今の高気圧作業安全衛生規則のテキストのことをかいているつもりが、そのほとんどが、昔と交錯してしまう。 1987年のルーズリーフノートがここに残っている。これに1987年の僕の潜水のすべてが詰まっている。 40歳代から50代へが僕のダイビングの頂点だった。このノートを基にして、たくさんのこと、グラフィティがかける。しかし、まずは、ダイブコンピューターのことに絞ろう。 このノートのダイブコンピューターの部分は、トラック島の沈船を潜った記録、ログである。それぞれの船に思いがあるが、そして、その映像もあるのだが、それは、あとに送ろう。 ノートに書いていない部分については、もはや、おぼろげな記憶しかないのだが、ダイブコンピューターに始めて出会った記憶が、駆逐艦追風だったように覚えている。追風のことは、ホームページにも書いているし、ブログでも書いた。その追風への一回目の潜水だった。ノートにかいている潜水ではなく、その前の回の潜水だった。この駆逐艦の位置、発見者である吉村と一緒に潜った。名古屋テレビの番組で、吉村を主人公にしたドキュメンタリーだった。 そのころ使っていったRNPLの表で65mで10分の潜水を計画し、10mで5分、5mで10分の減圧を予定した。RNPLは英国王立海軍の減圧表で、頭にロイアルのRがついている。米国の10フィート(3m)ではなくて、5m刻みの停止である。やってみるとわかるのだが、二段、3段の減圧をするときには、5m刻みがやりやすい。そして、波があると3mよりも5mの方が止まりやすい。 そして、予定通りの潜水で浮上しようとしたとき、ガイドのアンドレイを見ると、ダイブコンピューターを見ている。僕たちはまだダイブコンピューターをもっていない。トラック島のガイドの方が文化水準が高いのでは、と思った。日本にもどったらダイブコンピューターを買おうと。 僕と吉村は、トラックし島のめぼしい船全部に潜って、ビデオ撮影をして、それを桐の箱にいれて、遺族に高く売ればロケの費用がでるのではないかといい加減な企画を思いついていた。 とにかく、 トラックに行かれれば良いわけで、行くについては、自分を納得させる企画になっていれば、後は何とかなるだろう、という自分スタイルの企画だった。 日本にもどって、医科歯科大学の真野先生のところに遊びに行った時、ダイブコンピューター、アラジンの代理店のマネージャー名前を正確に覚えていないが、増なんとかさんが来ていて、ダイブコンピューターの話になった。真野先生の後援もいただいて、次のトラックの企画はダイブコンピューターのテストにもしようという話になり、僕はアラジンを買い、吉村はスントを買った。 とにかく、なんとかやりくりして、お金を作り、トラックに出かけたのは、1987年の9月で、9月2日 松丹丸:50m、9月3日 日豊丸、35m、水深はいずれもダイブコンピューターのマックスをかいている。9月4日 リオデジャネイロ丸27.2m、おなじく4日、平安丸26.6 m、9月5日 愛国丸 41、3m同じく5日 カンショウ丸 29m 、9月6日 文月37、7m、9月7日 サンフランシスコ丸、50.4m、同じ7日に神国丸25mに潜っている。9月8日 潜水艦イ69 41、4m、 同じく8日に第六雲海丸31、4m、9月9日 風が強く島陰になっている愛国丸に2回目の潜水、48、1m、9月9日に2回目の第六雲海丸 37m、同じく9日に富士川丸、9月10日は休み、9月11日もシャークアイランドで28、1m、一式陸攻(飛行機)19、1m、二式大艇 16、8mの3回潜水、そして最後の9月12日に追風 62mに潜った。
減圧停止する吉村
全部の潜水の記録があるのだが、9月9日の愛国丸、第六雲海丸に一日に2回潜水の記録を見よう。
愛国丸 予定潜水深度 50m 予定潜水時間20分 予定減圧停止は、15m:5分 10m:10分、5m:30分 実行した潜水は、10時47分に潜水開始 最大水深は48、1m 潜水時間は予定通り20分で浮上開始 減圧停止も予定通り 15m:5分 10m:10分、5m:30分、なおトラックの潜水では、5mの位置に減圧用のタンクを吊してあり、タンクを背負い換える。 なお、アラジンの表示は、6mでの減圧指示が10mの位置で消え、3mの減圧指示が5mで5分経過したときに消えた。そのために、須賀は5m30分の予定を25分で切り上げた。テーブルによる計画がかなりの余裕があることがわかった。 ノートでは11時47分に潜水終了と書いてあるが、実際の潜水では、75分で浮上している記録になっているので、終了時間が別の時計で計時されたのではないかと思う。
ダイブコンピューターの読みをプロフィールグラフにして見ている。
そして、2回目の潜水 第六雲海丸への潜水は30mを予定した。後で見るように、実際には37mまで潜っている。 予定の停止時間は、RNPLは、2回目の潜水は実際の潜水時間を2倍にすると言うことになっているので、15mで5分、10mで10分、5mで80分の停止となり、とうていつきあいきれないので、急遽米国海軍の表に変更して計画するというめちゃくちゃをやる。しかし、ダイブコンピューターがあるから、大丈夫だろう。と考えた。 潜水計画は 予定潜水深度 30m 予定潜水時間 20分だが30分として表を使う。 予定減圧停止は、 15mで5分、10mで5分 5mで20分とした。 13時55分潜水開始 実行最大水深が37mまで行ってしまった。 予定通り20分の潜水で浮上開始 15mで5分 10mで5分、5mで20分停止した。グラフを作っている。 アラジンは、5mの停止の早い時期に99がでている。 「感覚的にではあるがアラジンは速く浮上OKになりすぎる。」とコメントを書いている。 すべての潜水の解析と自分なりの考えは、今読んでもかなり参考になるが、長くなりすぎるのでここでは書かない。この時期にテーブルとダイブコンピューター2種類との比較を水深50mー60mの潜水で行ったということは、自分としては満足しているし、この潜水がその後の50mを超える潜水の基本パターンになった。 まとめて言うと、RNPLを途中で米国海軍に換えてしまうようなことをやって計画しても、ダイブコンピューターはさらに短い減圧を指示してくる。 減圧停止が計画される場合には、ダイブコンピューターは予備、あるいは緊急浮上用にしよう。 ただ、無減圧限界内で潜る場合には便利である。とその時は思った。 この時点(1987年)では、まだ、安全停止の考えは持っていない。 その後の、そして今の視点から見ると、ダイブコンピューターの指示よりも、長い減圧停止をする、テーブルによる計画が安全度が高いということができ、深い潜水はRNPLで一日一回の潜水にしておけば、安全度は高い。そして、ダイブコンピューターの無減圧限界を信用してしまうことの問題点も考えられる。深い潜水でどうかなと思うものが、無減圧限界については信用できるとする根拠はどこにもないが、この時点(1987)では、それを安全停止で補うという考えは持っていない。 この1987年の僕たちの潜水を昔の潜水、あるいは今は通用しない潜水と思われるかもしれない。僕たちは空気を呼吸して、何の問題もなく60mを越えていたし、テーブルで計画を立て、ダイブコンピューターで記録するという、今現在高気圧作業安全衛生規則で唱えていることとほぼ同じ潜水をしていた。今は、PCがあるから、簡単にプロフィールが見られる。ただ、水深40mを越えるから、今では業務の潜水はできないが、僕たちの潜水は事業者と労働者という関係の業務ではなく、自分の責任で、自分の好きな潜水をしているわけだから、今同じことをやったとしても規則違反ではないだろう。最近、古見君がトラックに通っていて追風にも潜っている。彼のことは大好きだから、そのうちに、どんな減圧をしているのか聞いて見よう。 そして、僕たちの使ったカメラは有線でビデオ信号を船上に送るカメラであり、僕と吉村は時間差で潜水して、撮影時間を長くしていた。10分遅れて、信号ケーブルをたどって潜水していけば、スムースにカメラマン交代で撮影を続けることができた。ケーブルをたどって浮いて行けば、無駄なく、迷わず、減圧停止点にもどり吊してあるタンクで呼吸する事が出来る。自分が考えてやった潜水では、安全な潜水の部類であり、だから僕は減圧症にもならなかったし、生きている。
ダイビングプロフィールなど見ると、どうかな?と思うけれど、そういう発想がなかった時代のことだ。
プロフィールをどのようにしていくかが、ダイブコンピューターによる記録の意味なのかもしれない。
続く
全部の潜水の記録があるのだが、9月9日の愛国丸、第六雲海丸に一日に2回潜水の記録を見よう。
愛国丸 予定潜水深度 50m 予定潜水時間20分 予定減圧停止は、15m:5分 10m:10分、5m:30分 実行した潜水は、10時47分に潜水開始 最大水深は48、1m 潜水時間は予定通り20分で浮上開始 減圧停止も予定通り 15m:5分 10m:10分、5m:30分、なおトラックの潜水では、5mの位置に減圧用のタンクを吊してあり、タンクを背負い換える。 なお、アラジンの表示は、6mでの減圧指示が10mの位置で消え、3mの減圧指示が5mで5分経過したときに消えた。そのために、須賀は5m30分の予定を25分で切り上げた。テーブルによる計画がかなりの余裕があることがわかった。 ノートでは11時47分に潜水終了と書いてあるが、実際の潜水では、75分で浮上している記録になっているので、終了時間が別の時計で計時されたのではないかと思う。
ダイブコンピューターの読みをプロフィールグラフにして見ている。
そして、2回目の潜水 第六雲海丸への潜水は30mを予定した。後で見るように、実際には37mまで潜っている。 予定の停止時間は、RNPLは、2回目の潜水は実際の潜水時間を2倍にすると言うことになっているので、15mで5分、10mで10分、5mで80分の停止となり、とうていつきあいきれないので、急遽米国海軍の表に変更して計画するというめちゃくちゃをやる。しかし、ダイブコンピューターがあるから、大丈夫だろう。と考えた。 潜水計画は 予定潜水深度 30m 予定潜水時間 20分だが30分として表を使う。 予定減圧停止は、 15mで5分、10mで5分 5mで20分とした。 13時55分潜水開始 実行最大水深が37mまで行ってしまった。 予定通り20分の潜水で浮上開始 15mで5分 10mで5分、5mで20分停止した。グラフを作っている。 アラジンは、5mの停止の早い時期に99がでている。 「感覚的にではあるがアラジンは速く浮上OKになりすぎる。」とコメントを書いている。 すべての潜水の解析と自分なりの考えは、今読んでもかなり参考になるが、長くなりすぎるのでここでは書かない。この時期にテーブルとダイブコンピューター2種類との比較を水深50mー60mの潜水で行ったということは、自分としては満足しているし、この潜水がその後の50mを超える潜水の基本パターンになった。 まとめて言うと、RNPLを途中で米国海軍に換えてしまうようなことをやって計画しても、ダイブコンピューターはさらに短い減圧を指示してくる。 減圧停止が計画される場合には、ダイブコンピューターは予備、あるいは緊急浮上用にしよう。 ただ、無減圧限界内で潜る場合には便利である。とその時は思った。 この時点(1987年)では、まだ、安全停止の考えは持っていない。 その後の、そして今の視点から見ると、ダイブコンピューターの指示よりも、長い減圧停止をする、テーブルによる計画が安全度が高いということができ、深い潜水はRNPLで一日一回の潜水にしておけば、安全度は高い。そして、ダイブコンピューターの無減圧限界を信用してしまうことの問題点も考えられる。深い潜水でどうかなと思うものが、無減圧限界については信用できるとする根拠はどこにもないが、この時点(1987)では、それを安全停止で補うという考えは持っていない。 この1987年の僕たちの潜水を昔の潜水、あるいは今は通用しない潜水と思われるかもしれない。僕たちは空気を呼吸して、何の問題もなく60mを越えていたし、テーブルで計画を立て、ダイブコンピューターで記録するという、今現在高気圧作業安全衛生規則で唱えていることとほぼ同じ潜水をしていた。今は、PCがあるから、簡単にプロフィールが見られる。ただ、水深40mを越えるから、今では業務の潜水はできないが、僕たちの潜水は事業者と労働者という関係の業務ではなく、自分の責任で、自分の好きな潜水をしているわけだから、今同じことをやったとしても規則違反ではないだろう。最近、古見君がトラックに通っていて追風にも潜っている。彼のことは大好きだから、そのうちに、どんな減圧をしているのか聞いて見よう。 そして、僕たちの使ったカメラは有線でビデオ信号を船上に送るカメラであり、僕と吉村は時間差で潜水して、撮影時間を長くしていた。10分遅れて、信号ケーブルをたどって潜水していけば、スムースにカメラマン交代で撮影を続けることができた。ケーブルをたどって浮いて行けば、無駄なく、迷わず、減圧停止点にもどり吊してあるタンクで呼吸する事が出来る。自分が考えてやった潜水では、安全な潜水の部類であり、だから僕は減圧症にもならなかったし、生きている。
ダイビングプロフィールなど見ると、どうかな?と思うけれど、そういう発想がなかった時代のことだ。
プロフィールをどのようにしていくかが、ダイブコンピューターによる記録の意味なのかもしれない。
続く