、成山堂書店から売り出されている。僕は東亜に入社したばかりの時、この本をお得意様に発送する仕事をした。この本があるために、当時の潜水事情がよくわかる。潜水読本によれば、「ニッセン式簡易潜水機は、1953年6月、神田のYMCAプールで、実験された。旧陸軍工科学校出身の元曹長 米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉、技術中尉などのグループ5人が3年がかりで作り上げたものである。」52年ではなくて、53年6月に年表を直しておこう。過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させる。こんなもので潜水ができるわけのものではないが、もしかして、ニッセン式かと思われる写真を持っている。この写真は東京水産大学神田教授の教室にあったものを複写させてもらったもので、神田先生の後任が同級生の竹内だったことから神田先生の写真コレクションを全部複写させてもらっている。1950年代について僕の持っている写真の半数が神田教室からの複写である。その中の一枚である。これがニッセン式かどうかわからないが、リブリーザでは無いように見える。もちろんアクアラングではない。ならば何だ? 山下先輩のスケッチ ニッセン式 似ていないこともない。
ニッセン式が1952―3年だったとすれば、使えなかったにせよ、ディーツ博士の1953年と並んで、これがあったことになる。 有馬頼義という直木賞作家が1960年に「化石の森」という小説を講談社から出している。この小説の主人公が水産試験場の技師で、過酸化水素の潜水機にかかわっている。 主人公のモデルは、神奈川県水産試験場の誰かで、ニッセン式の5人のメンバーの一人かもしれない。だから、そのスクラップを神奈川県水産試験場で見たのか。 以前、水産センターに頼んで探してもらったが、スクラップは無かった。「化石の森」をアマゾンに注文した。読んでから、またブログにしよう。 とにかく、こんな日本製の新しいスクーバの動きが1953年ごろにあったとすれば、1953年をアクアラング元年にするのは、どうだろうか。水産大学では、1954年に学生のアクアラング潜水実習があり、2名が事故死している。実習を行えるだけのタンクとコンプレッサーがあった。すでに1953年には、水産大学にはコンプレッサーとタンクがあって、その使い方の指導にディーツ博士が来た、と考えるのが妥当ではないだろうか。 p 型
そして、後藤道夫の潜水の師匠である菅原久一氏は、東亜潜水機での僕の前任なのだが、東亞潜水機に1953年当時在籍していた。そして、P型、ポータブル型という酸素循環、リブリーザを作っている。これも山下弥総左衛門氏の潜水読本に、これはずいぶん詳しく掲載されている。これも、今から見れば、これで潜水して生き残れるとはおもえないのだが、とにかく1953年当時、菅原さんはこの潜水機を東亜で作りテストしていた。 1954年 洞爺丸が海難事故を起こし、その捜索に菅原さんが行っている。菅原さんは東亞潜水機にいて、そのときの荷造りをした人から僕は話を聞いている。P型を荷造りしたらしい。しかし、菅原さんの潜水研究所に残っていた洞爺丸の写真では、菅原さんはアクアラングのタンクを背負っている。P型はどうなったのだろうか。 1954年に東亞潜水機には、アクアラングもコンプレッサーも、P型潜水機もあった。1953年にディーツ博士が初めて紹介したのでは、間に合わない。 1950年、大同物産の渋谷氏はフランスからタンクとレギュレーターを輸入し、そのころのタンクが船の科学館にあった?多分、このタンクを持っていたのは菅原久一さんか? 船の科学館のコレクションは、潜水指導団体ADSの創始者であり、1967年の日本潜水会創立研修会に参加し、中部日本潜水連盟を作った望月昇さんのコレクションである。その望月さんと、僕、菅原さん亡き後の潜水研究所を後継していた山本さん、日本アクアラング社長だった上島さん、4人で宴席を持ったことがあった。その時、大串式の話がでた。 多分、望月さんはそのあたりで、潜水研究所から、大串式その他を譲り受ける話をまとめていたのではないかと想像する。 菅原さん 右
今度船の科学館のコレクションを見て、大串式のネームプレートに、「菅原久一氏寄贈」とある。望月さんは、預かっていたのだった。それとタンクが一緒になっていたとすれば、タンクも菅原氏のものだったのではないだろうか。さらに調べてみよう。
ニッセン式については、山下弥総左衛門先輩(本当に水産講習所・水産大学の前身の先輩なのだ)が1959年に書いた「潜水読本」に記述がある。この潜水読本は東亜潜水機もスポンサーになり、成山堂書店から売り出されている。僕は東亜に入社したばかりの時、この本をお得意様に発送する仕事をした。この本があるために、当時の潜水事情がよくわかる。潜水読本によれば、「ニッセン式簡易潜水機は、1953年6月、神田のYMCAプールで、実験された。旧陸軍工科学校出身の元曹長 米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉、技術中尉などのグループ5人が3年がかりで作り上げたものである。」52年ではなくて、53年6月に年表を直しておこう。過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させる。こんなもので潜水ができるわけのものではないが、もしかして、ニッセン式かと思われる写真を持っている。この写真は東京水産大学神田教授の教室にあったものを複写させてもらったもので、神田先生の後任が同級生の竹内だったことから神田先生の写真コレクションを全部複写させてもらっている。1950年代について僕の持っている写真の半数が神田教室からの複写である。その中の一枚である。これがニッセン式かどうかわからないが、リブリーザでは無いように見える。もちろんアクアラングではない。ならば何だ?
ニッセン式が1952―3年だったとすれば、使えなかったにせよ、ディーツ博士の1953年と並んで、これがあったことになる。 有馬頼義という直木賞作家が1960年に「化石の森」という小説を講談社から出している。この小説の主人公が水産試験場の技師で、過酸化水素の潜水機にかかわっている。 主人公のモデルは、神奈川県水産試験場の誰かで、ニッセン式の5人のメンバーの一人かもしれない。だから、そのスクラップを神奈川県水産試験場で見たのか。 以前、水産センターに頼んで探してもらったが、スクラップは無かった。「化石の森」をアマゾンに注文した。読んでから、またブログにしよう。 とにかく、こんな日本製の新しいスクーバの動きが1953年ごろにあったとすれば、1953年をアクアラング元年にするのは、どうだろうか。水産大学では、1954年に学生のアクアラング潜水実習があり、2名が事故死している。実習を行えるだけのタンクとコンプレッサーがあった。すでに1953年には、水産大学にはコンプレッサーとタンクがあって、その使い方の指導にディーツ博士が来た、と考えるのが妥当ではないだろうか。
そして、後藤道夫の潜水の師匠である菅原久一氏は、東亜潜水機での僕の前任なのだが、東亞潜水機に1953年当時在籍していた。そして、P型、ポータブル型という酸素循環、リブリーザを作っている。これも山下弥総左衛門氏の潜水読本に、これはずいぶん詳しく掲載されている。これも、今から見れば、これで潜水して生き残れるとはおもえないのだが、とにかく1953年当時、菅原さんはこの潜水機を東亜で作りテストしていた。 1954年 洞爺丸が海難事故を起こし、その捜索に菅原さんが行っている。菅原さんは東亞潜水機にいて、そのときの荷造りをした人から僕は話を聞いている。P型を荷造りしたらしい。しかし、菅原さんの潜水研究所に残っていた洞爺丸の写真では、菅原さんはアクアラングのタンクを背負っている。P型はどうなったのだろうか。 1954年に東亞潜水機には、アクアラングもコンプレッサーも、P型潜水機もあった。1953年にディーツ博士が初めて紹介したのでは、間に合わない。 1950年、大同物産の渋谷氏はフランスからタンクとレギュレーターを輸入し、そのころのタンクが船の科学館にあった?多分、このタンクを持っていたのは菅原久一さんか? 船の科学館のコレクションは、潜水指導団体ADSの創始者であり、1967年の日本潜水会創立研修会に参加し、中部日本潜水連盟を作った望月昇さんのコレクションである。その望月さんと、僕、菅原さん亡き後の潜水研究所を後継していた山本さん、日本アクアラング社長だった上島さん、4人で宴席を持ったことがあった。その時、大串式の話がでた。 多分、望月さんはそのあたりで、潜水研究所から、大串式その他を譲り受ける話をまとめていたのではないかと想像する。
今度船の科学館のコレクションを見て、大串式のネームプレートに、「菅原久一氏寄贈」とある。望月さんは、預かっていたのだった。それとタンクが一緒になっていたとすれば、タンクも菅原氏のものだったのではないだろうか。さらに調べてみよう。