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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1013 マスク式潜水 旭式-1

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 マスク式 続きを書いているのだがDESCO のドルフィンラングと並ぶ 先進のハイドロパックを積み残して来た。このこともブログで書いたはずだと検索してみる。くわしく書いていた。つけくわえることなどないくらい。「http://jsuga.exblog.jp/11784500/ 」  次にカービーバンドマスクこれも検索してみると自分のブログが 「http://plaza.rakuten.co.jp/sugajirou/diary/200710220000/ 」 えいつ! と、とばしてしまって、マスク式に進む。もちろんこれもブログに書いてはいるがこれはメインテーマだから、とばすわけには行かない。前に書いたこととかぶっても気にせずに書こう。
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                        旭式マスク
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 それでは、マスク式とは、どのような潜水機なのだろ。潜水士テキストが一番詳しい。自分の持っている一番古い、潜水士テキストは、S48と書いてある。昭和48年1973年の版だ。潜水士の試験が始まったのが、1962年昭和37年で、これはその時のテキストではない。最初の版も持っていて、これは大事にしなくては、と思っていたのに紛失している。失くしたことがとても残念だ。昭和48年、今手にしているテキストのときに規則が改正になり、女子も潜水士になれることになった。だから、最初の版には、女子が潜水士になれない規則が掲載されていたのだ。この48年のテキストにも書き込みがしてある。そのころは、潜水士試験講習の講師をやっていたので、そのためだ。 話は例によって余談に脱線するが、日本で初めて女性で潜水士になったのは、正田薫さんで、男装して受けに行き、薫の言う名前が男性でも使われているので、通ってしまったという伝説がある。その頃はまだ、潜水士の試験が国家試験ではなくて、委託されていたので、そういうこともあったのだろう。その後、僕は正田さんと親しくなって、CMAS(世界水中連盟)が日本の名古屋で世界大会をやった時、大会会長が、髭の三笠宮殿下で、その殿下の妃殿下と正田さんは親しく、その縁で、彼女が殿下を連れてきた。ダイバーがかなりやばい人もいたので、正田さんは、「どうしよう、須賀さん」と相談されたが、相談されてどうなるものでもない。僕自身が服飾的には潜水作業員だ。 脱線から戻って、潜水士のテキストでは、最初から、潜水機はヘルメット式潜水、軽便マスク式、そしてスキューバで、このテキストでは、「スキューバの一種のアクアラング」と言うタイトルで記述されている。アクアラングは商品名なのだが、日本ではまだアクアラングが通り名だったのだ。スキューバがスクーバになるのは、潜水士テキストでは、次の次の版、2001年の版からだ。このスキューバからスクーバへの言い換えも誰がどこで,換えたのかよくわからないが、オフィシャルには、この2001年である。 この潜水士の規則、そして制度の事を、レクリエーショナルダイビング業界ではあまり重要視していないようだが、とんでもない間違いだと思っている。レクリエーショナルダイビング業界がイニシアティブをとれないまでも、規則を左右する一角を占めていなければおかしい。完全なつんぼ桟敷、シカトされている。僕が若ければ、というと、僕がさぼっていたためにこうなったのだ、と言われてしまいそうだ。自分としても痛恨だが、いくらなんでももう遅い。
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マスク式に戻る、テキストで、マスク式は、空気嚢を取り付けたマスク式潜水機と、空気嚢を取り付けていないマスク式潜水機の二つに大別されている。呼吸嚢を取り付けたマスク式の方が右総代で、重く扱われている。呼吸嚢を取り付けたマスクは旭式と呼ばれていて、佐藤賢峻さんという方が社長である。佐藤さんはまだご存命なので、話を聞きに行かなくてはいけないのだが、気が重い。時間もない、潜水医学の大岩先生が佐藤さんとはたいへん親しかったので、大岩先生がいらっしゃれば、ご一緒してもらえるのだが、お亡くなりになってしまっている。その旭式の佐藤さんと、スクーバ潜水の菅原さん、そして潜水医学の梨本先生が、潜水士の規則の生みの親である。 この呼吸嚢のあるマスク式を作ったのは、浅利熊記さんという水産講習所の大先輩であり、その息子さんも先輩で、福島県水産試験場の場長さんをやっておられて、僕はおせわになった。その浅利さんのところに、佐藤さんは弟子入りしていて一緒にこのマスク式をつくり、後継者にもなった。浅利式、旭式、語呂合わせにはなっている。浅利さん(お父さんの)と佐藤さんは、潜水機進化の原則、空気の消費量を少なく、軽く小型に、と言う方向で、自転車の空気入れに毛の生えた程度の小さく手軽なポンプで10m程度まで潜れる事を目指した。
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1959年のドルフィンに佐藤さんが書いておられるが、昭和9年 1934年に,浅利さんと佐藤さんは、ダイヤフラムで弁を開くようはコンセプトを書いている。今のレギュレーターと同じである。これが、動くとは思えないが今のレギュレーターにあと一歩の所まで来ていたことになる。でもそれを現在の浅利式に変えたということは、呼吸嚢の方法に変えたわけだ。呼吸嚢とは、マスクの両側に象の耳のように袋がついている。ポンプで送られる空気はダイバーが吸うときだけでなくて、吐いているときにも送られてくる。吐いているときに送られてきた空気を袋にためて置いて、吸うときに、送られてくる空気にプラスすれば、空気量の節約になる。つまり吸うときに空気を送るのではなくて吐いているときに貯める。負のデマンドとでもいうべきだろうか。
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この方法が成功して、往復でピストンを押す小さいポンプで潜ることができる。随分あとになって、もうこのポンプなどどこにも見られなくなった頃、旭潜水に一台だけあったポンプを貸してもらって、茨城の海洋高校プールで水深10mまで潜ってみた。ポンプをゆっくり動かして、楽に呼吸ができて快適に潜水できた。僕はフィンを履いて、潜ってみたが、フィンを使った方が、僕の場合は楽にもぐれる。 それにしても、このマスクを浅利さん、佐藤さんが開発していた1934年は、山本式の全盛時代で、三浦定之助先輩の「潜水の友」によれば、この山本式で、50mを越す定置網で作業をしている。これは完全なデマンドバルブなのだ。その山本式が姿を消して、旭式が台頭するのはなぜなのだろうか。使ってみたことが亡いので、何とも言えないが、やはり、歯で噛んで鼻から吸うという呼吸は万人向きではなかったのだろう。少なくとも、誰でも使える潜水機ではなくて、職人にならないと使えない潜水機だったのだろう。だから、特別に深く潜る定置網作業とかでなければ、使えなかった。深く潜れば、当時のことだから潜水病は付き物だった。そんなことで、旭式は、山本式を駆逐する。潜水士テキストの1962年版には、山本式の記述は一行もない。そして、潜水士テキストには、毎分の送気量の規定があるが呼吸嚢のある潜水機は、毎分の送気量が28リットルで良く、呼吸嚢のない潜水機は、40リットルである。ただしこれは重撃でない潜水とされていて、やがては全ての潜水機が60リットルになる。
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呼吸嚢が優遇されている。やはり佐藤さんがこのテキストつくりに絡んでいる。なお、初版のテキストが出たとき、僕は東亞潜水機に勤務していて、新進気鋭?だった?その東亞潜水機と旭潜水研究所は、いろいろな事情があり、リーグが違っていた。セントラルとパシフィックだ。このテキストの原稿が東亞に送られてきて、間違いがあったら治すように、とか、意見があればおっしゃってくださいということだった。社長に任された僕は一ヶ月ぐらいかけて意見をまとめ、誤字脱字をなおした。全部無視だった。僕は若かったのだ。 もう少し、旭式マスクの事を書く。

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