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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0628 僕とダイビング事故 ー1

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 ダイビングを続けておよそ60年、ダイビング事故が念頭から消えることが無い。また、消してしまうと、事故が後ろに忍び寄る。決して念頭から消してはいけない。そのことが、自分を生きながらえさせているのだと思う。。
 月刊ダイバーに日本潜水グラフィティという連載をしている。ダイビングに夢と冒険をかけていた時代の話、ということになっている。別に意識して夢と冒険を追ったわけではないが、ダイビングをするということ、それだけで夢と冒険を追うことになった時代の話だ。もちろん、今も、昔と同じようにダイビングは楽しい。もはや、夢を追う年頃ではないが、その代わりに生きていることそのものが冒険だと考えている。よく、冒険イコール危険、避けなければという人がいるが、僕は60年近く、危険を追っていたわけではない。事故が念頭から離れないということ、それが冒険ということだ。日本潜水グラフィティにも、ずいぶん事故のことを書いた。須賀潮美が構成をしてくれているが、事故のことが重なると「潜水エレジーになってしまうね。冒険小説のつもりで書いてください。」と言われる。僕が書きたいのも冒険小説であり、事故の話ではない。しかし、冒険小説的に生きると、事故がやってくる。自分の危険ではなくて、周囲の人、一緒にツアーに行く友達、自分の経営する(経営していた)潜水会社の社員に危険が訪れる。スガ・マリンメカニックは、かつて、自分の気分、社員のムードとしてスガ・マリンサーカスだと自他ともに認めていた時期があった。楽しかった。冒険会社だ。そうしたら、事故がやってきて、どうしてだかわからない理由で若い社員をうしなった。気分は180度転換してしまった。決して死なない。事故が起こってはいけないダイビングを追求するようになり、ケーブルダイビシステムという有線通話器を命索とする潜水を広めようと、有り金をはたいて、会社を作った。作業の潜水は送気式で、有線通話器の潜水だが、リサーチダイビングとレクリエーショナルダイビングでは、有線通話の安全潜水は通用しない。命綱に拘束されるのが嫌なのだ。無残にも失敗し、信用とお金を失った。
 リサーチダイビングとレクリエーショナルダイビングの本質は、危険潜水ではないけれど、冒険潜水なのだ。決して安全潜水ではありえないと悟った。綱につながれた安全よりも自由な危険が欲しいのだ。

 月刊ダイバーの日本潜水グラフィティもまだもう少し続けさせてもらえそうだが、そこでは楽しい冒険的な視点からのダイビングを、ここでは、事故を中心として、話を展開させよう。しばらく、「僕とダイビング事故」というくくりで、ブログにかきつづけるつもりだ。

 7月4日から、毎年恒例にさせてもらっている広島大学の練習船、豊潮丸の航海もはじまる。この航海記も何年も続けているので、書きたい。その他撮影のこともダイビング運用のことも書きたいので、入り組むけれど、「僕とダイビング事故」ということで検索すれば連続して見られるようにして書いて行こう。

 「僕とダイビング事故」というタイトルにしたわけは、ダイビング事故は、やはり微妙な問題であり、口にしたり書いたりすると、その結果、友達を失う。失ってもかまわない友達なのだ、と思うことにしているが、友達を無くして得することは何もない。
 そして、つい人の行動を批判してしまう。しかし、直接ダイビングに関わっている身としては、明日は我が身だ。人のやっていることを批判、批評は出来るだけしたくない。二律背反則になる。しかし、一番大事なこと、念頭から離すと忍び寄ってくる事故のことは、書いておかなくてはいけない。「僕の」つまり僕についての私見というつもりだ。


   ドライスーツ(左端、僕)が一着しかないのに、フランスで最新鋭の撮影ビークル ペガスを買った水産大学、プールでテストしたけれど、走らなかった。


 1953年に東京水産大学にアクアラングが紹介され、すぐ次の年、1954年に二人の学生が事故死する。その翌年、1955年には、潜水実習は、控えられたが、僕は、1955年に東京水産大学に入学する。潜水実習は、身体に命綱をつけてのスクーバダイバーとして1956年からは復活する。命綱をつけては、自由に魚のように泳ぐスクーバではない。大学一年生の時から、スキンダイビング、素潜りに熱中していた僕は、索付きはいやだ。そして1957年には、幸いにも索がとれた潜水実習で僕はスクーバダイビングをはじめる。
 僕の師である宇野寛先生は、1954年の実習の責任者として裁判中だった。刑事訴訟である。有罪であれば、先生は前科一犯であり学校もやめなくてはいけないだろう。僕が受ける潜水実習もどうなるかわからなかったが、裁判続行のまま潜水実習は行われた。
 1954年の事故の理由、原因はよくわからないが、訴えられていた骨子は、実習にあたって、小舟がその水面上にいなければならない取り決めになっていたらしいが、小舟が別の用事?でどこかに行ってしまって真上にいなかった。そのときに、責任者である宇野先生は現場にいなかったのだが、責任者である。それが過失致死罪になるか否かの刑事訴訟だった。
 そして、1958年、潜水実習の翌年だが、僕は4年生になり、先生の教室で論文をかいていたのだが、ある日、先生がにこにこして「須賀君、無罪だったよ。疑わしきは罰せずだということだ。」小舟が上にいれば、事故は防げたかもしれない。しかし、舟がいても事故は起こったかもしれない。舟の不在について先生は責任があるが、それが、死亡の原因であるかどうか疑わしいということだった。
 刑事訴訟はそれで終わったが、民事訴訟はある。後に聞いたところでは、学校対遺族の訴訟はあったらしい。しかし、その帰結について、当時は、学生である僕と先生の間で話題になったことはなかった。

 4年生の秋、そのころから盛んになった人工魚礁設置の調査で九死に一生の場面があった。浦賀沖、水深30m、僕は、ゴム合羽のような当時のドライスーツを着て、一人で潜った。ドライスーツが1着しかなかったのだ。海底で無理をしてエアー切れになった。折悪しく、人工魚礁に膝を突き、ピンホールが空いて、ドライスーツに浸水した。浮力を失って浮上できない。潜降索にたどりつき、索をたぐって浮上した。舟の上に引き上げられた時は呼吸停止寸前で意識が無かった。すぐに気がついたが、一年生の時から鍛えた、20m以上潜水できた素潜り能力がなければ死んでいたと僕は思い、自分も、そしてのちにダイビング部のコーチになった時も、スキンダイビング能力至上主義になった。
 ところで、その時は考えもしなかったが、もしも、僕が死んでいたなら母は先生を訴えただろうか。当時でも、いや、当時の方がバディシステムについては厳守とされていた。事情はあったにせよ、僕は一人で潜っている。二人で潜ったら、二人のうちのどちらかは死んだと僕は思っていたが、とにかく一人で潜っている。そして、水深30mは、深い。僕は今でも、母は訴えなかったにちがいないと信じているが、わからない。
 

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