減圧表とダイブコンピューターのこと、もう少し、まとめよう。マルチレベルのテーブルは、DCIEMは、実践ではとても使えない。と僕は思う。このマルチレベルのパターンでダイブコンピューターを使えば良いのだ。3段か4段に分けてダイビングを計画する。それぞれの段で無減圧だったら、全体も無減圧だから、それぞれの段でDEKOを出さなければ良い。段差は6mー9mで、浅い段から深い段には戻れない。最後の段は6ー3mにして、5分以上、これは安全停止に相当する。これで、ダイブコンピューターの使い方は、パーフェクトだと思う。僕でもできる。 深い段で長く過ごす計画でも、6ー9m差の短い、2ー3分の階段を作って浮上する。 これのパターンを覚えておけば、無理をしているときは、それを自覚できる。わかっていて、仕方なく無理をする、たとえばレスキューの場合などでも、自覚していれば、ある程度ブレーキがかかるので、自分の場合は大丈夫だった。 一度、こういうことがあった。水面まで浮上して、カメラを助手が手放してしまった。沈んで行くのが見えていたが、追わせなかった。水深は20m弱だった。親しい友人の鹿児島の川俣は、水深30mで、水面で工具を落とし、すぐに拾いに行って車椅子に乗ることになった。僕のカメラは、後日ガイドが拾ってくれた。 さて、これはこれで、一段落として、次は、懐かしい別表2について書こう。潜水士であれば、別表2を知らない人はいないだろう。高気圧作業安全衛生規則が始まった1961年から、2014年まで、51年間日本の高気圧作業安全衛生規則実は規則の名前も制定当時は高気圧障害防止規則の時代から規則としてあった減圧表である。 この減圧表については様々な思いが、日本の潜水士であれば、あるはずだ。僕にもたくさんの思いがある。書き出すと際限もないので、とりあえず、表そのものについて述べることにして、表にまつわる思いはまた別の機会にしよう。 誰が作ったのだろうか、たいていの減圧表は、オリジンが外国、たとえば僕たちが使ったテーブルは、米国、カナダ、英国であるが、別表第二は、国産である。しかし、誰がどのような計算式で作ったのか、発表されていない。おそらくは、1950年代から60年代にかけて、日本の減圧症の第一人者であった梨本先生が、関わって作ったものであることはまちがいない。
1950年代の真鶴、ゴムボートの向こう側で、タンクを背負って立っているのが、梨本先生だ。たしか?
梨本先生とは親しくさせていただいた。一番、印象に残っているのは、新宿ゴールデン街で飲んだことだ。梨本先生は大酒のみであった。僕の一番の親友だった石黒さん、彼にはお世話にだけなっていてなにもお返しをしていないが、その石黒さんが梨本先生のお酒のお守り役だった。ちなみに石黒さんはお酒のみではない。(彼は、日本アクアラングから、親会社の帝国酸素に行き、部長になり、最後はテイサンの子会社の社長でおわった。僕のヘリウムガスは、全部無料で石黒さんが都合をつけてくれた。)ある日、僕は、まだ酒を飲んでいた時代ではあるが、酒の席は早めに逃げることにしていたのに、なぜだか、石黒さん、僕、梨本先生の三人になった。そして、お開きになり、石黒さんが「たまには須賀さんが先生のおつき合いをしなさい。」と帰ってしまった。 それから、さらに、ゴールデン街に先生に誘われた。断るわけには行かない。それから、およそ2時間、先生は完全に潰れた。僕は先生の家をしらないのだ。たしか、八王子か立川だ。もう電車はないし、顔面蒼白になった。 とにかく、担ぎ出して、通りにでた。タクシーをとにかく止めた。タクシーで八王子あたりに向かえば、途中で意識が回復するだろう。 ところが、タクシーが止まったとたんに先生は正気になった。「須賀君、今日はどうもありがとう。また飲もう。」と足取りも確かにタクシーに乗り込んだ。 なんなのだこの先生は、もう飲まない。まあ、とにかく助かった。酒飲みは油断がならない。こういう方式でこちらの人物を測っている。石黒さんはそのことを伝えたかったのかもしれない。 なんだ。減圧表そのものの話をすると言いながら、直ちに脱線している。とにかく、日本の現在の潜水医学は、梨本先生にルーツがある。その前は慶応大学の植田先生だったかだが、植田先生は、僕の1963年の90m潜水の面倒を見てもらった。ために梨本先生から、僕の潜水は認められず、梨本先生の親友だった恩師の宇野先生が間に入ってとりもってくれた。 梨本先生は埼玉医大に移られて、それから起こる空中戦については、知らないこともないけれど、よく知らないので書かない。 そして、この別表2のすごいところは、日本で書かれた潜水医学の本で、どれもがこの表についてふれていないことだ。アルゴリズムも何もわからないと言うことは、文献がないのだ。 そして、その減圧表が規則として50年間、日本の作業潜水を支配する。 本当に支配していたのだ。僕が事故を起こしたとき、その事故は減圧表とは全く関係がないのに、RNPLを使っていたことが規則違反に問われ、真野先生にお願いして、不問にしてもらった。表が規則になるということは、そういうことなのだ。 続く
梨本先生とは親しくさせていただいた。一番、印象に残っているのは、新宿ゴールデン街で飲んだことだ。梨本先生は大酒のみであった。僕の一番の親友だった石黒さん、彼にはお世話にだけなっていてなにもお返しをしていないが、その石黒さんが梨本先生のお酒のお守り役だった。ちなみに石黒さんはお酒のみではない。(彼は、日本アクアラングから、親会社の帝国酸素に行き、部長になり、最後はテイサンの子会社の社長でおわった。僕のヘリウムガスは、全部無料で石黒さんが都合をつけてくれた。)ある日、僕は、まだ酒を飲んでいた時代ではあるが、酒の席は早めに逃げることにしていたのに、なぜだか、石黒さん、僕、梨本先生の三人になった。そして、お開きになり、石黒さんが「たまには須賀さんが先生のおつき合いをしなさい。」と帰ってしまった。 それから、さらに、ゴールデン街に先生に誘われた。断るわけには行かない。それから、およそ2時間、先生は完全に潰れた。僕は先生の家をしらないのだ。たしか、八王子か立川だ。もう電車はないし、顔面蒼白になった。 とにかく、担ぎ出して、通りにでた。タクシーをとにかく止めた。タクシーで八王子あたりに向かえば、途中で意識が回復するだろう。 ところが、タクシーが止まったとたんに先生は正気になった。「須賀君、今日はどうもありがとう。また飲もう。」と足取りも確かにタクシーに乗り込んだ。 なんなのだこの先生は、もう飲まない。まあ、とにかく助かった。酒飲みは油断がならない。こういう方式でこちらの人物を測っている。石黒さんはそのことを伝えたかったのかもしれない。 なんだ。減圧表そのものの話をすると言いながら、直ちに脱線している。とにかく、日本の現在の潜水医学は、梨本先生にルーツがある。その前は慶応大学の植田先生だったかだが、植田先生は、僕の1963年の90m潜水の面倒を見てもらった。ために梨本先生から、僕の潜水は認められず、梨本先生の親友だった恩師の宇野先生が間に入ってとりもってくれた。 梨本先生は埼玉医大に移られて、それから起こる空中戦については、知らないこともないけれど、よく知らないので書かない。 そして、この別表2のすごいところは、日本で書かれた潜水医学の本で、どれもがこの表についてふれていないことだ。アルゴリズムも何もわからないと言うことは、文献がないのだ。 そして、その減圧表が規則として50年間、日本の作業潜水を支配する。 本当に支配していたのだ。僕が事故を起こしたとき、その事故は減圧表とは全く関係がないのに、RNPLを使っていたことが規則違反に問われ、真野先生にお願いして、不問にしてもらった。表が規則になるということは、そういうことなのだ。 続く