ハウジング史も時系列に沿って話を進めるとわかりやすいのだが、そうすると、面倒だから、ハウジングについては、思いついたこと、写真を見たときに、それにまつわることを散発的に書こうとしている。 「須賀さんって、メモ魔ですか」と聞かれることがよくある。メモ魔だったらよいのに、メモをしていないので、思い出せないで困ることが多い。忘れることが多くなった今日この頃ではなおさらだ。 同じカメラを入れるハウジングが3台並んでいる。写真を撮るときに中に入るカメラを一緒に撮っておけばよかったのに、なんでそのくらいのことが、できないのだ、と自分が腹立たしくなる。いや、撮ったのだけれど、それがどこかに消えている。のかもしれない。 だから、たぶん?ということになるが、ビクターのKYー1900 今頃は、ビクターというよりは、JVC の方が通りがよいのだろうか。1900は、業務用のカメラだが小型であり、といっても今のカメラの10倍の大きさがあるが、小型で安い。安いと言っても40万くらいはしたのだろうか。オレンジのボディが目立つ。多く使われた。もう少し画質がよければ、なのだが、名機といえたかもしれない。 これもVTRとカメラが別々の時代だ。
何故、ハウジングが3台も並んでいるのか、そんな必要があったのか、覚えていない。手前の四角いハウジングは、特別である。 カメラのハウジングは、円筒形が基本である。オーリングという水密パッキンの特質で円筒が確実である。カメラの水没は、すべて円筒形で無いことが原因ということもできる。それなのに何故角型なのか、角型だと軽量にできる。 ビデオカメラと言うものは、永らく肩に担いで撮影したものだった。角形軽量で、ハウジングのまま肩に担いで撮影したかった。 角型は。水圧でつぶれて歪んで水没するのだが、水深3mぐらいならば大丈夫だろう。3mぐらいまで潜れて、背の立つところならば、担いで立ち上がることができて、水面の上と下を自由にワンシーンで撮れるカメラワークがしたかった。今ならばなんでも亡いことだが、それが出来るカメラはその頃(1982)にはなかった そんなことで作った軽量ハウジングだった。 このハウジングで、横井庄一と7人の美女が無人島でサバイバル生活をする番組の水中撮影をした。横井さんは、陸軍下士官でグアム島で終戦を迎えたが、日本が負けたことを信用せず、残留日本兵として、28年間グアム島で山の中に潜んでいた人だ。アメリカの捕虜になったら殺される、殺されなくても捕虜として痛い目に遭わされるという恐怖心だけで28年間もサバイバルをしていた。普通の人ではない。 その横井さん、1980年代にはもう文化人、評論家、タレントとして、幅広く活躍していたのだが、その横井さんが若い、高校生から女子大生を含めた美女たちとサバイバルをやるというスペシャル番組だ。 その頃は、メイキングということが無かったのだが、この番組の撮影は、。番組そのものよりももしもメイキングビデオを作ったら、そちらのほうがおもしろい、記憶に残るロケだった。前に一度、書いた記憶がある。 でも、もう一度書こう、と思うほどのものだ。 ロケ地はフィリピンのレガスビ。マニラのあるルソン島にあって、富士山よりもコニーデなマヨン火山で有名だ。 そのレガスピでダイビングタンクを借りて、バンカにのって無人島に向かう。のだが、バンカが珊瑚礁にぶつかってプロペラを落としてしまった。遭難である。無線など積んでいないから、漂流か?しかし、フィリピンではこういうことはよくあるらしく、予備のプロペラを持っていた。1時間のところを4時間かかって、無人島に着いた。もちろん無人島ではなくて、人は住んでいる。人を写さなければ無人島になる。 泊まった宿は、さすがに無人島だからホテルも民宿も無く、高床式の民家だ。1階の無い2階だ。竹で作られている。床が竹だから、そして毛布もないからごつごつする。洗濯板の上に寝るようなものだ。朝、4時、階下で雄鳥が時を作る。部落中の雄鳥が競って鳴くから、寝ていられない。 そして、ロケが始まると無人島の全島民が見物に出てきた。人口3000人だ。人が写ってはいけないのだから、陸上のカメラマンは難儀だ。 自動小銃を持って、ゴム草履でパタパタ歩いている怪しい男がいる。なんだあれは、と聞くと、「フリーダム・アーミーだ。」という。つまりゲリラだ。ゲリラをガードマンに雇っている。フィリピン観光局の役人、女性がお目付役に付いてきたのだが、次の日の朝には姿を消していた。殺されるので、深夜のうちに逃げた。 無人島よりもすごい島にきた。女の子一人でも誘拐されたらえらいことだ。日本人女性が誘拐されると言えば、その頃、フィリピンのエルニドで、ダイビングツアーの若い女性が、行方不明になった。今でも行方不明のままだ。詳しいことはここにはかけないが、名古屋のひとだ。 連れてきた女子高生が流産した。流産をねらって参加したらしい。よく、そういうのある。激しい運動をして流産しなければ生む、博打のようなものだ。もちろん、そんなことがわかれば連れてこないのだが、島にはお医者さんもいない。マニラに送り返した。 グループの中心は目加田頼子、後のNHKのスターアナウンサー、そのときは上智大学在学中で、帰国子女、バイリンガルで、美人で、すでにそのときには完成品に近かった。 ※「NHK 潜水撮影の半世紀」 より ダイビングも上手ではないが危なげなくできる。後に日本初の水中中継のレポーターをやる。1984年のことだ。僕のやった水中中継は1985年で、一年遅れだったから、、日本民放初になる。 目加田さん率いる、女性ダイバー連中を撮る水中撮影で、四角いハウジングが水没する。テレビのロケで、いくつかの顔面蒼白事態があるが、そのときも顔面蒼白だった。VTRとは別なので、録画は最小限度できた。やはりハウジングは、円筒形でなければだめだ。 しかし、このハウジングは後に知床で鮭の産卵を撮るときに活躍した。重いハウジングを担いで渓流を遡ったり、するときにも役に立った。水が入るものと覚悟して使っていれば、早めに気付いて、コップに半分くらいの水ならば、ハウジングが少し大きいので大丈夫だった。
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