今日はウエアラブルカメラサークルのキックオフなので、そのことを書きたいが、中田さんの本のことが引っかかっている。始めてしまったのだから、行き着くところに行き着かないと落ち着かない。
しつこいようだけれど、僕の論じているのはこの本、「ダイビングの事故と法的責任と問題」の字面だけで、そして、この本を書いた中田さんがおそらくこの本の影響下に消費者庁の、たぶん消費者の安全にかかわることの委員になったということから、始まっている。
ここまで、何回か書いてきたけれど、ダイビングで、自分を消費者と位置付けて、消費者安全ということで命を守ってもらおうと考えている人と、僕は一緒に潜りたくはないし、関わり合いになりたくない。本人は納得していても家族が納得しない。これについても、家族の心のケアは全力をあげなければいけないけれど、それ以上のことはできない。そして、家族の訴えにたいして、敢然と受けて立てるようなダイビングをしなければいけない。
僕と中田さんとでは、生きている国が違うのだと思う。中田さんの国では、レクリエーショナルダイバーは消費者であり、消費者として安全が守られている。消費者として、ガイドダイバーやインストラクターに生命の保証をしてもらっている。
ちょっと、ダイビングをやった人ならば、自分の命はだれも守ってくれていないことに気付くだろう。お互いに守りあうのであり、一方的に守られる消費者対事業者の関係ではない。それが僕たちの国だ。
別の国では、僕が誰かのガイドでもぐっていて、自殺して、家族が訴えれば、賠償金がもらえるのだ。ほぼこれに近い裁判に僕は付き合ったことがある。この時だけは被告側で戦った。半病人が潜水してバディから離れて死に、独り身の人で、そのお姉さんが訴えてきた。
これは例外で、あとのいくつかの訴訟は、常に原告側、事業者を訴える側の味方をした。だから、とんでもないガイドダイバーが居るし、インストラクターが居ることを承知してもいる。
だから規制が必要という考えもわかる。ダイビングのような危険な行動は基準・規制が必須である。しかし、その規制、基準は、国が定める法的基準では、役に立たない。基準は、それぞれのガイドダイバーが、インストラクターが自分に、その時、その場所に適合した形で、自分に課しているはずだ。少し前に書いたが、ダイビングはメンタルな行動で、知性と判断力が無ければできない。それぞれ、立派なガイドダイバー、立派なインストラクターは、厳しい倫理基準と知性をもっていると思う。それがなければ生き残って来られなかったし、お客も満足しないはずだ。
僕は、自分の何でもアリの性格が間接的に自分の会社の空気を作り、その空気のために、若いダイバーが一人で減圧停止をしていて死んだ。減圧停止でロープにつかまっているときは、もう安心して良い、と思う空気が彼を殺した。ダイビングについて、ストイックな厳しい環境であったならば、彼は死なないで済んだと僕は自分を責めた。以後、ダイビングについてだけは、自分の信念を貫く。酒は飲まない。ふざけた態度をとらない。
しかし、これらはすべて自己規制であり、自己基準である。ダイビングの基準、コードは、自分が決めて自分が守らなければ守れない。法的規制とは、外から自由を束縛されるものであり、そんなものが役に立つとは思えない。厳しい規制はかけられないし、緩やかな規制ならば無い方が良い。
規制として、わかりやすいのは、スタッフ比率だろう。今、一人のガイドダイバーが8人までは引率して良いということになっているらしい。これは確かに大きい比率だが、それは、背の立つような海での遊びで、1:8で、スタッフもつけないで、外の海に出るようなガイドダイバーがいれば、そんな人は誰も頼らない。
そして、1:2だったらどうなのだろう。1:2の比率で死亡事故を起こした例を、直ちにいくつかあげられる。1:2であっても、一人にしたら危ない。1:2が一番一人になりやすいとも思う。一人にしたらいけない、なったらいけないという法的規制をかけたとすれば、ガイドダイバー側としては、ゲストが、一人になった場合には、ガイドダイバーを訴えないとでもいうような法的規制がほしい。一人にしたのか、一人になったのか、判定は困難だから、最終的にはガイドダイバーの責任であるとしても、ダイビングの世界では、消費者と事業者は五分だ。その自覚を徹底させない限り、事故は減らない。自分的に言えば、事故はいくら起こっても構わない。自分のゲストだけは絶対に事故を起こさせない。守る。だから、事故を起こしそうな人は、特に注意し、なるべく早く他所に行ってもらう。これは、DNAなのだ。雑草を抜くように自分のグループから、排除しなければならない。これが僕の基準、規制であり、こんな考えを法的規制にできるわけがない。どうように、中田さんの国の基準を法的規制として、適用されることにも、反対しなければいけない。良い、悪いではない。国が違うのだ。
さて、ウエアラブルについて、
サークルの目的は、映像作りに上達することである。
9月のフォーラム、1月のシンポジウムで発表する。
今、素人の映像を見ると見ていられない。フォーマットが必要である。
①まずウエアラブルで撮ったものであること。
②作品の長さは3分以内で、原則として、30秒前後のカット、3カット以上、6カット以内で成立させる。もちろん創作は自由であるべきだが、見せられる方の苦労も考えなければ、いけない。
③編集して3分になることを考えて撮影しなければいけない。垂れ流しで撮っていても、自分の感覚としては、掴めるはず。
内部的な審査を楽しくやって、5作品程度をフォーラムで発表する。
それで、オーバーフローすれば、別に発表会をやっても良いが、映像関連だけの発表会ではない場で、見てもらうことが良いと思っている。
しつこいようだけれど、僕の論じているのはこの本、「ダイビングの事故と法的責任と問題」の字面だけで、そして、この本を書いた中田さんがおそらくこの本の影響下に消費者庁の、たぶん消費者の安全にかかわることの委員になったということから、始まっている。
ここまで、何回か書いてきたけれど、ダイビングで、自分を消費者と位置付けて、消費者安全ということで命を守ってもらおうと考えている人と、僕は一緒に潜りたくはないし、関わり合いになりたくない。本人は納得していても家族が納得しない。これについても、家族の心のケアは全力をあげなければいけないけれど、それ以上のことはできない。そして、家族の訴えにたいして、敢然と受けて立てるようなダイビングをしなければいけない。
僕と中田さんとでは、生きている国が違うのだと思う。中田さんの国では、レクリエーショナルダイバーは消費者であり、消費者として安全が守られている。消費者として、ガイドダイバーやインストラクターに生命の保証をしてもらっている。
ちょっと、ダイビングをやった人ならば、自分の命はだれも守ってくれていないことに気付くだろう。お互いに守りあうのであり、一方的に守られる消費者対事業者の関係ではない。それが僕たちの国だ。
別の国では、僕が誰かのガイドでもぐっていて、自殺して、家族が訴えれば、賠償金がもらえるのだ。ほぼこれに近い裁判に僕は付き合ったことがある。この時だけは被告側で戦った。半病人が潜水してバディから離れて死に、独り身の人で、そのお姉さんが訴えてきた。
これは例外で、あとのいくつかの訴訟は、常に原告側、事業者を訴える側の味方をした。だから、とんでもないガイドダイバーが居るし、インストラクターが居ることを承知してもいる。
だから規制が必要という考えもわかる。ダイビングのような危険な行動は基準・規制が必須である。しかし、その規制、基準は、国が定める法的基準では、役に立たない。基準は、それぞれのガイドダイバーが、インストラクターが自分に、その時、その場所に適合した形で、自分に課しているはずだ。少し前に書いたが、ダイビングはメンタルな行動で、知性と判断力が無ければできない。それぞれ、立派なガイドダイバー、立派なインストラクターは、厳しい倫理基準と知性をもっていると思う。それがなければ生き残って来られなかったし、お客も満足しないはずだ。
僕は、自分の何でもアリの性格が間接的に自分の会社の空気を作り、その空気のために、若いダイバーが一人で減圧停止をしていて死んだ。減圧停止でロープにつかまっているときは、もう安心して良い、と思う空気が彼を殺した。ダイビングについて、ストイックな厳しい環境であったならば、彼は死なないで済んだと僕は自分を責めた。以後、ダイビングについてだけは、自分の信念を貫く。酒は飲まない。ふざけた態度をとらない。
しかし、これらはすべて自己規制であり、自己基準である。ダイビングの基準、コードは、自分が決めて自分が守らなければ守れない。法的規制とは、外から自由を束縛されるものであり、そんなものが役に立つとは思えない。厳しい規制はかけられないし、緩やかな規制ならば無い方が良い。
規制として、わかりやすいのは、スタッフ比率だろう。今、一人のガイドダイバーが8人までは引率して良いということになっているらしい。これは確かに大きい比率だが、それは、背の立つような海での遊びで、1:8で、スタッフもつけないで、外の海に出るようなガイドダイバーがいれば、そんな人は誰も頼らない。
そして、1:2だったらどうなのだろう。1:2の比率で死亡事故を起こした例を、直ちにいくつかあげられる。1:2であっても、一人にしたら危ない。1:2が一番一人になりやすいとも思う。一人にしたらいけない、なったらいけないという法的規制をかけたとすれば、ガイドダイバー側としては、ゲストが、一人になった場合には、ガイドダイバーを訴えないとでもいうような法的規制がほしい。一人にしたのか、一人になったのか、判定は困難だから、最終的にはガイドダイバーの責任であるとしても、ダイビングの世界では、消費者と事業者は五分だ。その自覚を徹底させない限り、事故は減らない。自分的に言えば、事故はいくら起こっても構わない。自分のゲストだけは絶対に事故を起こさせない。守る。だから、事故を起こしそうな人は、特に注意し、なるべく早く他所に行ってもらう。これは、DNAなのだ。雑草を抜くように自分のグループから、排除しなければならない。これが僕の基準、規制であり、こんな考えを法的規制にできるわけがない。どうように、中田さんの国の基準を法的規制として、適用されることにも、反対しなければいけない。良い、悪いではない。国が違うのだ。
さて、ウエアラブルについて、
サークルの目的は、映像作りに上達することである。
9月のフォーラム、1月のシンポジウムで発表する。
今、素人の映像を見ると見ていられない。フォーマットが必要である。
①まずウエアラブルで撮ったものであること。
②作品の長さは3分以内で、原則として、30秒前後のカット、3カット以上、6カット以内で成立させる。もちろん創作は自由であるべきだが、見せられる方の苦労も考えなければ、いけない。
③編集して3分になることを考えて撮影しなければいけない。垂れ流しで撮っていても、自分の感覚としては、掴めるはず。
内部的な審査を楽しくやって、5作品程度をフォーラムで発表する。
それで、オーバーフローすれば、別に発表会をやっても良いが、映像関連だけの発表会ではない場で、見てもらうことが良いと思っている。